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塩冶 貞清(えんや さだきよ[1][2]、旧字体:鹽冶 貞淸[3]、生年不詳 - 正中3年3月28日(1326年5月1日)[1][2][5])は、鎌倉時代後期の武将[1]。雲州源氏。
塩冶頼泰の子[1][5](長男[2]とされるが兄弟に塩冶秀時がいたようである[3][6])。通称は孫二郎[1][2]。佐々木貞清(ささき -)とも呼ばれる[1][2]。近江判官、塩冶判官と称したとも伝わる[3]。
鎌倉幕府第9代執権の北条貞時が北条氏得宗家当主であった期間(1284年-1311年)内に元服[注釈 1]して、貞時と烏帽子親子関係を結んでその偏諱(「貞」の字)を受けた[7]人物とみられる。
父・頼泰より出雲守護を継承[1][2][7]し、左衛門尉[3]・検非違使[3]・近江守(近江判官[5])に任ぜられ[1]、従五位下に叙任[3]。
正和3年3月8日(1314年3月24日)、出雲鰐淵寺に祖父・佐々木泰清が建立した三重多宝塔を、父・塩冶頼泰が修復していたが未完成に終わっていた為、この完成を発願した。
出雲國鰐淵寺三重多寳塔事。
奉安置、
銀塔一基、
法華經一部唐本、
佛舎利一粒。
右、
祖父・
信州禅門泰覺(
佐々木泰清)、
爲除宿痾之危、
發起造塔之願、
依之造立三重之塔婆、
修復二尊之形像、其上
結構五輪之銀塔、
安置二種之聖財、
親父・
左金吾校尉(
塩冶)
頼泰、
又續而致
奉加、
々
修造。
然而
内外半作、
荘厳未終、仍且
爲遂當時之造作、且爲
助永代之破損、
寄附壹町之田畝、
速果二代之宿望畢。
故以此
銀塔奉納彼梵閣、
仰願伽藍安穩而亞
繁昌於後
佛之暁、
聖財湛然而耀
威光於末
法之昏、
自利々
他、
兼濟無窮而己。
正和三年三月八日従五位下行左衞門少尉源朝臣貞清(
花押)
— 『出雲守護・佐々木貞清願文』
(所収『出雲鰐淵寺文書』第39号)
その他の活動としては、正中2年(1325年)[注釈 2]5月に鰐淵寺内の守護使入部を停止したり[1][2]、翌3年(1326年)に杵築大社頭役の勤否を六波羅に注進したりしたことが伝わっている[1]。後者と同年の3月28日に死去[1][2][5]。子には塩冶高貞・塩冶時綱・塩冶貞泰がおり[3](他に寂阿・宗貞・宗泰・泰綱・高顕がいたとする系図もある[6])、嫡子であった高貞が跡を継いだ[5]。
- ^ 元服はおおよそ10代前半もしくはこの前後で行われることが多かったことから、生誕年も1300年以前であったと推定することができる(但し、早めの元服であれば1300年前半生まれの可能性はある)。
- ^ この年の段階でも出雲守護であったことが確認されている。