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はちじょうりゅうゆう

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はちじょうりゅうゆう
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 寛政かんせい7ねん1がつ7にち1795ねん2がつ25にち
死没しぼつ 明治めいじ5ねん5月24にち1872ねん6月29にち[1]
官位かんい せいけん大納言だいなごん
主君しゅくん ひかりかく天皇てんのう仁孝天皇にんこうてんのう孝明天皇こうめいてんのう明治天皇めいじてんのう
氏族しぞく はちじょう
父母ちちはは ちちはちじょうりゅうあやははいえ女房にょうぼう
兄弟きょうだい みょううみいんしんいんりゅうゆう
つま 西にし四辻よつつじこういんむすめ
りゅうこえあいひめ祐子ゆうこ
テンプレートを表示ひょうじ

はちじょう りゅうゆう(はちじょう たかさち / たかよし)は、幕末ばくまつから明治めいじ公卿くぎょう孝明天皇こうめいてんのう諡号しごうかんさるしゃ[2]

ちち参議さんぎはちじょうりゅうあや[1]つまひだり近衛このえけん中将ちゅうじょう西にし四辻よつつじこういん長女ちょうじょ[3]あいひめはちじょうたかしごえ[1]

経歴けいれき

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安政あんせい5ねん3がつ1858ねん)、日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつ勅許ちょっきょあんめぐり、中山なかやま忠能ただやす大炊おおい御門みかど家信かしん広幡ひろはたちゅうれい四辻よつつじこう正親町おおぎまち三条さんじょうみのるあい正親町おおぎまちみのるとく三条西さんじょうにし季知すえとも日野ひのむね庭田にわた重胤しげたね中院なかのいんとおるとみ橋本はしもとみのるうらら野宮のみやじょういさおともに、案文あんぶん変更へんこうもとめた[4][ちゅう 1]

慶応けいおう4ねんうるう4がつ21にち1868ねん6月11にちけん大納言だいなごんにんぜられ、翌日よくじつ辞退じたいしている[1]

年譜ねんぷ

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著作ちょさくぶつ

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系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 明治維新めいじいしん人名じんめい辞典じてん』786ぺーじでは、安政あんせい勤王きんのうはちじゅうはち廷臣ていしん一人ひとりとされているが、東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょホームページ「維新いしん史料しりょう綱要こうようデータベース」では該当がいとうしない。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 公家くげ事典じてん』608ぺーじ
  2. ^ 明治維新めいじいしん人名じんめい辞典じてん』786ぺーじ
  3. ^ 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい下巻げかん、363ぺーじ
  4. ^ 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょホームページ「維新いしん史料しりょう綱要こうようデータベース」。

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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