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台湾たいわん民主みんしゅこく

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台湾たいわん民主みんしゅこく
台灣たいわん民主みんしゅこく (中国ちゅうごく)
清朝統治時代の台湾 1895ねん - 1895ねん 日本統治時代の台湾
台湾の国旗 台湾の国章
国旗こっき国璽こくじ
台湾の位置
台湾たいわん民主みんしゅこく位置いち
首都しゅと 台北たいぺい(1895ねん5がつ-6がつ
たいみなみ(1895ねん6がつ-10がつ
総統そうとう
1895ねん5がつ - 6がつ からけい
1895ねん6がつ - 10月りゅう永福えいふく
変遷へんせん
宣言せんげん 1895ねん5がつ24にち
消滅しょうめつ1895ねん10がつ23にち
通貨つうかきよし国元くにもと
台湾たいわん歴史れきし
台湾の歴史
台湾たいわん年表ねんぴょう
先史せんし時代じだい
オランダ統治とうち時代じだい
(1624-1662)
てい政権せいけん (1662-1683)
清朝せいちょう統治とうち時代じだい (1683-1895)
台湾たいわん民主みんしゅこく (1895)
日本にっぽん統治とうち時代じだい (1895-1945)
中華民国ちゅうかみんこく統治とうち時代じだい (1945-現在げんざい)
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台湾たいわん民主みんしゅこく(たいわんみんしゅこく)とは、にちしん戦争せんそう直後ちょくご大日本帝国だいにっぽんていこくによる領有りょうゆう反対はんたいするぐん官民かんみんによって台湾たいわんてられた一時いちじてき政権せいけん名称めいしょうである。1895ねん下関しものせき条約じょうやく調印ちょういん列強れっきょう干渉かんしょう拡大かくだいさせて日本にっぽんへの台湾たいわん割譲かつじょう阻止そししようとする、きよしくにがわ外交がいこうてきうごきのなかまれた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

台湾たいわん民主みんしゅこくはフランスの支援しえん過大かだい期待きたいして独立どくりつ宣言せんげんしたものであったが[1]ロシアドイツフランスイギリスのいずれもがさんこく干渉かんしょうでの日本にっぽん譲歩じょうほすで満足まんぞくしており、しょ外国がいこくからの承認しょうにんられなかった。

そのまま台湾たいわん民主みんしゅ国軍こくぐん台湾たいわん上陸じょうりくしてきた北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのうひきいる[2]日本にっぽん近衛このえ師団しだん迎撃げいげきするも、台湾たいわん民主みんしゅこく首脳しゅのうじん逃亡とうぼう相次あいついだ。北洋ほくよう大臣だいじん鴻章こうしう戦争せんそう再発さいはつおそれて早々そうそう日本にっぽんがわ要求ようきゅうれ、6月2にち樺山かばやま台湾たいわん総督そうとくとのあいだ台湾たいわん授受じゅじゅ手続てつづきを終了しゅうりょうさせたため、台湾たいわん自立じりつによる割譲かつじょう阻止そしさく失敗しっぱいし、台湾たいわん民主みんしゅこくやく5カ月かげつ崩壊ほうかいした[1]。ただしその崩壊ほうかい時期じきについては諸説しょせつある(後述こうじゅつ)。

11月18にち台湾たいわん総督そうとくによる全島ぜんとう平定へいてい宣言せんげんいたるまでの戦闘せんとうを、清国きよくにがわおつ戦争せんそうぶが、日本にっぽんがわにちしん戦争せんそう掃討そうとうせんにちしん戦争せんそう一部いちぶ)とみなして、台湾たいわん平定へいてい台湾たいわん鎮定ちんてい[3]あるいは台湾たいわん征討せいとう呼称こしょうする。

りゃく[編集へんしゅう]

にちしん戦争せんそう敗北はいぼくしたきよしくには、下関しものせき条約じょうやくにより台湾たいわんおよび澎湖諸島しょとう日本にっぽん割譲かつじょうした。これは台湾たいわん在住ざいじゅうしゃまったらされずに締結ていけつされ、下関しものせき条約じょうやくによって台湾たいわん在住ざいじゅうしゃ日本人にっぽんじんとなることが決定けっていした。

しかし日本にっぽん台湾たいわん領有りょうゆうさらにみなみきよし侵攻しんこうすることをおそれた清国きよくにひろ(ここう)総督そうとくちょうほららの策動さくどうもあり、そのなか清国きよくにじんであった当時とうじ官僚かんりょうからけいおか逢甲一部いちぶ住民じゅうみん協力きょうりょく1895ねん5月23にち台湾たいわん民主みんしゅこく独立どくりつ宣言せんげん発表はっぴょう、24にちには各国かっこく翻訳ほんやくちゅう台湾たいわん各国かっこく領事館りょうじかん通知つうちしている。そして25にち独立どくりつ式典しきてん実施じっし台湾たいわん民主みんしゅこく成立せいりつ宣言せんげんした。

独立どくりつ式典しきてんでは、からけい総統そうとう日本語にほんごでは大統領だいとうりょう)に選出せんしゅつするとともに、青地あおじとらとらはた国旗こっきさだめ、えいきよし改元かいげん[2]行政ぎょうせい立法りっぽう機関きかんさだめ、紙幣しへい郵券ゆうけん発行はっこうし、布告ふこく島民とうみんはっし、国家こっか体系たいけいととのえた[4]当時とうじ台湾たいわんだいいち富豪ふごうであったはやし維源国会こっかい議長ぎちょう推戴すいたいするが、はやしはこれを拒否きょひ、100まんりょうしん政府せいふ献金けんきんしたのち27にちには廈門に逃亡とうぼうした。

5月29にち日本にっぽんぐんが澳底(現在げんざい新北しんきたみつぎりょう)に上陸じょうりくすると、傭兵ようへい主体しゅたいとしていた民主みんしゅ国軍こくぐん総崩そうくずれとなり、6月3にちにはもとたかし占拠せんきょされてしまう。これによりしん政府せいふ空中くうちゅう分解ぶんかいよく4にちにはからけい崧は老婆ろうば変装へんそうし、公金こうきんってドイツ商船しょうせんのアーター (Arthur) ごう乗船じょうせんして廈門に逃亡とうぼうしてしまう[注釈ちゅうしゃく 1]

からけい崧が逃亡とうぼうしたことで、台湾たいわんじんは6がつ下旬げじゅんたいみなみ大将軍だいしょうぐんりゅう永福えいふくだいだい台湾たいわん民主みんしゅこく総統そうとう選任せんにんした。後世こうせい史家しかはこれをたいみなみ共和きょうわ (Tainan Republic) やだい共和きょうわ (Second Republic) としょうすることもある。[よう出典しゅってん]

りゅう永福えいふく総統そうとう就任しゅうにんして3カ月かげつあいだ民主みんしゅこく日本にっぽんぐんあいだ戦闘せんとうかえされたが、にちしん戦争せんそういた日本にっぽんぐんと、傭兵ようへい主体しゅたいかずにもおと台湾たいわん民主みんしゅ国軍こくぐんでは実力じつりょくちがっていた。りゅう永福えいふく台湾たいわんとう南部なんぶ抵抗ていこうつづけたが10がつ下旬げじゅんには中国ちゅうごく逃亡とうぼう[2]日本にっぽんぐんたいみなみ安平あびら陥落かんらくさせた。ここに台湾たいわん日本にっぽんによって平定へいていされ、この台湾たいわん民主みんしゅこく台湾たいわんじん日本にっぽんぐんとのたたかいは台湾たいわん平定へいていばれる。

ただし台湾たいわん民主みんしゅこく滅亡めつぼうは、からけい逃亡とうぼう5月27にち)とするせつりゅう永福えいふく逃亡とうぼうとするせつ[注釈ちゅうしゃく 2]台湾たいわん民主みんしゅこく旗印はたじるしによる最後さいご戦闘せんとう1896ねん2がつ)とするせつ[注釈ちゅうしゃく 3]など諸説しょせつある。

編成へんせい[編集へんしゅう]

台湾たいわん民主みんしゅこくふたつの参加さんかしゃ区分くぶんすることができる。ひとつはからけい崧以台湾たいわんしょう時代じだいからの官吏かんり台湾たいわんせきものであり、もうひとつは台湾たいわん出身しゅっしん帰省きせいちゅう現役げんえきしゃからなるしんである。後者こうしゃ台湾たいわんじんの「おおやけ」を代表だいひょうする役割やくわりになった。

とう台湾たいわん総統そうとう就任しゅうにんすると、清国きよくに時代じだいからの文武ぶんぶかん去就きょしゅうあきらかにさせたところ、文官ぶんかんではぬのせい使けんしゅうことごとく本土ほんど帰還きかん表明ひょうめいした。武官ぶかんでは幇弁台湾たいわんぼうつとむいていた福建ふっけんみず総督そうとく楊岐めずらし台湾たいわん鎮総へいまん国本こくほんらが部隊ぶたい帰国きこくした。このため下級かきゅう官吏かんりたちがおおきく出世しゅっせすることとなった。

5月25にち発布はっぷされた諭告ゆこくによれば、「ただちにまず議院ぎいん設立せつりつし、議員ぎいんおおやけきょして、律令りつりょう章程しょうていつまびらかにさだめ」とされ、式典しきてん当日とうじつおおやけきょおこなわれた。議長ぎちょうにははやし維源えらばれたが、はやし辞退じたいした。民主みんしゅ国内こくない文献ぶんけん存在そんざいしないが、状況じょうきょう証拠しょうこからおか逢甲ふく総統そうとうとされる。

台湾たいわん民主みんしゅこく年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

  • 5月23にち:「台湾たいわん民主みんしゅこく自主じしゅ宣言せんげん発表はっぴょう
  • 5月25にち:台湾たいわん民主みんしゅこく総統そうとうからけい就任しゅうにん台湾たいわん民主みんしゅこく正式せいしき成立せいりつえいきよし改元かいげん
  • 5月29にち:近衛このえ師団しだんが澳底より上陸じょうりく
  • 5月30にち:からけい崧がれい民主みんしゅこく部隊ぶたいたいみず芳龍ほうりゅう潭堵およもとたかし獅球みね砲台ほうだい防衛ぼうえい命令めいれい
  • 6月1にち:清国きよくに代表だいひょう経芳つねよし日本にっぽん代表だいひょうかばにより台湾たいわん割譲かつじょう成立せいりつ民主みんしゅこく議長ぎちょうはやし維源廈門へ逃亡とうぼう
  • 6月3にち:獅球みね砲台ほうだいもとたかし陥落かんらく民主みんしゅ国軍こくぐん崩壊ほうかい
  • 6月4にち:からけい崧、おか逢甲が公金こうきん横領おうりょう中国ちゅうごく逃亡とうぼうだいいち共和きょうわ崩壊ほうかい
  • 6月6にち:民主みんしゅ国軍こくぐんにより台北たいぺい略奪りゃくだつ辜顕さかえなどの商人しょうにん日本にっぽん統治とうち承認しょうにん
  • 6月11にち:日本にっぽんぐん台北たいぺい占拠せんきょ
  • 6月17にち:日本にっぽんによる施政しせい開始かいし
  • 6月22にち:日本にっぽんぐんしんたけ占拠せんきょ
  • 6月26にち:りゅう永福えいふく台湾たいわん民主みんしゅこく総統そうとう就任しゅうにん
  • 7がつ9にち:台湾たいわん民主みんしゅこく義勇軍ぎゆうぐんしんたけにて敗北はいぼくきょう紹祖自殺じさつ
  • 8がつ14にち:日本にっぽんぐんなえぐり占拠せんきょ
  • 8がつ28にち:あきら八卦はっけさんたたかい。きょうおよび彭年死亡しぼう
  • 8がつ29にち:台湾たいわんはじむけいかさ逃亡とうぼう
  • 8がつ29にち:日本にっぽんぐんあきら占拠せんきょ
  • 9月:廈門にて「台湾たいわん民主みんしゅこくまた份票」発行はっこう
  • 9月1にち:日本にっぽんぐんくもりん占拠せんきょなんじさわ中国ちゅうごく逃亡とうぼう
  • 10月7にち:日本にっぽんぐんろく占拠せんきょ簡義くも嘉山かやまのがてつ国山くにやま名乗なの
  • 10がつ10日とおか:日本にっぽんぐんだい四旅団嘉義布袋港より上陸じょうりく
  • 10月11にち:日本にっぽんぐんだい師団しだん枋寮より上陸じょうりく
  • 10月12にち:民主みんしゅこくちゅう東港ひがしこうかんたい光忠みつただ逃亡とうぼう
  • 10月15にち:日本にっぽんぐんよしみ占拠せんきょ
  • 10月16にち:日本にっぽんぐんおおとりさん占拠せんきょ
  • 10月18にち:日本にっぽんぐんだい南市みなみいち包囲ほうい
  • 10月19にち:台湾たいわん民主みんしゅこく総統そうとうりゅう永福えいふく中国ちゅうごく逃亡とうぼう[2]
  • 10がつ20日はつか:民主みんしゅこく首脳しゅのう逃亡とうぼうしたためだいみなみ市内しない混乱こんらんたいみなみ商人しょうにん日本にっぽんぐんによる治安ちあん維持いじ要請ようせい
  • 10月21にち:日本にっぽんぐんだいみなみ入城にゅうじょう、「台湾たいわん民主みんしゅこく崩壊ほうかい
  • 11月18にち:台湾たいわん総督そうとくによる全島ぜんとう平定へいてい宣言せんげんされる

台湾たいわん民主みんしゅこく総統そうとう[編集へんしゅう]

  1. からけい1895ねん5月25にち - 1895ねん6月5にち
  2. りゅう永福えいふく1895ねん6月5にち - 1895ねん10月21にち

台湾たいわん民主みんしゅこく主要しゅよう官員かんいん[編集へんしゅう]

  • 軍務ぐんむ大臣だいじん:秉瑞
  • 内務ないむ大臣だいじん:兪明ふるえ
  • 外務がいむ大臣だいじん:ちんどう
  • 大将軍だいしょうぐん:りゅう永福えいふく
  • だんねり:おか逢甲
  • 義勇軍ぎゆうぐん大統領だいとうりょう:きょう
  • 遊説ゆうぜい:姚文とう
  • 議院ぎいん議長ぎちょう:はやし維源
  • 議院ぎいん議員ぎいん:ちんくもりんひろし文光ぶんこうしろ其祥
  • 台北たいぺい:兪鴻はじむけいかさ
  • 淡水たんすいけん:しのげなんじ
  • しんたけけん:王国おうこくみず
  • 埔里しゃちょうどおりばん:あつしつちかえはな
  • 台湾たいわんけん:わんどう
  • 代理だいり安平あびらけんけんまもるどうしるし:ただまん
  • くもはやしともけん:なんじさわ
  • おおとりやまけん:
  • もとたかしちょうどう:かたかげ
  • みなみみやびちょうどおりばん:そう維釗
  • なえぐりけん:
  • あきらけん:いつきくん
  • よしみ義知よしともけん:まごそだてみつる
  • 台東たいとうしゅうしゅう:えびすでん
  • つねはるけん:おう

台湾たいわん民主みんしゅこくたいする評価ひょうか[編集へんしゅう]

この短命たんめい政権せいけんたいし、歴史れきし学者がくしゃあいだでも評価ひょうかかれている。

まずは欧米おうべい散見さんけんされる「共和きょうわこく」の人工じんこうせい強調きょうちょうする視点してんであり、これらは清国きよくに官僚かんりょう主導しゅどうされ、国際こくさいてき支持しじることで台湾たいわん日本にっぽん権益けんえき浸透しんとう阻止そしすることに主眼しゅがんき、清国きよくに忠誠ちゅうせいくし、一般いっぱん台湾たいわんじん支持しじられていなかったとするものである。筱峰主張しゅちょうによれば台湾たいわん民主みんしゅこく台湾たいわん独立どくりつ運動うんどう嚆矢こうしとはえず、清国きよくに官吏かんりにちしん戦争せんそう敗北はいぼく台湾たいわん講和こうわ条件じょうけん提起ていきしたことにたいする住民じゅうみん反発はんぱつおそれたため、台湾たいわんにおける反日はんにち運動うんどう計画けいかく住民じゅうみんたい日本にっぽんぐん占領せんりょうと、清国きよくに台湾たいわん放棄ほうきしたわけでないこと印象いんしょうけるための行動こうどう分析ぶんせきされる。

つぎ中国ちゅうごく民族みんぞく主義しゅぎしゃおおられる傾向けいこうであるが、台湾たいわん民主みんしゅこく中国人ちゅうごくじんによる抗日こうにち運動うんどう一環いっかん位置いちづけ、台湾たいわん主権しゅけん問題もんだい中国ちゅうごく帰属きぞくさせる視点してんである。秀政ひでまさよりゆき建国けんこくらは台湾たいわん民主みんしゅこく台湾たいわん独立どくりつ画策かくさくしたものでなく、清国きよくに帰属きぞくさせるための過渡かとであったと評価ひょうかしている。

この対極たいきょく位置いちする台湾たいわんどく立派りっぱ歴史れきし視点してん紹介しょうかいすると、その代表だいひょう人物じんぶつとされる史明ふみあき台湾たいわん民主みんしゅこく独立どくりつ自主じしゅ標榜ひょうぼうしたが、その代表だいひょう思想しそう台湾たいわん大衆たいしゅうとは一致いっちするものではなかった。すべての政治せいじ目標もくひょう清国きよくに統治とうち中国ちゅうごく枠組わくぐみをえることはなかったと評価ひょうかし、おういくとく台湾たいわん民主みんしゅこく独立どくりつ宣言せんげんに「きょうたてまつせいついたちはるかつくるへいはんきよしこよみもちい、藩屏はんぺいすなわち衛星えいせいこくとなる)」という一文いちぶんふくまれていることから、その独立どくりつ精神せいしん懐疑かいぎてき意見いけん発表はっぴょうしており、統一とういつ類似るいじした見解けんかいべている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ これにより台湾たいわん民主みんしゅこく滅亡めつぼうすると主張しゅちょうする史家しか存在そんざいしている
  2. ^ 10月19にちりゅう永福えいふく台湾たいわんはなれた。日本にっぽんぐんたいみなみ入城にゅうじょう10月21にちである。このうちどちらかをとるのが、りゅう永福えいふく逃亡とうぼうとするせつである。
  3. ^ はやし大北おおきたはやしなりらが主体しゅたいとなってむべらんみずよし包囲ほうい攻撃こうげきした。ただし、はやしらがそれまでの台湾たいわん民主みんしゅこくとどのような関係かんけいにあったかは不明瞭ふめいりょうである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 国史こくしだい辞典じてん 8』吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  2. ^ a b c d 台湾たいわん民主みんしゅこく』 - コトバンク
  3. ^ 日本にっぽん最初さいしょ近代きんだいてき植民しょくみん支配しはい台湾たいわん鎮定ちんてい
  4. ^ 近代きんだい戦争せんそう 1 にちきよし戦争せんそう人物じんぶつ往来おうらいしゃ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]