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城端じょうはたまち

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じょうはなまち
城端じょうはたまち
城端曳山祭
城端町旗
城端じょうはたまちはた
城端町章
城端じょうはたまちあきら
城端じょうはなまちはた 城端じょうはなまちあきら
廃止はいし 2004ねん平成へいせい16ねん11月1にち[1]
廃止はいし理由りゆう 新設しんせつ合併がっぺい
福野ふくのまち城端じょうはたまちたいらむら上平かみたいらむら利賀とがむら井波いなみまち井口いぐちむら福光ふくみつまちみなみ砺市[1]
現在げんざい自治体じちたい みなみ砺市[1]
廃止はいし時点じてんのデータ
くに 日本の旗 日本にっぽん
地方ちほう 中部ちゅうぶ地方ちほう北陸ほくりく地方ちほう
都道府県とどうふけん 富山とやまけん
ぐん 東礪波ひがしとなみぐん
市町村しちょうそんコード 16401-1
面積めんせき 65.03 km2
そう人口じんこう 9,682ひと
(2004ねん8がつ1にち
隣接りんせつ自治体じちたい 福光ふくみつまち井口いぐちむら上平かみたいらむらたいらむら利賀とがむら
まち コシノヒガンザクラ
まちはな ミズバショウ
城端じょうはたまち役場やくば
所在地しょざいち 939-1800
富山とやまけん東礪波ひがしとなみぐん城端じょうはたまち1046
座標ざひょう 北緯ほくい3630ふん44びょう 東経とうけい13654ふん02びょう / 北緯ほくい36.51222 東経とうけい136.9005 / 36.51222; 136.9005座標ざひょう: 北緯ほくい3630ふん44びょう 東経とうけい13654ふん02びょう / 北緯ほくい36.51222 東経とうけい136.9005 / 36.51222; 136.9005
城端町の県内位置図
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城端じょうはたまち(じょうはなまち)は、かつて富山とやまけん東礪波ひがしとなみぐんにあったまち

2004ねん平成へいせい16ねん)11月1にち城端じょうはたまちふくむ7自治体じちたい合併がっぺいしてみなみ砺市発足ほっそくし、城端じょうはたまち廃止はいしされた[1]

地理ちり

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山地さんち平野へいや双方そうほうゆうし、自治体じちたいいき標高ひょうこうは1000mじゃくから100mまで幅広はばひろい。さかまちとしてもられる。「越中えっちゅうしょう京都きょうと」とばれる。

  • やま袴腰山はかまごしやま高清水山たかしみずやま
  • 河川かせん山田川やまだかわ池川いけがわ
  • 湖沼こしょうさくらなわ城端じょうはなダムみずうみ

歴史れきし

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  • 縄文じょうもん時代じだい かなりおおきな集落しゅうらくがあった(西原にしはら遺跡いせき)。
  • 奈良なら時代じだい 東大寺とうだいじ開墾かいこんでん越中えっちゅう砺波となみかれたさいに、砺波となみこころざしとめこころざし越中えっちゅう石黒いしぐろ)が砺波となみぐん広大こうだい墾田こんでんっていた(現在げんざいみなみ砺市岩木いわき前方後円墳ぜんぽうこうえんふん 利波となみしんこころざしとめこころざしづかがある)。基本きほんてき古代こだい飛鳥あすか-白鳳はくほう-奈良なら-平安へいあん)には、集落しゅうらくとしての遺構いこうとう確認かくにんされていない。中世ちゅうせいはいみなもとにより武家ぶけ政権せいけん誕生たんじょうすることをきっかけに、鎌倉かまくら幕府ばくふ支配しはいまれ石黒いしぐろとう中心ちゅうしんとした在地ざいち領主りょうしゅ連合れんごう武士ぶしだん勢力せいりょくち、耕地こうち開発かいはつすすんでいった。いずれ、開発かいはつともなってちからをつけていた庶子しょし自立じりつすすみ、武士ぶしだん分裂ぶんれつられた。戦闘せんとうそなえて有力ゆうりょく武士ぶし土豪どごう山城やましろるいほりかこまれた居館きょかんかまえ、また、流通りゅうつう拠点きょてんなどの集落しゅうらく発達はったつしていった。これが城端じょうはたまち起源きげんである。
  • 1078ねんうけたまわこよみ2ねんえつ中国ちゅうごく砺波となみぐん山城やましろ円宗寺えんじゅうじりょうとして石黒いしぐろそうたてそう平安へいあん末期まっきには石黒いしぐろ三箇さんがそう(10さと3地域ちいき)となり、りょう分割ぶんかつでんりょうされた。
  • 1185ねん(文治ぶんじ元年がんねん)ごろ -山田川やまだかわはさんで東側ひがしがわ鷹司たかつかさりょう直海のうみきょう西側にしがわ仁和にわ寺領じりょう山田やまださととして、領地りょうちおよび荘園しょうえんとして機能きのうしていた。
  • 1333ねんごろ南北なんぼくあさ時代じだい)-みなみ朝方あさがた天皇てんのう中心ちゅうしん政治せいじ公家くげ重視じゅうし)のながれをくむ関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわら一族いちぞくである伊東いとう次郎じろうみぎ衛門えもんが、後醍醐天皇ごだいごてんのうくなったのちにこの定住ていじゅうし、山田やまださと開拓かいたく貢献こうけんした。以降いこうその子孫しそん豪族ごうぞくとして徳望とくぼうあり、藩政はんせい時代じだいにも加賀かがはんにわたり功績こうせきのこした。なお現在げんざいさくら城端じょうはなSAちかく)のあるみなみ市立しりつ野原のはらきゅう城端じょうはたまち福光ふくみつまちまた地域ちいき)にはいまでも次郎じろうみぎ衛門えもん遺徳いとくまつった御堂みどうのこっている(みなみ砺市指定してい文化財ぶんかざい)。 くわえて、南朝なんちょう時代じだい痕跡こんせきとしてみなみ砺市上見うわみ地名ちめいがある。「上見うわみ」は、むかしはウワツミと称呼しょうこされていた。興国こうこく年間ねんかん南朝なんちょう論旨ろんしには「えつ中国ちゅうごく上津かみづみる」としるされており、ここがみなみ朝方あさがた領地りょうちであったことがわかる。上見うわみじょう跡地あとちみなみ砺市指定してい史跡しせきとして登録とうろくは、そのさい居館きょかんとして築城ちくじょうされたとのせつある。 また、長慶ちょうけい皇子おうじ南朝なんちょう醍醐天皇だいごてんのう皇子おうじ)のはかがあったとされている。しかし、昭和しょうわ22ねん宮内庁くないちょう許可きょか発掘はっくつされたがあかしとなるものはてこなかった。「次郎じろうみぎ衛門えもんのおとも皇子おうじともなってたのか、皇子おうじ写経しゃきょうなにかをめて経塚きょうづかつくったのではなかろうか。」と推測すいそくされている。
  • 1481ねん文明ぶんめい13ねんごろ -福光ふくみつじょうおも石黒いしぐろ光義みつよし富樫とかしまさしおやもとめにおうじて一向いっこう一揆いっき山田川やまだかわ城端じょうはたまちながれ、福野ふくのまち本流ほんりゅう小矢部川おやべがわ合流ごうりゅうする河川かせん)の田屋たや河原かわはらたたかうも、敗北はいぼくする(田屋たや川原かわらたたか)。なお石黒いしぐろらは安居あんきょてら退去たいきょするもやぶれ(石黒いしぐろ墳墓ふんぼ)、これを契機けいき医王山いおうぜん山麓さんろく寺院じいん施設しせつぐん香城寺こうじょうじそうどう遺跡いせき)もち、山田やまださとふく一帯いったい本願寺ほんがんじ勢力せいりょく拡大かくだいし、一向いっこうむね統治とうちとなった。
  • 1492ねんあきらおう元年がんねん)-砂子坂すなごさか道場どうじょう善徳寺ぜんとくじ前身ぜんしん)は加賀かが越中えっちゅう能登のとさんこく管理かんりにおく末寺まつじそうろくしょさだめられた。
  • 1559ねんえいろく2ねん)あるいはもとかめ3ねん1572ねん) -信仰しんこうあつかった土豪どごう城ヶ鼻しろがばなじょう城主じょうしゅ荒木あらきよし太夫たゆう大膳だいぜん)の招請しょうせいにより(福光ふくみつにあった一向いっこうむね善徳寺ぜんとくじ招致しょうちえつちゅう一向いっこう勢力せいりょく中心ちゅうしん寺院じいんとし、荒木あらきだいぜん参加さんかした。
  • 1573-1591ねん(天正てんしょう年間ねんかん) -上見うわみじょうしのむらたい左衛門さえもんった。
  • 1573ねんもとかめ4ねん) - 城端じょうはたまち善徳寺ぜんとくじ門前もんぜまち)がひらきまち以前いぜんより郷士ごうし荒木あらきよし太夫たゆう城郭じょうかくきずいていたが、同年どうねん天正てんしょう元年がんねん)に善徳寺ぜんとくじ城端じょうはな移転いてんしたことで門前もんぜまちとして発達はったつしたとされる[2]最初さいしょしろはな」としょうしていたが「しろはな」となり「城端じょうはな」と変化へんかした[3]
  • 1577ねん天正てんしょう5ねん)-はたによって城端じょうはな善徳寺ぜんとくじ門前もんぜまち)で絹織物きぬおりものはじめられた(城端じょうはなきぬ起源きげん伝記でんきより)。 以前いぜんから五ケ山ごかやまむら々でまゆ生産せいさん生糸きいと製造せいぞうおこなわれていたが、絹織物きぬおりものはじめられたこと城端じょうはな善徳寺ぜんとくじ門前もんぜまち)へもまゆ多量たりょうはこばれ製糸せいしされたとおもわれる。労働ろうどうりょくめんでは門前もんぜんちゅうまちにぎわうこと付近ふきん農村のうそんから流入りゅうにゅうしたひと定住ていじゅう人口じんこうえてきた。以後いご越中えっちゅう南西なんせいもっとおおきなまちとなった。
  • 1580ねん天正てんしょう8ねん)-佐々ささしげるせい織田おだ信長のぶながから越中えっちゅうりをゆるされることを契機けいき家臣かしん河内かわうちざいみぎ衛門えもん城端じょうはたじょうはいす。また、上見うわみじょう城主じょうしゅ外交がいこうによりなりせい一揆いっき掃討そうとう戦火せんかまぬかれた。なお上見うわみじょう城主じょうしゅ外交がいこうにより一揆いっき掃討そうとう戦火せんかまぬかれる。
  • 1585ねん天正てんしょう13ねん)-佐々ささしげるせい秀吉ひでよし降伏ごうぶくし、この加賀かがはん前田まえだおさめることになり城端じょうはたじょうはいじょうし、善徳寺ぜんとくじのこる。以後いご城端じょうはな善徳寺ぜんとくじ門前もんぜまち)の絹織物きぬおりもの庇護ひごされ発展はってんした。善徳寺ぜんとくじは、加賀かがはんにおいて懐柔かいじゅうさく利用りようされ真宗しんしゅうひがし寺院じいんさわあたまとされ、越中えっちゅうでの国法こくほうてらほうさわあたまとしてさかえた。その江戸えど時代じだいつうじて前田まえだ子女しじょ幼少ようしょう善徳寺ぜんとくじふくめた旧領きゅうりょう有力ゆうりょく寺院じいんえんおんなとしておくることになる。
  • 1649-1650ねん慶安けいあん2-3ねん)-西新田にししんでんまち東新田とうしんでんまち開墾かいこんされじんうつ城端じょうはな善徳寺ぜんとくじ門前もんぜまち)に編入へんにゅうされた。
  • 1650ねん慶安けいあん3ねん) -善徳寺ぜんとくじろくだいあらわしょう金沢かなざわ材木ざいもくまちかけしょ建立こんりゅうする(その移転いてんし、現在げんざいでは金沢かなざわ小立野こだちの寺院じいんぐんなかで、善徳寺ぜんとくじとして城端じょうはた善徳寺ぜんとくじ関連かんれん寺院じいんとして存在そんざいする。付近ふきんきゅう地名ちめい土取場つちとりば城端じょうはたまちとされていた。)
  • 1651ねん (慶安けいあんねん) -加賀かがはん年貢ねんぐ増収ぞうしゅうはかり、年貢ねんぐ納入のうにゅうきゅうした農民のうみんむらはな城端じょうはな善徳寺ぜんとくじ門前もんぜまち)へ移住いじゅうしたこと人口じんこう急増きゅうぞうした。  
  • 1693ねん元禄げんろくねん)-城端じょうはな善徳寺ぜんとくじ門前もんぜまち在住ざいじゅうしゃすう職業しょくぎょうなどを詳細しょうさいしるした「元禄げんろく品々しなじなちょう」によるとそう戸数こすう689うち375絹織物きぬおりもの関係かんけい仕事しごとたずさわっていたとう。城端じょうはな善徳寺ぜんとくじ門前もんぜまち)でられたきぬだい部分ぶぶん京都きょうと西陣にしじんはこばれ、そこで精練せいれん染色せんしょく加工かこうがなされ、加賀かがきぬあつか問屋とんや独占どくせんてき販売はんばいされていた。おも市場いちば上方かみがたなのでその市況しきょうただちに城端じょうはなこう不況ふきょう影響えいきょうした。
  • 1757ねんたかられき7ねん)-城端じょうはな騒動そうどうきる。このとし天候てんこう不順ふじゅん不作ふさくであった。1000にんえる農民のうみんあつまり、べい襲撃しゅうげきした。はん対応たいおう素早すばやく、そのよるのうちに2、30にん逮捕たいほし3にん中心ちゅうしん人物じんぶつめてはりつけにした。
  • 1829ねん文政ぶんせい12ねん) -きぬあたらしい市場いちば開拓かいたく加賀かがはん資金しきんてき援助えんじょし、城端じょうはな善徳寺ぜんとくじ門前もんぜまち)の絹織物きぬおりもの業者ぎょうしゃがこの流通りゅうつう経路けいろ利用りようして江戸えどでも城端じょうはなきぬ販売はんばいされることとなった。
  • なお江戸えど時代じだいには、城下町じょうかまちことなり武士ぶし階級かいきゅうといった巨大きょだい消費しょうひしゃたない在郷ざいきょうまちにおいては町人ちょうにん相互そうごあいだ農村のうそん対象たいしょうとした取引とりひきおもであった(きぬぎょうのぞく)。きぬぎょうによって蓄積ちくせきされた資本しほん投資とうしさき農村のうそんであり、時折ときおり加賀かがはん改作かいさくほう抵触ていしょくした。封建ほうけん社会しゃかいにあっては治者ちしゃ唯一ゆいいつ収入しゅうにゅうげん土地とち生産せいさんりょくであった時代じだいであったため年貢ねんぐてはきびしく、からぎんしてでも年貢ねんぐ完納かんのうする必要ひつようがあり、余力よりょくがあるもの町人ちょうにんおおくあった。加賀かがはん農民のうみんたいして貸借たいしゃくすることをきんじていたが、田地でんちとう売買ばいばい実質じっしつじょうおこなわれ、家屋かおくじき田地でんちうしなった場合ばあいにはまち生活せいかつするしかなくなった。こうして城下町じょうかまちとはことなるながれで、在郷ざいきょうまち商業しょうぎょう資本しほん漸次ぜんじ農村のうそん浸透しんとうしていった。これにより、のち明治維新めいじいしんさい城下町じょうかまちのように武士ぶし失業しつぎょうともな経済けいざいんだ金沢かなざわ城下じょうかとはことなり、近代きんだいながれにのりやすかったことがうかがえる。
  • 1875ねん明治めいじ8ねん)-善徳寺ぜんとくじえんおんな最後さいご加賀かが藩主はんしゅ 前田まえだ慶寧よしやすいもうとあまねひめ)が離縁りえんさせられる(なお、江戸えど時代じだいつうじて前田まえだ子女しじょ幼少ようしょう旧領きゅうりょう有力ゆうりょく寺院じいんえんおんなとしておくっていたが、1870年代ねんだい後半こうはんには相次あいついで離縁りえんさせて摂家せっけ宮家みやけなどにとつがせており、同年どうねんむすめの慰姫も井波いなみ瑞泉寺ずいせんじから離縁りえんさせられている)。
  • 1889ねん明治めいじ22ねん4がつ1にち - 町村ちょうそんせい施行しこうにより、礪波となみぐん城端じょうはたまち能美のみむら山田やまだむら南山田みなみやまたむらおよ大鋸屋おおがやむら発足ほっそくする。
  • 1892ねん明治めいじ25ねん)-明治めいじはいって政府せいふ生糸きいと絹織物きぬおりもの輸出ゆしゅつ奨励しょうれいしていたことを背景はいけいに、岡部おかべちょう左衛門さえもんによって絹織物きぬおりもの業者ぎょうしゃきぬ問屋とんや組合くみあいいんとする生絹きぎぬ組合くみあい設立せつりつされ、城端じょうはたまちやく9わりめる手織ておりじん傘下さんかあつ織物おりもの品質ひんしつ向上こうじょう業界ぎょうかい発展はってんつとめた。
  • 1898ねん明治めいじ31ねん)-にち戦争せんそうへの懸念けねんから金沢かなざわ砲兵ほうへい装備そうびゆうする陸軍りくぐんだいきゅう師団しだん設置せっちされるにともない、かつて加賀かがはんころ鷹狩たかがりじょうであった立野原たてのはら全国ぜんこく屈指くっし軍事ぐんじ演習えんしゅうじょうとして機能きのうはじめる。なおかんてきごういまでものこり(みなみ砺市指定してい文化財ぶんかざい立野原たてのはら台地だいちがかつて軍事ぐんじ演習えんしゅうじょう利用りようされていた歴史れきしいまつたえる貴重きちょう存在そんざいである。
  • 1896ねん明治めいじ29ねん4がつ1にち - ぐんせい施行しこうのため、礪波となみぐん分割ぶんかつして、東礪波ひがしとなみぐん発足ほっそくにより、城端じょうはたまち能美のみむら山田やまだむら南山田みなみやまたむらおよ大鋸屋おおがやむらは、東礪波ひがしとなみぐん所属しょぞくとなる。
  • 1898ねん明治めいじ31ねん) - 東礪波ひがしとなみぐん能美のみむら東礪波ひがしとなみぐん北野きたのむらおよ蓑谷みのたにむら分割ぶんかつする。
  • 1904ねん明治めいじ38ねん)-にち戦争せんそう戦費せんぴ調達ちょうたつ織物おりもの消費しょうひぜい課税かぜいされることとなった。
  • 1911ねん-1913ねん -電力でんりょく発電はつでんしょ建設けんせつきょうでん背景はいけい電動でんどうちから織機しょっき大量たいりょう移設いせつされ生産せいさん能力のうりょく大幅おおはばたかまった。
  • 1913ねん大正たいしょう2ねん) - 岡部おかべちょう左衛門さえもん町長ちょうちょう時代じだい(1898-1913)に内務省ないむしょう全国ぜんこく優良ゆうりょう町村ちょうそんのひとつにえらばれる[4][5]
  • 1917ねん(大正たいしょう5ねん) -だいいち世界せかい大戦たいせんおわり、そのこうきょう城端じょうはな絹織物きぬおりもの非常ひじょうさかえ機業きぎょう法人ほうじんすすんだ。出荷しゅっか数量すうりょう年々ねんねん増加ぞうかしていった。
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん)-城端じょうはな織物おりもの組合くみあい事務じむとうてられる。
  • 1931ねん昭和しょうわ5ねん)-銭湯せんとう建築けんちくされ、いまでも建物たてもののこる(かつら)。
  • 1931ねん昭和しょうわ6ねん)-満州まんしゅう事変じへんきむ輸出ゆしゅつさい禁止きんしによるインフレーションとえんやすにより、人絹じんけん織物おりもの大量たいりょう輸出ゆしゅつされるようになった。城端じょうはた人絹じんけん織物おりもの活況かっきょうていするようになり、工場こうじょうしん増設ぞうせつさかんにおこなわれた。
  • 1946ねん昭和しょうわ21ねん)-立野原たてのはら開拓かいたくだん混乱こんらんした世相せそう急迫きゅうはくした食糧しょくりょう事情じじょうに、復員ふくいん軍人ぐんじん海外かいがい引渡しゃ戦災せんさいしゃ一丸いちがんとなって入植にゅうしょくした。
  • 1952ねん昭和しょうわ27ねん5月1にち - 東礪波ひがしとなみぐん城端じょうはたまち大鋸屋おおがやむら北野きたのむら南山田みなみやまたむらおよ蓑谷みのたにむら合併がっぺいして、東礪波ひがしとなみぐん城端じょうはたまち発足ほっそくする。同日どうじつ西礪波にしとなみぐん福光ふくみつまちおよ東礪波ひがしとなみぐん山田やまだむら9町村ちょうそん合併がっぺいして、西礪波にしとなみぐん福光ふくみつまち発足ほっそくする。なお、富山とやま県知事けんちじ高辻たかつじたけくにたいして提出ていしゅつされた申請しんせいしょによると、南山田みなみやまたむら大鋸屋おおがやむら城端じょうはたまち北野きたのむら蓑谷みのたにむら山田やまだむら北山田きたやまたむら合併がっぺいするという内容ないようになっていたが、実際じっさいには山田やまだむら北山田きたやまたむら福光ふくみつまち合併がっぺいしている[6]
  • 1955ねん昭和しょうわ30ねん立野原たてのはら開拓かいたくだん建設けんせつ営農えいのう邁進まいしん成果せいか優秀ゆうしゅうさいして、当時とうじ農林のうりん大臣だいじんである河野こうの一郎いちろうより表彰ひょうしょうされる。
  • 1956ねん昭和しょうわ31ねん2がつ1にち - 東礪波ひがしとなみぐん城端じょうはたまち西礪波にしとなみぐん福光ふくみつまち区域くいきうちきゅう東礪波ひがしとなみぐん山田やまだむら区域くいき一部いちぶである、大字だいじ細木さいき大字だいじ大窪おおくぼ大字だいじ雁巻島がんまきじま大字だいじ梅井うめい大字だいじ中筋なかすじ大字だいじ野田のだ村中むらなかとうおよ大字だいじ野田のだろう木島きじま区域くいき編入へんにゅうする。
  • 1956ねん昭和しょうわ31ねん)-ナイロン織物おりものはじまった。永年えいねんわたって蓄積ちくせきしたきぬ技術ぎじゅつかしたナイロン・ポリエステルをちょう繊維せんい織物おりもの産地さんちとして、現在げんざい城端じょうはなかくたる地位ちいめている。      
  • 1978ねん昭和しょうわ53ねん)-立野原たてのはら地区ちく県営けんえい農地のうち開発かいはつ事業じぎょう完成かんせい記念きねん式典しきてん農林のうりん大臣だいじん中川なかがわ一郎いちろう臨席りんせきした施行しこうされる。
  • 1979ねん昭和しょうわ54ねん)-立野原たてのはら開拓かいたくパイロット事業じぎょう完成かんせいし、スプリンクラー使用しよう可能かのうとなり、畑作はたさく急速きゅうそく進展しんてん立野原たてのはら特産とくさん大根だいこん西瓜すいかとう県内けんないわず中京ちゅうきょう関西かんさい出荷しゅっかされた。
  • 2000ねん平成へいせい12ねん9月 東海とうかい北陸ほくりく自動車じどうしゃどう五箇山ごかさんIC - 福光ふくみつIC開通かいつうし、さくらのある立野原たてのはら城端じょうはなサービスエリアには「さくらハイウェイオアシス」として「さくらクアガーデン」のほか、ヨッテカーレじょうはしロッククライミング施設しせつなどオープン。
  • 2004ねん平成へいせい16ねん11月1にち - 東礪波ひがしとなみぐん福野ふくのまち井波いなみまち城端じょうはたまちたいらむら上平かみたいらむら利賀とがむら井口いぐちむらおよ西礪波にしとなみぐん福光ふくみつまち合併がっぺいして、みなみ砺市発足ほっそくする[1]

行政ぎょうせい

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  • 昭和しょうわ27ねん4がつ30にち富山とやま県議会けんぎかいしん城端じょうはたまち誕生たんじょう議決ぎけつ行政ぎょうせい業務ぎょうむ開始かいしされる。初代しょだい議員ぎいん下記かきごとくである。 てんとみ直次なおじ, 北川きたがわ清一せいいち, きし つとむ, 伊東いとう太作たいさく, 前田まえだたく次郎じろう, 山田やまだ伊作いさく, 笹田ささだ外次そとじ, 今井いまいけん嗣, 太田おおた栄一郎えいいちろう, 佐竹さたけ辰一郎たついちろう, 朝日あさひはち左衛門さえもん, 奥村おくむら喜一郎きいちろう, 坂田さかたさとし史郎しろう, 谷口たにぐち正一しょういち, 池川いけがわ忠信ただのぶ, 中田なかた正成まさしげ, 岩井いわい光久みつひさ, 沖田おきた久蔵きゅうぞう, 永井ながい友次ともじ, さか富蔵とみくら, 石村いしむら正一しょういち, 山下やましたはじめはち, 富田とみたろく左衛門さえもん, 和田わだ吉造きちぞう, 中川なかがわさだ太郎たろう , かじ徳兵衛とくべえ, 田嶋たじましげる, 清水しみず豊二郎とよじろう, 石村いしむら文男ふみお, ひがし直太郎なおたろう, 窪田くぼた美吉みよし, 岩井いわい太一たいち
  • 昭和しょうわ29ねん5がつ7にちには城端じょうはたまち内閣ないかく総理そうり大臣だいじん表彰ひょうしょう吉田よしだしげるより)をける。
  • 町長ちょうちょう岩田いわた忠正ただまさ(2004ねん10がつまで)
  • 職務しょくむ代理だいりしゃ長尾ちょうびえきいさむ(2004ねん10がつ

経済けいざい

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地場じば産業さんぎょう

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地場じば産品さんぴんとしては、がきげられる。江戸えど時代じだいより主要しゅよう産業さんぎょう絹織物きぬおりもの漆器しっきで、とくに明治めいじ大正たいしょうにはこう品質ひんしつ羽二重はぶたえられていた[7][8]城端じょうはな仏壇ぶつだん産地さんちでもある。

アニメ産業さんぎょう

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城端じょうはなにはアニメーション制作せいさく会社かいしゃP.A.WORKS(ピーエーワークス)の本社ほんしゃスタジオがある。製作せいさくするアニメに登場とうじょうする地形ちけい建造けんぞうぶつ近隣きんりん地域ちいきから採用さいようすることがある。なかでも『true tears』(2008ねん)の街並まちなみは城端じょうはなをモデルにえがかれている。そのため、モデルになった場所ばしょ巡礼じゅんれい目的もくてきとする旅行りょこうしゃもいる。

姉妹しまい都市とし提携ていけい都市とし

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海外かいがい

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教育きょういく

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小学校しょうがっこう

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中学校ちゅうがっこう

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交通こうつう

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鉄道てつどう

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道路どうろ

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  • 高速こうそく自動車じどうしゃ国道こくどう
  • 一般いっぱん国道こくどう
  • 都道府県とどうふけんどう
    • 主要しゅよう地方ちほうどう
      • 富山とやまけんどう21ごう井波いなみ城端線じょうはなせん
    • 一般いっぱん県道けんどう
      • 富山とやまけんどう277ごう福野ふくの城端線じょうはなせん
      • 富山とやまけんどう284ごう井波いなみ井口いぐち城端線じょうはなせん
      • 富山とやまけんどう291ごう才川七さいかわしち城端線じょうはなせん
      • 富山とやまけんどう292ごう城端じょうはた嫁兼よめがねせん
      • 富山とやまけんどう293ごう長楽寺ちょうらくじ福光ふくみつせん
      • 富山とやまけんどう294ごう川上中かわかみなか北野線きたのせん
      • 富山とやまけんどう356ごう林道りんどう温泉おんせんせん

名所めいしょ旧跡きゅうせき観光かんこうスポット・祭事さいじ催事さいじ

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  • 善徳寺ぜんとくじ - 真宗しんしゅう大谷おおや本願寺ほんがんじ別格べっかく別院べついん
  • 城端じょうはた曳山ひきやま会館かいかん
  • 林道りんどう温泉おんせん
  • つくばね森林公園しんりんこうえん
  • さくら公園こうえん
  • なわ - 水芭蕉みずばしょう群生ぐんせいとして有名ゆうめいで、この標高ひょうこう水芭蕉みずばしょうくところは全国ぜんこくてきにもまれである。
  • ザ★雪合戦ゆきがっせんinじょうはな(2がつだい1にち曜日ようび
  • 城端じょうはた曳山ひきやまさい(5がつ4にち・5にち
  • 城端じょうはなむぎやまつり(9がつだい2土曜日どようびだい3にち曜日ようび

出身しゅっしん有名人ゆうめいじん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 成田なりた有佳ゆか(2014ねん4がつ8にち). “平成へいせいだい合併がっぺい:10周年しゅうねん 砺波となみ、おそろい作戦さくせん展開てんかいみなみ砺、おい事業じぎょう募集ぼしゅう”. 毎日新聞まいにちしんぶん (毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ)
  2. ^ 城端じょうはな雜記ざっき武家ぶけ時代じだい社会しゃかい研究けんきゅう牧野まきの信之のぶゆきすけ ちょ (かたなこう書院しょいん, 1928)
  3. ^ 城端じょうはたまち富山とやまけん産業さんぎょう港湾こうわん』 (港湾こうわん協会きょうかいだいきゅうかい通常つうじょう総会そうかい富山とやま準備じゅんび委員いいんかい, 1936)
  4. ^ 富山とやまけん東礪波ひがしとなみぐん城端じょうはたまち全国ぜんこく優良ゆうりょう町村ちょうそん案内あんない : 内務省ないむしょう選奨せんしょう埼玉さいたまけん入間いるまぐん へん (入間いるまぐん, 1921)
  5. ^ 富山とやまけん東礪波ひがしとなみぐん城端じょうはたまち優良ゆうりょう町村ちょうそん便覧びんらん上野うえのななろう へん (中央ちゅうおう報徳会ほうとくかい, 1925)
  6. ^ 城端じょうはたまち歴史れきし文化ぶんか』(2004ねん10がつ2にち城端じょうはたまち教育きょういく委員いいんかい発行はっこう)504ぺーじ
  7. ^ 城端じょうはたまち富山とやまけん町村ちょうそん治績ちせき』(富山とやまけん, 1909)
  8. ^ 城端じょうはな礪波となみ大観たいかん礪波となみ新報しんぽうしゃ へん (礪波となみ新報しんぽうしゃ, 1912)

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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