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佐藤 匡玄(さとう きょうげん、1902年5月19日 - 1993年10月7日)は、日本の東洋学者、教育者。第2代愛知学芸大学(現・愛知教育大学)学長、東方文化研究所研究員、
建国大学助教授などを務めた。
愛知県豊橋町または豊岡村に生まれる(現在の豊橋市東田町)[1]。京都帝国大学文学部支那哲学科卒業。1935年(昭和10年)、第三高等学校講師となる。
1938年(昭和13年)から2年間、文部省文化事業部在支特別研究員として中国に留学した。1940年(昭和10年)、東方文化研究所研究員を命ぜられる。1941年(昭和16年)、満州国の建国大学助教授に就任。東洋文化の解明に学究的情熱を傾注した[1]。
終戦まで建国大学に在職。1949年(昭和24年)に発足した愛知学芸大学(現・愛知教育大学)の教授となり東洋学を担当。1957年(昭和32年)4月17日、論文「論衡の研究 」により京都大学文学博士号を授与[2]。厚生部長、学生部長を歴任。
1959年(昭和34年)5月15日、同大学学長選挙の決選投票が行われる。候補者は3選を狙う内藤卯三郎と佐藤。投票資格のある166人(名古屋分校63人、岡崎分校103人)が投票を行い、佐藤86票、内藤78票、無効2票で佐藤が当選した[3]。6月14日、第2代学長に就任。1963年(昭和38年)6月13日、学長を退任[4]。1965年(昭和40年)、同大学名誉教授に就任。
1993年(平成5年)10月7日、死去。91歳没。