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大江匡衡おおえのまさひら

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大江おおえ ただし
大江匡衡おおえのまさひら菊池きくち容斎ようさい前賢ぜんけん故実こじつ』)
時代じだい 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん てんれき6ねん952ねん
死没しぼつ 寛弘かんこう9ねん7がつ16にち1012ねん8がつ6にち[1]
官位かんい せいよん式部しきぶ大輔だいすけ
主君しゅくん 円融天皇えんゆうてんのう花山はなやま天皇てんのう一条天皇いちじょうてんのう三条さんじょう天皇てんのう
氏族しぞく 大江おおえ
父母ちちはは ちち大江おおえ重光しげみつはは藤原ふじわらようむすめ
兄弟きょうだい 大江おおえ雅致がち[2]
つま 赤染あかぞめようむすめ赤染あかぞめ衛門えもんとも徳成とくなりむすめ
きょしゅうもちたかし匡子まさこのうこう
養子ようしどきとうはやしつよし
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大江おおえ ただし(おおえ の まさひら)は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき貴族きぞく歌人かじん儒者じゅしゃ中納言ちゅうなごん大江維時おおえのこれときまごで、左京さきょう大夫たいふ大江おおえ重光しげみつ官位かんいせいよん式部しきぶ大輔だいすけ中古ちゅうこさんじゅう六歌仙ろっかせん一人ひとり

経歴けいれき[編集へんしゅう]

村上むらかみちょうてんれき6ねん952ねん)に誕生たんじょう大江おおえこう)は大江音人おおえのおとんどとし菅原すがわら菅家すがや)となら学問がくもん家柄いえがらで、菅原すがわら道真みちざね失脚しっきゃく飛躍ひやくし、「聖代せいだい」とされている村上むらかみちょうにはただし衡の祖父そふにあたる維時や一族いちぞく大江朝綱おおえのあさつならが儒家じゅか中心ちゅうしんてき存在そんざいとなる。ちち重光しげみつ対策たいさく及第きゅうだいしている文人ぶんじん官僚かんりょう

ただし衡は晩年ばんねん自身じしん半生はんせい回顧かいこした長編ちょうへん述懐じゅっかい[3]のこしており、幼少ようしょうから青年せいねん様子ようすしるされている。述懐じゅっかいによればただし衡は7さい読書どくしょはじめ、9さいえいさくおこなう。かんたもつ元年がんねん964ねん)13さい元服げんぷくし、祖父そふ・維時から教戒きょうかいけたという(維時は実際じっさいにはおう3ねん963ねん)に死去しきょ[4])。なお、元服げんぷくさいしてあらためた「ただし衡」のかんだい文人ぶんじんであるただし由来ゆらいするとかんがえられている[5]

かん3ねん966ねん)15さいだい学寮がくりょうはいり、よくかん4ねんにはりょうためし合格ごうかくしてなずらえ文章ぶんしょうせいとなる。ただし衡は紀伝きでんどうまなび、てんのべ元年がんねん973ねん)にはぶけためし合格ごうかくして文章ぶんしょうせいとなる。なお、この時期じきちち重光しげみつ死去しきょしている。天元てんげん2ねん979ねん)に対策たいさく及第きゅうだいする(さくとい作者さくしゃといあたま博士はかせかん原文げんぶんさくとい問題もんだい)とただし衡の回答かいとうは『本朝ほんちょうぶんいき』に収録しゅうろくされている)。ただし衡は赤染あかぞめようむすめ歌人かじんとしてられる赤染あかぞめ衛門えもんしつとしているが、長子ちょうしきょしゅう出生しゅっしょう時期じきから天元てんげん年間ねんかん婚姻こんいんであるとかんがえられている。

寛和ひろかず元年がんねん985ねん襲撃しゅうげきされひだり手指しゅし(どのゆびかは不明ふめい)を切断せつだんされる。犯人はんにん藤原ふじわらたもつとされる。

東宮とうぐう学士がくし文章ぶんしょう博士はかせて、せいよん式部しきぶ大輔だいすけいたる。ただし衡はいちじょうあさ文人ぶんじんとして活躍かつやくし、藤原ふじわら道長みちなが藤原ふじわらこうなり藤原公任ふじわらのきんとうなどと交流こうりゅうがあり、時折ときおりかれらのひょう願文がんもん上奏じょうそうなどの文章ぶんしょう代作だいさくし、めい儒としょうされた。また地方ちほうかんとしても善政ぜんせいほまたかく、尾張おわりこく国司こくしとしての在任ざいにんちゅう学校がっこういん設立せつりつし、地域ちいき教育きょういく向上こうじょうつとめた。

長和ながわ元年がんねん1012ねん)5がつまつより食事しょくじ支障ししょうきたすなど体調たいちょうくずして、同年どうねん7がつ16にち薨去こうきょ享年きょうねん61。最終さいしゅう官位かんい式部しきぶ大輔だいすけせい四位下兼文章博士侍従丹波守。公卿くぎょうとしての地位ちいのぞんだがたせずにわった。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

大江匡衡おおえのまさひら赤染あかぞめ衛門えもんはおしどり夫婦ふうふとしてられており、なかあつしましい夫婦ふうふなかより、ただし衡衛もんばれたという[6]かん詩文しぶんに『こう吏部しゅう』、私家集しかしゅうに『ただし朝臣あそんしゅう』がある。『こう拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』(7しゅ以下いか勅撰ちょくせん和歌集わかしゅう和歌わか作品さくひんが12しゅ採録さいろく[7]

かんれき[編集へんしゅう]

注記ちゅうきのないものは『中世ちゅうせい山形やまがた大江おおえ』による[8]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんりゃく長和ながわ元年がんねん(1013ねんじょう死没しぼつ記事きじがあり、生年せいねん逆算ぎゃくさん
  2. ^ 藤岡ふじおか忠美ただみ中野なかの幸一こういちいぬやしなえれん石井いしい文夫ふみお新編しんぺん 日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく全集ぜんしゅう26 和泉式部いずみしきぶ日記にっき 紫式部むらさきしきぶ日記にっき 更級さらしな日記にっき 讃岐典侍さぬきのすけ日記にっき』(小学館しょうがくかん 1994ねん
  3. ^ じゅつ懐古かいこ調ちょう」。『こう吏部しゅうまきちゅう収録しゅうろくされ、ひゃくおよ長編ちょうへん自身じしん生涯しょうがい回顧かいこ
  4. ^ 公卿くぎょう補任ほにん
  5. ^ 後藤ごとう昭雄あきお大江匡衡おおえのまさひら
  6. ^ 紫式部むらさきしきぶ日記にっき
  7. ^ 勅撰ちょくせん作者さくしゃ部類ぶるい
  8. ^ 中世ちゅうせい山形やまがた大江おおえ』43ぺーじ
  9. ^ a b c d e f しょう右記うき
  10. ^ 本朝ほんちょうぶんいき
  11. ^ a b c d e けん
  12. ^ a b c 御堂みどう関白かんぱく

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  • だい江川えがわ (宮田みやた用水ようすい) - 「大江おおえ用水ようすい」ともいう。尾張おわり国司こくし時代じだい整備せいびさせた用水路ようすいろ基礎きそとなっている(名称めいしょう由来ゆらいでもある)。