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大伴 書持(おおとも の ふみもち)は、奈良時代の貴族・歌人。姓は宿禰。大伴旅人の子で、大伴家持の弟。
史書などには事績は見られず(よって、官位も不明)、『万葉集』に収められた歌で、その生涯を知ることができる。
最古の和歌は、天平10年8月20日(738年10月7日)に、橘奈良麻呂が集宴を開催した時のものである。
あしひきの
山のもみち
葉 今夜(こよひ)もか
浮かび
行(ゆ)くらむ
山川(やまがは)の
瀬に
((あしひきの)
山の
紅葉は この
夜中にも
散っては
浮かんで
行っているだろうなあ
山川の
瀬を)
[1]
翌年には、兄家持の妾の死を悼む和歌に唱和して、歌を詠んでいる。
(
天平)
十一年己卯(きぼう)の
夏六月(
739年)、
大伴宿禰家持、
亡(す)ぎにし
妾(をみなめ)を
悲傷(かなし)びて
作る
歌一首
今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにかひとり 長き夜(よ)を寝(ね)む
(これからは 秋風も寒く 吹くだろうに どんなにしてひとり 秋の夜長を寝たものだろうか)
弟(おと)大伴宿禰書持即(すなは)ち和(こた)ふる歌一首
長き夜(よ)を ひとりや寝(ね)むと 君が言へば 過ぎにし人の 思ほゆらくに
(
長い
夜を ひとりで
寝るかと あなたが
言うので
亡くなった
人が
思い
出されます)
[2]
また、天平12年12月9日(740年12月31日)には、天平2年(730年)に大宰帥であった父、旅人の梅の花の宴の歌に想像で追和したという6首を詠んでいる[3]、天平13年4月2日(741年5月20日)には、恭仁京に滞在中の兄家持あてに奈良の邸宅から霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌を贈っている[4]。
ほかにも、ほととぎすを詠んだ歌2首[5]や、紅葉を詠んだ歌[1]がある。
天平18年9月25日(746年)に、兄の家持が「長逝せる弟を哀傷(かなし)ぶる歌一首、并(あわ)せて短歌」を詠んでいるので、この年に亡くなったものと思われる。その長歌の序によると
このひととなり、花草花樹を好愛(め)でて、多く寝院(しんゐん)の庭(には)に植ゑたり。故(ゆゑ)に「花薫(にほ)へる庭」といふ
とあり、
佐保山に火葬す。故に「佐保の内の里を行き過ぎ」といふ
と記されている[6]。
つづく反歌は、以下のようなものである。
ま
幸(さき)くと
言ひてしものを
白雲に
立ちたなびくと
聞けば
悲しも
(達者でと 言っておいたのに 白雲となって 立ちたなびいたと 聞くと悲しい)
かからむと かねて知りせば 越(こし)の海の 荒磯(ありそ)の波も 見せましものを
(こうなると かねて
知っていたら
越の
海の
荒磯の
波でも
見せてやればよかった)
[7]
当時、家持は越中守であり、弟の臨終に立ち会うことはできなかった。
- ^ a b 『万葉集』巻第八、1587番
- ^ 『万葉集』巻第三、462番・463番
- ^ 『万葉集』巻第十七、3901番 - 3906番。
- ^ 『万葉集』巻第十七、3909番・3910番
- ^ 『万葉集』巻第八、1480番・1481番
- ^ 『万葉集』巻第十七、3957番
- ^ 『万葉集』巻第十七、3958番・3959番
- 『萬葉集(一)(完訳日本の古典2)』、小学館、1982年
- 『萬葉集(三)(完訳日本の古典4)』、小学館、1984年
- 『萬葉集(五)(完訳日本の古典6』、小学館、1986年