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立花たちばなさだ

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立花たちばなさだ
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 元禄げんろく11ねん6月23にち1698ねん7がつ30にち
死没しぼつ のべとおる元年がんねん5月25にち1744ねん7がつ5にち
改名かいめい 友之とものすすむ幼名ようみょう)、しげるえきせいただしさだ
別名べつめい 右京うきょう弾正だんじょう通称つうしょう
戒名かいみょう きょうげんいん殿どの慈雲じうん紹蔭だい居士こじ
墓所はかしょ 下谷しもたに広徳寺こうとくじ
官位かんい したがえよん飛騨ひだもり侍従じじゅう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ吉宗よしむね
はん 筑後ちくご柳河やなかわはんあるじ
氏族しぞく 立花たちばな
父母ちちはは ちち立花たちばなしげるだかはは立花たちばなたねちょうむすめたまいずみいん
養父ようふ立花たちばなさだあきら旗本はたもととして)、立花たちばなあきらにん柳河やなかわ藩主はんしゅとして)
兄弟きょうだい 茂之しげゆき[1]さだ
つま 正室せいしつ立花たちばなさだあきらむすめ松子まつこ
側室そくしつゆい、とみ、しつ、すえ、もん、みね、なよ
さだのりかんどおり、きせ、致傳致真登代とよ、みき、戸次とつぎ通孝みちたか山名やまな義徳よしのり矢島やじまとおるけいつてひめ、まき、つうけん、みつら
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立花たちばな さだ(たちばな さだよし)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき旗本はたもと大名だいみょうはじ旗本はたもと寄合よりあいせき立花たちばな弾正だんじょう2代目だいめのち筑後ちくごこく柳河やなかわはんだい5だい藩主はんしゅ

立花たちばな両家りょうけひとつである立花たちばな帯刀たてわき当主とうしゅ立花たちばなしげるだかだい2だい藩主はんしゅ立花たちばなただししげるの3なん立花たちばなしげるとら長男ちょうなん)のはは三池みいけはんあるじ立花たちばなたねちょうむすめたまいずみいん幼名ようみょう友之とものすすむ通称つうしょう右京うきょうのち弾正だんじょういみなしげるえきせいただしさだ俶。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

元禄げんろく11ねん6月23にち1698ねん7がつ30にち)、筑後ちくご三池みいけぐん稲荷いなりむらにて立花たちばな帯刀たてわき当主とうしゅ立花たちばなしげるだか次男じなんとしてまれる。あに立花たちばな茂之しげゆき柳河やなかわはん女流じょりゅう歌人かじん立花たちばなたまらんちちにあたる。

はじめ大叔父おおおじ旗本はたもと寄合よりあい立花たちばなさだあきら養子ようしとなる。正徳しょうとく3ねん1713ねん)4がつ1にち将軍しょうぐん徳川とくがわ家継いえつぐにお目見めみえする。とおる5ねん1720ねん)12月29にち養父ようふ死去しきょにより、家督かとく相続そうぞくする。旗本はたもとのときは、たま正清しょうせいじき名乗なのった。

とおる6ねん1721ねん)5がつだい4だい藩主はんしゅ立花たちばなあきらにん死去しきょしたさい、その末期まっき養子ようしとなって柳川やながわ藩主はんしゅ家督かとくいだ。同年どうねんさだあきらむすめ正室せいしつとしてむかえている。なお旗本はたもと寄合よりあいせき立花たちばな弾正だんじょうほんはん吸収きゅうしゅうとなり、以降いこう旗本はたもととして再興さいこうされなかった。同年どうねんうるう7がつ1にち将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむねにお目見めみえする。同年どうねん12がつ18にちしたがえ飛騨ひだもり叙任じょにんする。とおる8ねん12月18にちしたがえよん昇進しょうしんする。

藩主はんしゅとしては柳河やなかわじょう修築しゅうちく功績こうせきがある。とおる17ねん1732ねん)、領内りょうないとおるだい飢饉ききん見舞みまわれたとき、幕府ばくふ給金きゅうきんもとめている。同年どうねん9がつ28にちいちまんりょうあたえられる。また、『とおるはちねん藩士はんし系図けいず』を作成さくせいさせた。どう史料しりょう戦後せんご柳川やないご編集へんしゅう委員いいんかいにより活字かつじされた。

とおる19ねん1734ねん)、次男じなんさだのり嗣子しし指名しめいする。

もとぶん2ねん1737ねん)に国元くにもとでのおく藩主はんしゅがわしつ子息しそく女中じょちゅう居住きょじゅう)として使つかわれていた柳川やながわじょうまる御殿ごてん手狭てぜまになったので、かつての立花たちばなあきらとら別邸べっていおく移転いてんし、御花畠おはなばたけ命名めいめいしたが、これが現在げんざい立花たちばな庭園ていえんである。

のべとおる元年がんねん5月25にち1744ねん7がつ5にち)に江戸えどにて死去しきょした。あとさだそくいだ。享年きょうねん47。死因しいん糖尿とうにょうびょうとその合併症がっぺいしょうによるじゅうあつし推測すいそくされている。法号ほうごうきょうげんいん殿どの慈雲じうん紹蔭だい居士こじ下谷しもたに広徳寺こうとくじほうむられた。

官位かんい履歴りれき[編集へんしゅう]

へんいみなけた人物じんぶつ[編集へんしゅう]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 柳河やなかわはん女流じょりゅう歌人かじん立花たちばなたまらんちち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]