劉りゅう 幹みき(りゅう かん、生なま没年ぼつねん不ふ詳しょう)は、中国ちゅうごく三さん国こく時代じだいの蜀しょく漢かんの政治せいじ家か。荊州南郷なんごう郡ぐんの出身しゅっしん。
司つかさ塩しお校こう尉じょうの王おう連れんが良りょう才ざいを持もつ者ものを選抜せんばつして属官ぞっかんに任用にんようした時とき[1]、呂りょ乂・杜もり祺と共ともに招聘しょうへいされ、典てん曹都と尉じょうに任命にんめいされる。
親交しんこうのある呂りょ乂らと共ともに高たかい評判ひょうばんを得えて、官位かんいは巴ともえ西にし太守たいしゅにまで昇のぼったが、倹約けんやく・質素しっそで法ほうを遵守じゅんしゅすることでは呂りょ乂に及およばなかったという。