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吉田よしだけん

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吉田よしだけん
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 文政ぶんせい7ねん1824ねん
改名かいめい よし寿ひさし幼名ようみょう)→けん儔→あい
別名べつめい 通称つうしょう舎人とねり
主君しゅくん 立花たちばなあきらどおりかん寿ことぶき
はん 筑後ちくご柳河やなかわはん勘定かんじょうかた中老ちゅうろう
氏族しぞく 戸次とつぎ吉田よしだ
父母ちちはは ちち戸次とつぎ通孝みちたか
養父ようふ吉田よしだけんじょう
兄弟きょうだい 立花たちばなとおるさかえけんよし立花たちばなちかしでんうますけ
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吉田よしだ けん(よしだ かねとも)は、江戸えど時代じだい後期こうき武士ぶし筑後ちくごこく柳河やなかわはん勘定かんじょうかた中老ちゅうろうなどをつとめた。柳川やながわ藩士はんし吉田よしだ当主とうしゅ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

柳川やながわ藩士はんし吉田よしだ吉田よしだれんただしみぎきょうあきら)の後裔こうえい。『立花たちばな織衛おりえ文書ぶんしょ目録もくろく掲載けいさい系図けいずでは吉田よしだ養子ようしとし、養父ようふ吉田よしだけんじょう舎人とねり)、実父じっぷ戸次とつぎ通孝みちたか実兄じっけい豪傑ごうけつくずれで著名ちょめい家老がろう立花たちばなとおるさかえ織衛おりえ)、幼名ようみょうよし寿ひさしいみなのちあい如と改名かいめいしたとする。

現在げんざいきゅう戸島としま住宅じゅうたくとされている住宅じゅうたく九州きゅうしゅう歴史れきし資料しりょうかん別館べっかん柳川やながわ古文書こもんじょかん所蔵しょぞうの「西方寺さいほうじ古記こきろく」によると、代々だいだい吉田よしだ坂本さかもとまち居住きょじゅうしていたが、寛政かんせい9ねん1797ねんころ)にけん儔が勘定かんじょうかたであったとき鬼童おんどうまち移住いじゅうしたときてた庭園ていえん住宅じゅうたくで、のち藩主はんしゅ鬼童おんどうまち住宅じゅうたく茶室ちゃしつとして献上けんじょうし、献上けんじょう吉田よしだ坂本さかもとまちもどったとする。

文政ぶんせい3ねん1820ねん)にけん儔から立花たちばな寿ひさしされた書状しょじょうでの署名しょめいは「吉田よしだ舎人とねりしょう如」となっており、このころにはいみな改名かいめいしている。

文政ぶんせい7ねん1824ねん)、死去しきょ

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  • さんひゃくはん家臣かしん人名じんめい事典じてん だい7かん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1989ねん
  • 柳川やながわ古文書こもんじょかん史料しりょう目録もくろくだい18しゅう 立花たちばな織衛おりえ文書ぶんしょ目録もくろく柳川やながわ古文書こもんじょかん、2008ねん