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二宮にのみや春久はるひさ

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二宮にのみや春久はるひさ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん えいただし8ねん1511ねん
死没しぼつ ぶんろく2ねん12月27にち1594ねん2がつ17にち
改名かいめい 二宮にのみやぶくざいまる幼名ようみょう)→二宮にのみや春久はるひさ
官位かんい 土佐とさまもる
主君しゅくん 毛利もうり元就もとなりりゅうはじめ輝元てるもと
氏族しぞく 清和せいわはじめ頼信よりのぶりゅう逸見いつみ庶流二宮にのみや
父母ちちはは ちち二宮にのみやけいせいははさかい三郎兵衛さぶろべえむすめ
つま 正室せいしつ矢田やたもとつうむすめ
側室そくしつさかいろうみぎ衛門えもんむすめ
就辰はるさだおんな甲田こうだあまりさん兵衛ひょうえしつ)、もとかがみ
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二宮にのみや 春久はるひさ(にのみや はるひさ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう毛利もうり家臣かしん嫡男ちゃくなん二宮にのみや就辰

生涯しょうがい

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えいただし8ねん1511ねん)、二宮にのみやけいせい嫡男ちゃくなんとしてまれる。

だいひさし2ねん1522ねん3月6にち安芸あきこく寺原てらはらたい吉川よしかわきょうけい武田たけだ信重のぶしげたたかったさい祖父そふ二宮にのみや光信みつのぶちちけいせい吉川よしかわいてたたかったが、とも戦死せんしした。当時とうじまだ幼少ようしょうであった春久はるひさ以後いご安芸あきこく高田たかだぐん井原いはらはは養育よういくされることとなった。成長せいちょうした春久はるひさ武勇ぶゆう器量きりょうがあるとききおよんだ毛利もうり元就もとなりされ、毛利もうり家臣かしんとなる。

天文てんもん9ねん1540ねん)9がつ鎗分・太田おおたこうたたかにおいて尼子あまこ晴久はるひさぐんたたかったとき春久はるひさやりをもっててきぐんけ、てき武功ぶこうげた。その恩賞おんしょうとして三反田さんたんだあたえられた。

天文てんもん15ねん1546ねん)に嫡男ちゃくなん就辰まれたが[1]、『ばつ閲録』によれば、就辰の実父じっぷ元就もとなりとされ、元就もとなり正室せいしつであるみょう死去しきょすうヶ月かげつ誕生たんじょうしたとされる。しかし元就もとなりとしては正室せいしつ病床びょうしょうにある手前てまえ側室そくしつ元就もとなり出産しゅっさんすることは体面たいめんわるかったため、妊娠にんしん7ヶ月かげつ側室そくしつ矢田やた備後びんごこく矢田やたもとつうむすめ)を春久はるひさつかわし、そのに就辰が誕生たんじょうしたという。いずれにしても就辰は春久はるひさとして養育よういくされることとなる。

ぶんろく2ねん1593ねん12月27にち死去しきょ享年きょうねん83。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 就辰の生年せいねんについては、『ばつ閲録』におさめられている二宮にのみやいえ記述きじゅつ異同いどうがあるため天文てんもん15ねん1546ねん)と天文てんもん18ねん1549ねん)の2せつがある。

参考さんこう文献ぶんけん

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