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伊藤いとうさとひらた

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊藤いとう さとひらたいとう ごうへい
生誕せいたん 1906ねん10月6にち
長野ながのけん伊賀いがりょうむらげん飯田いいだ北方ほっぽう
死没しぼつ (1984-08-28) 1984ねん8がつ28にち(77さいぼつ
愛知あいちけん岡崎おかざき
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
研究けんきゅう分野ぶんや 地理ちりがく
研究けんきゅう機関きかん 愛知教育大学あいちきょういくだいがく
出身しゅっしんこう 東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく地理ちり学科がっか
おも受賞じゅしょうれき くんとう瑞宝章ずいほうしょう
プロジェクト:人物じんぶつでん
テンプレートを表示ひょうじ

伊藤いとう さとひらた(いとう ごうへい、1906ねん10月6にち - 1984ねん8がつ28にち)は、日本にっぽん地理ちり学者がくしゃ理学りがく博士はかせだい4だい愛知教育大学あいちきょういくだいがくちょう

愛知あいちけん地方ちほう計画けいかく委員いいんかい会長かいちょう矢作川やはぎかわ流域りゅういき開発かいはつ研究けんきゅうかい会長かいちょうなどをつとめ、地域ちいき開発かいはつ計画けいかく立案りつあん推進すいしんおおきな業績ぎょうせきのこした[1]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

長野ながのけん伊賀いがりょうむらげん飯田いいだ北方ほっぽう)にまれた。旧制きゅうせい飯田いいだ中学ちゅうがく長野ながのけん飯田いいだ高等こうとう学校がっこう)をて、1930ねん昭和しょうわ5ねん東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう卒業そつぎょう1936ねん昭和しょうわ11ねん)、東京文理科大とうきょうぶんりかだいがく理学部りがくぶ地理ちり学科がっか卒業そつぎょう[2]

東京とうきょう青山あおやま師範しはん学校がっこう東京とうきょう女子じょし師範しはん学校がっこう立正大学りっしょうだいがくなどで教鞭きょうべんをとり、東京とうきょう視学しがくかんとなる。戦後せんご長野ながのけん須坂すざか高等こうとう学校がっこうちょうつと[3]1951ねん昭和しょうわ26ねん)に愛知あいち学芸がくげい大学だいがくげん愛知教育大学あいちきょういくだいがく教授きょうじゅとなる。1955ねん昭和しょうわ30ねん)、農業のうぎょう地域ちいき農業のうぎょう労働ろうどうりょく需給じゅきゅう全国ぜんこくてき研究けんきゅうにより東京文理科大とうきょうぶんりかだいがくから理学りがく博士はかせ授与じゅよされた。研究けんきゅう成果せいか地域ちいき社会しゃかいへの還元かんげんおおく、1957ねん昭和しょうわ32ねん)から7年間ねんかん愛知あいちけんのうやま漁村ぎょそん振興しんこう委員いいんかい専門せんもん委員いいんとしてのう山村さんそん指導しどうたった[2]学会がっかい地理ちりがく報告ほうこく』を創刊そうかんするなど出版しゅっぱん活動かつどうおおった。1954ねん昭和しょうわ29ねん)にあらわした『地方ちほう都市とし研究けんきゅうあたらしい豊橋とよはし―』ははんかさね、ことによくまれた。

愛知あいち学芸がくげい大学だいがく発足ほっそく当初とうしょから、名古屋なごや分校ぶんこう岡崎おかざき分校ぶんこうあいだ本部ほんぶ位置いちめぐってはげしいあらそいがおこなわれていた。1949ねん昭和しょうわ24ねん)9がつ19にち本部ほんぶ岡崎おかざき決定けっていしたのちも、名古屋なごやがわ後期こうき4ねん課程かてい設置せっちめぐってまなべだい後期こうき誘致ゆうち期成きせい同盟どうめい結成けっせいするなど反対はんたい運動うんどうつづけた[4]1966ねん昭和しょうわ41ねん7がつ14にち教授きょうじゅかいは、大学だいがく移転いてん統合とうごうさき刈谷かりや井ヶ谷いがやまちとする小木曾おぎそこう学長がくちょう見解けんかい承認しょうにん[5]。ここにいたって尾張おわり三河みかわあいだこうそう終息しゅうそくした。

1967ねん昭和しょうわ42ねん6月14にち愛知教育大学あいちきょういくだいがくだい4だい学長がくちょう就任しゅうにん[6]

1969ねん昭和しょうわ44ねん8がつ22にちどう大学だいがく岡崎おかざき分校ぶんこうにおいて全学ぜんがく闘争とうそう委員いいんかいぜん通用つうようもんにバリケードをてる。同年どうねん11月25にちには期限きげんストライキに突入とつにゅう[7]激化げきかした大学だいがく闘争とうそう学長がくちょうとして対処たいしょした。1970ねん昭和しょうわ45ねん)4がつ刈谷かりやへの統合とうごう移転いてん完了かんりょう[8]

1971ねん昭和しょうわ46ねん)、矢作川やはぎかわ流域りゅういき開発かいはつ研究けんきゅうかい組織そしきして会長かいちょうとなり、「流域りゅういきひとつ、運命うんめい共同きょうどうたい」を提唱ていしょうして流域りゅういきぜん市町村しちょうそん住民じゅうみん連帯れんたいかん育成いくせい運動うんどう地域ちいき活性かっせい推進すいしんした[2]同年どうねん6月13にち学長がくちょう退任たいにん[6]

伊藤いとう学長がくちょう退任たいにん岡崎おかざき明大めいだい寺町てらまちみち城ケ入じょうがいり[1]市政しせい発展はってんふか寄与きよした。岡崎おかざき総合そうごう計画けいかく審議しんぎかい会長かいちょう(1973ねん~)[9]岡崎おかざきへんさん委員いいんかいふく会長かいちょう(1977ねん~)、岡崎おかざき市民しみん合唱がっしょうだん団長だんちょう(1978ねん8がつ結成けっせい[10]岡崎おかざき市政しせい顧問こもん(1980ねん~)[11]岡崎おかざき額田ぬかた地区ちく広域こういき市町村しちょうそんけん協議きょうぎ会長かいちょうなどを歴任れきにんした。

1977ねん昭和しょうわ52ねん)11月、くんとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょう1978ねん昭和しょうわ53ねん)、日本にっぽん地理ちり学会がっかい名誉めいよ会員かいいん推挙すいきょされた。

1984ねん昭和しょうわ59ねん8がつ28にちクモまく出血しゅっけつのため市立しりつ岡崎おかざき病院びょういん死去しきょ[1]。77さいぼつ1985ねん昭和しょうわ60ねん7がつ1にち岡崎おかざき名誉めいよ市民しみん推挙すいきょされる[11]

おも編著へんちょしょ[編集へんしゅう]

  • 長野ながのけんしん日本にっぽん書院しょいん、1950ねん6がつ5にち 
  • 地方ちほう都市とし研究けんきゅうあたらしい豊橋とよはし―』古今ここん書院しょいん、1954ねん11月25にち 
  • 現代げんだい社会しゃかい地理ちりがく大明だいめいどう、1965ねん4がつ16にち 
  • 社会しゃかい発展はってん地理ちりがく大明だいめいどう、1971ねん6がつ17にち 
  • 中京ちゅうきょうけん大明だいめいどう、1972ねん6がつ11にち 
  • 地理ちりがく報告ほうこく愛知教育大学あいちきょういくだいがく地理ちり学会がっかい学会がっかい。1952ねん7がつ6にち創刊そうかんごう発行はっこう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 新編しんぺん 岡崎おかざき 総集編そうしゅうへん 20』新編しんぺん岡崎おかざきへんさん委員いいんかい、1993ねん3がつ15にち 
  • 宮川みやがわりんやまへんぜん岡崎おかざき知名ちな人士じんしろく東海とうかい新聞しんぶんしゃ、1962ねん6がつ1にち