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加田かだ哲二てつじ

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加田かだ 哲二てつじ
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん 加田かだ 忠臣ちゅうしん(ちゅうしん)
1895ねん11月26にち
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう
死没しぼつ (1964-04-24) 1964ねん4がつ24にち(68さいぼつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく理財りざい
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 社会しゃかいがく
経済けいざいがく
植民しょくみん政策せいさくがく
研究けんきゅう機関きかん 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく
山口大学やまぐちだいがく
日本にっぽん大学だいがく
博士はかせ課程かてい指導しどう学生がくせい 武村たけむら忠雄ただお
学位がくい 経済けいざいがく博士はかせ
称号しょうごう 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ
おも業績ぎょうせき マルクス研究けんきゅう
保護ほご貿易ぼうえき提唱ていしょうして、慶大けいだい学生がくせい思想しそう影響えいきょうあたえる。
主要しゅよう作品さくひん明治めいじ初期しょき社会しゃかい経済けいざい思想しそう』(岩波書店いわなみしょてん、1962ねん)多数たすう
学会がっかい 昭和しょうわ研究けんきゅうかい
だい日本にっぽん言論げんろんほう国会こっかい
東亜とうあ経済けいざいブロック研究けんきゅうかい
民主みんしゅ社会しゃかい主義しゅぎ連盟れんめい
脚注きゃくちゅう
生粋きっすい江戸えど和服わふくこのんでていた。
読売新聞よみうりしんぶん論説ろんせつ委員いいんであった。(1952ねん)
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加田かだ 哲二てつじ(かだ てつじ、1895ねん明治めいじ28ねん11月26にち - 1964ねん昭和しょうわ39ねん4がつ24にち)は、大正たいしょう昭和しょうわ時代じだい植民しょくみん政策せいさくがくもの言論げんろんじん社会しゃかい学者がくしゃ東亜とうあ協同体きょうどうたいろんもの経済けいざいがく博士はかせ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく経済学部けいざいがくぶ名誉めいよ教授きょうじゅ昭和しょうわ研究けんきゅうかい委員いいんだい日本にっぽん言論げんろんほう国会こっかい理事りじ本名ほんみょう忠臣ちゅうしん(ちゅうしん)。

経歴けいれき

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東京とうきょうまれる。

きょうはな中学ちゅうがく卒業そつぎょう1919ねん大正たいしょう8ねん)3がつ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく理財りざい卒業そつぎょう卒業そつぎょう論文ろんぶんは「アダム・スミスの価値かち学説がくせつ研究けんきゅう[1]である。同年どうねんどう大学だいがく経済学部けいざいがくぶ奉職ほうしょくする。生粋きっすい江戸えどでもっぱら和服わふくとおした。経済けいざいがくおよ社会しゃかいがく研究けんきゅうのために、イギリスドイツフランスアメリカに3ねん予定よてい留学りゅうがく実際じっさいには2ねん4ヵ月かげつあいだベルリンごしイギリスではロンドンケンブリッジなどでおもごして帰国きこく

1920年代ねんだい本格ほんかくてきマルクス研究けんきゅう開始かいし三木みききよしらとともに昭和しょうわ研究けんきゅうかい活躍かつやくすることになる加田かだは、マルクス主義まるくすしゅぎ影響えいきょうつよけてはいたが、狭義きょうぎマルクス主義まるくすしゅぎしゃではなく、またナチズムたいしては批判ひはんてきではあった。社会しゃかいがく、ドイツ経済けいざい学説がくせつ研究けんきゅうよりてんじて近代きんだい日本にっぽん社会しゃかい思想しそう研究けんきゅう着手ちゃくしゅし『明治めいじ初期しょき社会しゃかい経済けいざい思想しそう』(岩波書店いわなみしょてん)を執筆しっぴつ

にちちゅう戦争せんそうには昭和しょうわ研究けんきゅうかい東亜とうあ経済けいざいブロック研究けんきゅうかいのメンバーとなり、「東亜とうあ協同体きょうどうたいろん」の論客ろんかくとなった。輸入ゆにゅう制限せいげんくわえて自国じこく産業さんぎょう保護ほごし、日本にっぽんにおける外国がいこく商人しょうにん活動かつどう抑制よくせいするために外人がいじん内地ないち雑居ざっきょ反対はんたい保護ほご貿易ぼうえきとなえ、慶大けいだい学生がくせい思想しそう影響えいきょうあたえた[2]だい東亜とうあ戦争せんそう開戦かいせん慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく亜細亜あじあ研究所けんきゅうじょ設置せっちされると、加田かだはその研究けんきゅう部長ぶちょう就任しゅうにん。そのころから海軍かいぐんに招ばれてだい東亜とうあ経済けいざい建設けんせつかんして諮問しもんけるようになる。

終戦しゅうせん言論げんろんほう国会こっかい理事りじ就任しゅうにんしていたため公職こうしょく追放ついほう。のち経済けいざいがく博士はかせとなったが、教職きょうしょく追放ついほう解除かいじょされたのち加田かだ慶應義塾けいおうぎじゅくもどってこなかった。戦後せんご加田かだ福澤ふくさわ諭吉ゆきち思想しそう研究けんきゅうにいっそうむようになったのをみて周囲しゅういものたちがなに返答へんとうしたらよいか一瞬いっしゅんまよったこともあったという[3]

1952ねん昭和しょうわ27ねん)に山口大学やまぐちだいがく教授きょうじゅ同年どうねん5がつより読売新聞よみうりしんぶん論説ろんせつ委員いいん1954ねん昭和しょうわ29ねん)より日本にっぽん大学だいがく経済学部けいざいがくぶ教授きょうじゅとなる。加田かだ経済けいざい研究所けんきゅうじょちょう民主みんしゅ社会しゃかい主義しゅぎ連盟れんめい設立せつりつ委員いいん会員かいいんなどをもつとめた。

著作ちょさく

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  • 社会しゃかいがく概論がいろん慶応義塾けいおうぎじゅく出版しゅっぱんきょく 1928ねん
  • ナチスの基礎きそ 1940ねん
  • 日本にっぽん経済けいざい学者がくしゃはなし 1942ねん
  • 社会しゃかいがく序說じょせつ 1934ねん
  • 日本にっぽんファッシヅムろん 1932ねん
  • 日本にっぽん國家こっか社会しゃかい主義しゅぎ批判ひはん 春秋しゅんじゅうしゃ 1932ねん11月20にち
  • 維新いしん以後いご社会しゃかい経済けいざい思想しそう槪論 1934ねん
  • 日本にっぽん社会しゃかい経済けいざい思想しそう 1962ねん
  • 近代きんだい日本にっぽん性格せいかく 1952ねん
  • 植民しょくみん政策せいさく 1940ねん
  • 轉換期てんかんき政治せいじ經濟けいざい思想しそう 慶應けいおう書房しょぼう 1940ねん1がつ17にち
  • 社会しゃかい思想しそう 1942ねん
  • 西洋せいよう経済けいざい学者がくしゃはなし 1942ねん
  • なにむべきか 1941ねん
  • 社會しゃかい 1940ねん
  • 政治せいじ経済けいざい民族みんぞく 1940ねん
  • 福沢ふくさわ諭吉ゆきち神田かんだ孝平たかひらしゅう 1936ねん
  • 社会しゃかいがく講話こうわ岩崎いわさき書店しょてん 1948ねん
  • 西洋せいよう経済けいざい学者がくしゃ 1947ねん
  • 戦争せんそう本質ほんしつろん 1942ねん
  • 経済けいざい価値かちろん 1921ねん
  • 亜細亜あじあいち、なり 1958ねん
  • 現代げんだい経済けいざい戦争せんそう 1942ねん
  • 日本にっぽん経済けいざい発展はってん 1960ねん
  • 新生しんせいアジアの全貌ぜんぼう 1955ねん
  • 日本にっぽん国家こっか主義しゅぎ発展はってん 1940ねん
  • インタアナショナルの理論りろん 1932ねん
  • 世界せかい経済けいざい体制たいせい 1938ねん
  • 如何いかにしてまなぶべきか 1950ねん
  • 明治めいじ初期しょき社会しゃかい経済けいざい思想しそう 1937ねん
  • ウィリアム・モリス評伝ひょうでん 1922ねん
  • 日本にっぽん労働ろうどう運動うんどう日本にっぽん経済けいざい復興ふっこう協会きょうかい 1957ねん
  • 思想家しそうかとしての福澤ふくさわ諭吉ゆきち 1958ねん
  • 太平洋たいへいよう経済けいざい戦争せんそうろん 1941ねん
  • 国民こくみん主義しゅぎ国際こくさい主義しゅぎ 1932ねん
  • 人種じんしゅ民族みんぞく戦争せんそう  慶應けいおう書房しょぼう 1940ねん6がつ28にち

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ Bibliographical Database of Keio Economists - 人物じんぶつ詳細しょうさい”. bdke.econ.keio.ac.jp. 2023ねん1がつ2にち閲覧えつらん
  2. ^ 社會しゃかい思想しそう』P,188
  3. ^ 昭和しょうわ研究けんきゅうかい』p,359