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伊藤宗印 (2代) - Wikipedia コンテンツにスキップ

伊藤いとうはじめしるし (2だい)

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だい伊藤いとうはじめしるし(にだい いとう そういん、1655ねんうけたまわおう4ねん[ちゅう 1] - 1723ねん12月28にちとおる8ねん12月2にち))は江戸えど時代じだい将棋しょうぎ将棋しょうぎ家元いえもとさんいえ一家いっかである伊藤いとうだい当主とうしゅせい名人めいじんぜん鶴田つるたまぼろしあん文献ぶんけんによってはげんぞう)。

伊藤いとう初代しょだい当主とうしゅ初代しょだい伊藤いとうはじめ養子ようし伊藤いとうしるしたちだん)、ななせい名人めいじんさんだい伊藤いとうはじめはちだい大橋おおはしそうかつら伊藤いとうそう寿ひさし)(はちだん)、伊藤いとうじょななだん)、初代しょだい伊藤いとう寿ことぶき贈名おくりなじん)のちち伊藤いとうとく寿ことぶきさんだいむね早世そうせい)、きゅうだい大橋おおはしそうかつら伊藤いとう寿ひさしさんだい伊藤いとう寿ことぶき)の祖父そふななだい伊藤いとうはじめ寿ことぶき祖父そふ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

肥前ひぜんこく唐津からつ出身しゅっしん幼少ようしょうころむねやしなわれ、将棋しょうぎわざにつけたという[ちゅう 2]

元禄げんろく2ねん1689ねん)、初代しょだいむねたく五代ごだい大橋おおはしそうかつらみぎとされで対戦たいせん勝利しょうりしたという。

元禄げんろく3ねん1690ねん)に、伊藤いとうはじめ養子ようしとしてしろ将棋しょうぎ出仕しゅっし

元禄げんろく4ねん1691ねん)、養父ようふむね引退いんたいし、伊藤いとうぐ。名人めいじん大橋おおはし本家ほんけ五代ごだい大橋おおはしそうかつら就位しゅういした。

大橋おおはし分家ぶんけさんだい大橋おおはしはじめあずかとは次期じき名人めいじんをめぐって競合きょうごう関係かんけいにあり、しろ将棋しょうぎでのむねしるし対戦たいせん30のうち24むねあずかとの対戦たいせんである。なお、元禄げんろく3ねんむねあずかとのひだり落戦が『しろ将棋しょうぎとめ』の棋譜きふ記録きろくされた最初さいしょ対戦たいせんとなっている。その対戦たいせんではやぶれたものの、平手ひらてでの対戦たいせんではむねあずかつね勝利しょうりした。

元禄げんろく11ねん1698ねん)、長男ちょうなんしるしたちまれる。

元禄げんろく13ねん1700ねん)に献上けんじょう図式ずしきである『ぞうおどけ図式ずしき』を開板かいはんはやししんたかしじょされている。

宝永ほうえい6ねん1709ねん)、長男ちょうなんしるしたちだんしろ将棋しょうぎはつ出勤しゅっきんする。このとしにはだいそうかつら養子ようしろくだい大橋おおはしはじめぎんはつ出勤しゅっきんしている。なお、同年どうねん10がつ10日とおかより、しるしたちそうぎんとがこのみ対局たいきょくおこなった。この勝負しょうぶ当初とうしょじゅうばん程度ていどわる予定よていであったが長引ながび宝永ほうえい8ねん1711ねん)2がつ28にちまでじゅうななばんおよび、後世こうせいに「じゅうななばんし」とばれるまでになった。最後さいごしるしたちそうぎんていかくちまでむなどあつだおし36しょう23はい成績せいせきわった。しかし、この過酷かこく勝負しょうぶしるしたちそうぎん両者りょうしゃからだむしばみ、その寿命じゅみょうちぢめたとされる。

正徳まさのり元年がんねん1711ねん)、伊藤いとう家門かもん宮本みやもとしるししゅんとう)と有浦ありうらしるし政春まさはる)が将軍しょうぐん徳川とくがわ家宣いえのぶ召出めしだされ、べいひゃくじゅうひょうたまものあずかされている。同年どうねんしろ将棋しょうぎしるしたちそうぎん平手ひらて対戦たいせんし、後手ごてしるしたち勝利しょうりする(この対戦たいせんじゅうななばんしにふくまれない)。これがしるしたち最後さいごしろ将棋しょうぎとなった。

正徳しょうとく2ねん1712ねん)9がつ長男ちょうなんしるしたち死去しきょする。同年どうねんしろ将棋しょうぎそうしるしそうぎんかくちで対戦たいせんやぶれる。これがそうぎん最後さいごしろ将棋しょうぎとなる。正徳しょうとく3ねん1713ねんうるう5がつ22にち名人めいじんだい大橋おおはしはじめかつらくなり、そうしるし名人めいじんかさねくらいする。大橋おおはし本家ほんけそうぎんまましいだが同年どうねん8がつ22にち死去しきょしてしまう。

とおる7ねん1722ねん)、最後さいごしろ将棋しょうぎ出勤しゅっきん大橋おおはし分家ぶんけ大橋おおはしはじめみんさんだいむねあずかよんだいむねあずか)とのかく落戦にやぶれる。

とおる8ねん1723ねん)に死去しきょ法名ほうみょう金龍きんりゅういんむねしるし日歩ひぶ墓所はかしょ東京とうきょう墨田すみだ本法ほんぽうてら

近年きんねん研究けんきゅうによると、すで生前せいぜんさんだい大橋おおはしはじめあずか将棋しょうぎしょゆずっていたという。

はな村元むらもとつかさによると、「はちふん局面きょくめん主導しゅどうけんにぎって将棋しょうぎむのが得意とくい棋風きふう」であったという。『将棋しょうぎ営中日記にっき』においては5げられている。

門下もんかには宮本みやもと有浦ありうらほかはら喜右衛門きうえもんがいる。はら偽作ぎさく棋譜きふあつめた『ぞうおどけ名将めいしょうかん』の出版しゅっぱんられるが、素行そこう不良ふりょうのため破門はもんされたという。

詰将棋つめしょうぎ[編集へんしゅう]

詰将棋つめしょうぎでは献上けんじょう図式ずしきである『ぞうおどけ図式ずしき』(俗称ぞくしょう将棋しょうぎいさみりゃく)のほかに『将棋しょうぎ精妙せいみょう』(すべなりふく作品さくひんで、「らずひゃくばん」の異名いみょうがある)、がある。

前者ぜんしゃ一部いちぶ添田そえたはじめ太夫たゆうさくではないかという指摘してきがある。添田そえた当時とうじ有力ゆうりょく棋客ききゃく一人ひとり詰将棋つめしょうぎすぐれたきょくつめしゅうである『ぞうおどけ秘曲ひきょくしゅう』のほか1753ねんたかられき3ねん)に開板かいはんした『ぞうおどけ洗濯せんたく作物さくもつしゅう』がある。なお、添田そえた伊藤いとう門下もんかで、そうしるしとの競作きょうさく部分ぶぶん存在そんざいしたのではないかという指摘してきがある。

後者こうしゃ没後ぼつご135ねん安政あんせい5ねん開板かいはんされており、じょしたはちだい伊藤いとうはじめしるしは「生涯しょうがいに2ひゃくばん作図さくずのこした人物じんぶつまれである」ととなえているが、そうしるしのオリジナルかどうか疑問ぎもんたれている。また、巻末かんまつだい99ばんだい100ばんは、たまかた妙手みょうしゅがあってつめとなる「のが」という趣向しゅこうっている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 加藤かとう治郎じろう日本にっぽん将棋しょうぎ大系たいけい だい3かん 五代ごだい大橋おおはしそうかつらそうぎんしるしたち』(筑摩書房ちくましょぼう、1978ねん
    • 山本やまもととおるかいひととその時代じだいさんだい大橋おおはしそうかつら大橋おおはしはじめぎん伊藤いとうしるしたち)」(同書どうしょ253ぺーじ所収しょしゅう
  • はな村元むらもとつかさ日本にっぽん将棋しょうぎ大系たいけい だい4かん だい伊藤いとうはじめしるしさんだい大橋おおはしはじめあずか』(筑摩書房ちくましょぼう、1978ねん
    • 山本やまもととおるかいひととその時代じだいよんだい伊藤いとうはじめしるしさんだい大橋おおはしはじめあずか)」(同書どうしょ247ぺーじ所収しょしゅう
  • もり雞二日本にっぽん将棋しょうぎ大系たいけい別巻べっかん1 図式ずしきしゅう じょう』(筑摩書房ちくましょぼう、1979ねん
    • 山本やまもととおるかい図式ずしきしゅう じょう じん作品さくひん」(同書どうしょ241ぺーじ所収しょしゅう
  • あずま公平こうへいよみがえ江戸えど将棋しょうぎ だい12かい』(『近代きんだい将棋しょうぎ』2005ねん10がつごう80ぺーじ)、『よみがえ江戸えど将棋しょうぎ だい13かい』(『近代きんだい将棋しょうぎ』2005ねん11がつごう78ぺーじ
  • 茶屋ちゃやのきさん西條さいじょう耕一こういち江戸えど名人めいじん」(『将棋しょうぎ世界せかい』2011ねん6がつごう154-158ぺーじ、および2011ねん7がつごう150-154ぺーじ所収しょしゅうかいおも参照さんしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 従来じゅうらい生年せいねんあきらかでなかったため、子供こども年齢ねんれいなどをもと推定すいていして寛文ひろふみ10ねん1670ねん)から寛文ひろふみ14ねん1674ねんごろまれではないかと推定すいていされてきたが(たとえば、将棋しょうぎいさみりゃく伊藤いとう紹介しょうかいなど)、近年きんねん墓碑ぼひ過去かこちょう調査ちょうさから享年きょうねんが69(かぞどし)、すなわち1655ねんまれであることが判明はんめいした。
  2. ^ 五代ごだい大橋おおはしそうかつら年代ねんだい不明ふめい棋譜きふに、鶴田つるた万三郎まんざぶろうという人物じんぶつとのかく落戦がのこっており、万三郎まんざぶろうまぼろしあん幼名ようみょうだと推定すいていされることもある。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]