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戸次とつぎ通孝みちたか

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戸次とつぎ通孝みちたか
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん もとぶん4ねん1739ねん
死没しぼつ 安永やすなが9ねん1780ねん
改名かいめい 為之ためゆきすすむ幼名ようみょう)→通孝みちたか
別名べつめい 猿五郎えんごろう通称つうしょう)、うめあんうめしべのきごう
主君しゅくん 立花たちばなあきらどおり
はん 筑後ちくごこく柳河やなかわはん
氏族しぞく 立花たちばな戸次とつぎ
父母ちちはは ちち立花たちばなさだはは:すえ(ちょうよういんかさあいだあさみぎ衛門えもんむすめ
兄弟きょうだい 立花たちばなさだのり立花たちばなあきらどおり立花たちばな致博立花たちばな致真通孝みちたか山名やまな義徳よしのり矢島やじまとおるけい立花たちばなとおるけん立花たちばなしげるのりしつ毛利もうりしげる正室せいしつ小野おのたかしきょくしつつてひめ蜂須賀はちすか重喜しげよし正室せいしつ)、細川ほそかわきょうはれ正室せいしつ
立花たちばなとおるさかえ吉田よしだけんよし立花たちばなちかしでんうますけ夭折ようせつ
テンプレートを表示ひょうじ

戸次とつぎ 通孝みちたか(べっき なおのり)は江戸えど時代じだい後期こうき武士ぶし柳河やなかわはんあるじ立花たちばなさだの5なん柳川やながわはん家老がろうひとつである立花たちばな織衛おりえとされる。なお、本人ほんにんだいでは盲人もうじんゆえ家臣かしんにならず藩主はんしゅ一族いちぞくまる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

もとぶん4ねん(1739ねん)に柳河やなかわにて出生しゅっしょう立花たちばな致博同母どうぼおとうとにあたる。幼少ようしょうころ病気びょうきにより視力しりょくうしなう。このため終生しゅうせいやくであり、家臣かしんではなく柳河やなかわ藩主はんしゅ一族いちぞくとしてあつかわれた。たかられき6ねん1756ねん)に異母いぼけい藩主はんしゅ立花たちばなあきらどおりよりへんいみなの「つう」のうめあん通称つうしょうあたえられ、苗字みょうじ戸次とつぎ通孝みちたかしょうするようになる。「戸次とつぎ」は元々もともと立花たちばなみちゆき実家じっか名称めいしょうでもある(また、柳河やなかわ藩士はんし戸次とつぎ苗字みょうじとする人物じんぶつ親族しんぞく戸次とつぎかんさだなど)がられるのでこの家系かけいいだともかんがえられる)。たかられき9ねん1759ねん)にたけもんみなみ宅地たくちたまわり、厄介やっかいりょう200せきぎん100まい拝領はいりょうされる。たかられき11ねん1761ねん)に通称つうしょううめしべのき(ばいずいけん)と改名かいめい。また、年代ねんだいしょうであるが、三潴みずまぐん七ツ家ななつえむら山門やまとぐんろくじゅうまち所領しょりょう拝領はいりょうされている。

安永やすなが8ねん1779ねん)にねがいにより豊後橋ぶんごばしひがし移転いてんし、翌年よくねん死去しきょ享年きょうねん42。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 柳川やながわ古文書こもんじょかん史料しりょう目録もくろく だい18しゅう 立花たちばな織衛おりえ文書ぶんしょ目録もくろく』(2008ねん九州きゅうしゅう歴史れきし資料しりょうかん柳川やながわ古文書こもんじょかん
  • 柳川やないご別冊べっさつ 図説ずせつ立花りっか』(2010ねん柳川やないご柳川やないご編集へんしゅう委員いいんかい編集へんしゅう