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佐伯さえきじょうたね

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佐伯さえき じょうたね
1867ねん7がつ26にち - 1952ねん11月23にち
生地きじ 日本の旗 日本にっぽん 奈良ならけん斑鳩いかるがまち(きゅう法隆寺ほうりゅうじむら)
ぼつ 日本の旗 日本にっぽん 大阪おおさか
宗旨しゅうし 法相ほうしょうむね聖徳せいとくむね
寺院じいん 法隆寺ほうりゅうじ
千早ちはやじょうあさ
弟子でし 橋本はしもとしこりたね佐伯さえきりょうけん大西おおにしりょうけい澤木さわききょうどうこうほか
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佐伯さえき じょうたね(さえき じょういん、慶応けいおう3ねん6月25にち1867ねん7がつ26にち) - 昭和しょうわ27ねん1952ねん11月23にち)は、日本にっぽん法相ほうしょうむね聖徳せいとくむね僧侶そうりょ仏教ぶっきょう学者がくしゃ法相ほうしょうむね管長かんちょう。のちに聖徳せいとくむねおこす。大僧正だいそうじょう学士がくしいん会員かいいん

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1867ねん奈良ならけん法隆寺ほうりゅうじむらげん斑鳩いかるがまち)にまれる。1876ねん(明治めいじ9ねん)、10さい法隆寺ほうりゅうじかんぬし千早ちはやじょうあさ弟子でしとして出家しゅっけ得度とくどする。京都きょうと泉涌寺せんにゅうじ唯識ゆいしき・倶舎をおさめる。27さいときていあさ法隆寺ほうりゅうじ学問がくもんてらとしての伝統でんとう復興ふっこうのため設立せつりつした勧学かんがくいんにおいて講義こうぎ担当たんとうした。

1903ねん(明治めいじ36ねん)、37さい法隆寺ほうりゅうじかんおも就任しゅうにんする。103せいかんぬしとして40年間ねんかんつとめた。在任ざいにん期間きかんちゅうの 1921ねん(大正たいしょう10ねん)、聖徳太子しょうとくたいし没後ぼつご1300ねん記念きねんし、聖徳太子しょうとくたいし奉賛ほうさんかい組織そしきする。佛教ぶっきょう研究けんきゅうしゃとしても精力せいりょくてき活動かつどうし、1929ねん(昭和しょうわ4ねん)4がつ22にちには帝国ていこく学士がくしいん会員かいいんとなった[1]。また、 1934ねん(昭和しょうわ9ねん)からは 法隆寺ほうりゅうじ昭和しょうわだい修理しゅうりはじめ、これは以降いこう50ねんにわたるだい事業じぎょうとなる。しかし1949ねん(昭和しょうわ24ねん)1がつ26にち法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどうから壁画へきが消失しょうしつ翌年よくねんの1950ねんには 金堂こんどう壁画へきが消失しょうしつ責任せきにんってかんぬし辞任じにんした。辞任じにん長老ちょうろうとなり、後任こうにんの104せいかんぬし佐伯さえきりょうけん就任しゅうにんした。

1950ねん(昭和しょうわ25ねん)に法相ほうしょうむね離脱りだつし、法隆寺ほうりゅうじ本山ほんざんあらたに聖徳せいとくむねひらく。

1952ねん(昭和しょうわ27ねん)11月23にち入院にゅういんさき大阪大学おおさかだいがく付属ふぞく病院びょういん死去しきょ。85さい

功績こうせき[編集へんしゅう]

  • 明治めいじ時代じだい廃仏毀釈はいぶつきしゃくおとろえていた唯識ゆいしき法相ほうしょうおしえを再興さいこうした学僧がくそう法隆寺ほうりゅうじ勧学かんがくいんひらかれた唯識ゆいしき講義こうぎには宗派しゅうはえておおくの僧侶そうりょ聴講ちょうこうしにた。また、東京大学とうきょうだいがくでも講義こうぎしている。せんもん僧侶そうりょけの講義こうぎ難解なんかいさをきわめたが、宗派しゅうはえて聴聞ちょうもんするものおおかった。一般いっぱん信徒しんとけのなつひゃくにち講義こうぎ非常ひじょうくだいた平易へいいかたくちであったという。
  • 戒律かいりつたもち、肉食にくしょくをとらず、生涯しょうがい独身どくしんつらぬいた。

エピソード[編集へんしゅう]

  • その講義こうぎがあまりにも難解なんかい佐伯さえきしたろうと挨拶あいさつわか僧侶そうりょに「わからなくとも、せんにちきながせ」とった。
  • 金堂こんどう壁画へきが消失しょうしつしたときには、まだ鎮火ちんかしていないどうなかに、弟子でしはねめにしてめるのをってもうとした。金堂こんどうあと呆然ぼうぜんちすくんでいる佐伯さえき写真しゃしんのこっている。
  • 廃仏毀釈はいぶつきしゃくにより荒廃こうはいした法隆寺ほうりゅうじ再建さいけんくし、宮大工みやだいく西岡にしおか常吉つねきち婿養子むこようし西岡にしおかならこうまご西岡にしおか常一つねいちらを保護ほご育成いくせいした。その意味いみでも飛鳥ひちょうからつたわる寺院じいん建築けんちく技術ぎじゅつ継承けいしょうおこなった功績こうせきおおきい。

弟子でし[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • ふちだま自適じてきしゅう法隆寺ほうりゅうじ, 1964ねん
  • 玄奘三蔵げんしょうさんぞう師資ししでん叢書そうしょ中野なかのたちとし共著きょうちょ
  • くにやく一切経いっさいきょう 和漢わかん撰述せんじゅつ だい33』大東だいとう出版しゅっぱんしゃ, 1962ねん
  • くにやく一切経いっさいきょう. 和漢わかん撰述せんじゅつ だい34』大東だいとう出版しゅっぱんしゃ, 1962ねん
  • くにやく大蔵経だいぞうきょう. ろん だい1-15かん国民こくみん文庫ぶんこ刊行かんこうかい, 大正たいしょう8-10
  • 聖徳せいとく皇太子こうたいし共著きょうちょ古今ここん書院しょいん昭和しょうわ7ねん
  • 聖徳太子しょうとくたいしまねべ 』共著きょうちょ信濃毎日新聞しなのまいにちしんぶん, 昭和しょうわ9ねん
  • 聖徳太子しょうとくたいし憲法けんぽう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ, 昭和しょうわ18ねん
  • かちかずらけいこうさん仏教ぶっきょう奉仕ほうしかい, あきら14ねん
  • しん体制たいせい国民こくみん講座こうざだい2-10輯、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ, 昭和しょうわ16-17ねん
  • しんしるべなり唯識ゆいしきろんせいしょうがく聖典せいてん刊行かんこうかい, あきら15ねん
  • じゅうななじょう憲法けんぽう大乗だいじょう仏教ぶっきょう教学きょうがくきょく, 昭和しょうわ14ねん
  • ていたね長老ちょうろう遺墨いぼく法隆寺ほうりゅうじ, 1966ねん
  • 世界せかい聖典せいてん全集ぜんしゅうぜんだい1いたり15,こうだい1いたり15 / 世界せかい聖典せいてん全集ぜんしゅう刊行かんこうかい. -- 改造かいぞうしゃ, 昭和しょうわ4-5ねん
  • 仏説ぶっせつ盂蘭盆うらぼんけいこうさん共著きょうちょ渾沌こんとんしゃ出版しゅっぱん, 昭和しょうわ10ねん
  • 法華経ほけきょう法話ほうわ共著きょうちょ あらわどう書院しょいん, あかり43.10
  • 法相ほうしょうそうかなめ丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ, 大正たいしょう6
  • 唯識ゆいしき三類境義本質私記』共著きょうちょ法隆寺ほうりゅうじ勧学かんがくいん同窓会どうそうかい
  • 『維摩詰所つめしょ説経せっきょうもりこう書店しょてん, 1937ねん

論文ろんぶん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 官報かんぽうだい692ごう昭和しょうわ4ねん4がつ23にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]