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京極きょうごくだかひね

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
京極きょうごくだかひね
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 天保てんぽう9ねん9月22にち1838ねん11月8にち
死没しぼつ 明治めいじ26ねん1893ねん5月13にち?
別名べつめい 采女うねめ右近うこん通称つうしょう
官位かんい したがえ備中びっちゅうもり
主君しゅくん 明治天皇めいじてんのう
はん 丹後たんご峰山みねやまはんあるじ
氏族しぞく 京極きょうごく
父母ちちはは 京極きょうごくこうおさむ京極きょうごく高富たかとみ
つま 笹田ささだ
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京極きょうごく だかひね(きょうごく たかのぶ)は、丹後たんごこく峰山みねやまはんだい12だい最後さいご)の藩主はんしゅ通称つうしょう采女うねめ右近うこん官位かんいしたがえ備中びっちゅうもり

経歴けいれき

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幕臣ばくしん京極きょうごくこうおさむ次男じなんとして誕生たんじょうした。

慶応けいおう4ねん1868ねん)2がつ12にち、11だい峰山みねやま藩主はんしゅ京極きょうごく高富たかとみ養子ようしとなり、同年どうねん3がつ20日はつか京都きょうと養父ようふ名代なだいとして明治天皇めいじてんのう拝謁はいえつし、同年どうねん5がつ28にち家督かとく相続そうぞくした。同年どうねん6がつ14にちしたがえ備中びっちゅうもり叙任じょにんされる。明治めいじ2ねん1869ねん)6がつ23にち峰山みねやまはん知事ちじ任命にんめいされ、明治めいじ4ねん1871ねん)7がつ14にち廃藩置県はいはんちけんにより罷免ひめんされ、同年どうねん9がつ28にち東京とうきょううつった。明治めいじ6ねん1873ねん)3がつ28にち海軍かいぐんしょう出仕しゅっしし、水兵すいへい本部ほんぶ所属しょぞくとなる。同年どうねん5がつ30にち海軍かいぐん少尉しょうい任命にんめいされる。明治めいじ9ねん1876ねん)9がつ30にち隠居いんきょ明治めいじ14ねん1881ねん)7がつ9にち離縁りえんとなる(実家じっか復籍ふくせきか?)。

明治めいじ26ねん(1893ねん)5がつ13にちに56さい死去しきょしたとされるが、異説いせつもある。「峰山みねやま郷土きょうど」(うえ)には先述せんじゅつ年月日ねんがっぴぼっし、墓所はかしょ峰山みねやままち吉原よしわらやす泰山たいざんつねたててらとあって、『さん百藩藩主人名事典』3もこの記述きじゅつ引用いんようしている。しかし『平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい』によると、1893ねん5がつ13にち死去しきょしたのはこうひねの2だい当主とうしゅこう高富たかとみのもう1人ひとり養子ようし)で、こうひね没年ぼつねん記述きじゅつされていない。

系譜けいふ

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 江戸えど幕臣ばくしん人名じんめい辞典じてん」2より「京極きょうごく靭負ゆきえこう
  • 華族かぞく明細めいさい短冊たんざく東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょぞう。これには「きゅう幕府ばくふ小姓こしょう京極きょうごく淡路あわじもりほろび次男じなん」(じつ祖父そふ記述きじゅつなし)
  • 丹後たんご峰山みねやま京極きょうごく東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさん所蔵しょぞう。これには「靭負ゆきえだかきょうおとうと
  • 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせいじょう(1996ねん かすみ会館かいかん)には「京極きょうごくだかきの二男つぎお」とある。
  • 峰山みねやま郷土きょうどじょう(1963ねん 同町どうちょう、1985ねん 臨川りんせん書店しょてん復刊ふっかん)にも「靭負ゆきえだかきょうおとうと
  • 峯山みねやま旧記きゅうき御料ごりょうしょ日記にっき」(1940ねん 龍灯りゅうとうしゃ、1979ねん 世界せかい聖典せいてん刊行かんこう協会きょうかい復刊ふっかん)にも「靭負ゆきえだかきょうおとうと
  • 峰山みねやまはん知事ちじ京極きょうごくだかひね履歴りれき」(京都きょうと府立ふりつ京都きょうとがくれきいろどりかんぞう宮津みやづ藩政はんせい記録きろく」383)には「実父じっぷまつ京極きょうごくよもぎやまげんだか」(じつ祖父そふ記述きじゅつなし)とある。