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おく八兵衛はちべえ

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佐藤さとうただし魚屋さかなや八兵衛はちべえ毛呂けろ清春きよはるきゅうぞう

おく 八兵衛はちべえ(おく はちべえ、生年せいねんしょう - 寛文ひろふみ9ねん1がつ23にち1669ねん2がつ23にち))は、江戸えど時代じだい京都きょうと魚屋さかなやである。屋号やごう河内屋かわちや

代々だいだい家業かぎょうであるさかなしょうにたずさわり、鮮魚せんぎょ調進ちょうしんするため皇居こうきょにも出入でいりしていた。うけたまわおう3ねん1654ねん)、こう光明こうみょう天皇てんのう崩御ほうぎょさいして、先例せんれいにより葬儀そうぎ仏教ぶっきょうしきとし、玉体ぎょくたい天皇てんのう身体しんたい)は荼毘だびす(火葬かそう)ことと朝議ちょうぎけっした。これをいた八兵衛はちべえは、火葬かそう仏教ぶっきょうもとづくそうせいであるところ、かねて天皇てんのう儒学じゅがく専心せんしんして「火葬かそうひとしである」となげき、仏教ぶっきょう信仰しんこうしていなかったことから、火葬かそうすることは天皇てんのう意思いし沿わないとかんがえた。そこで八兵衛はちべえは、せんいん上皇じょうこう御所ごしょ)から関白かんぱく屋敷やしき後宮こうきゅう官吏かんり役宅やくたくまでたずまわり、数日すうじつにわたって号泣ごうきゅうして火葬かそう中止ちゅうし建言けんげん懇請こんせいした。ついに朝議ちょうぎ八兵衛はちべえ建言けんげん採納さいのうし、もちすべ天皇てんのうからせんねんちかくにわたって断続だんぞくてきおこなわれていた天皇てんのう火葬かそう停止ていしした。以後いご昭和しょうわ天皇てんのういたるまで歴代れきだい天皇てんのう土葬どそうされた[1]

1879ねん明治めいじ12ねん)に、忠誠ちゅうせいしょうして、子孫しそんおく八郎はちろう兵衛ひょうえおいしょうけて士族しぞくれっせられ、さらに1907ねん明治めいじ40ねん)5がつには八兵衛はちべえせいおくられた[2]

脚注きゃくちゅう

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関連かんれん項目こうもく

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