こう蔵主くらぬし

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こう蔵主くらぬし(こうぞうす、? - 寛永かんえい3ねん4がつ14にち1626ねん5月9にち[1])は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょき活躍かつやくした女性じょせい豊臣とよとみ秀吉ひでよし正室せいしつ高台院こうだいいんきの筆頭ひっとう上臈じょうろうで、のち徳川とくがわ秀忠ひでただ上臈じょうろうとなった。「孝蔵こうぞうぬし」は上臈じょうろうとしての雅名がめいであり、実名じつめい不明ふめい

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

蒲生がもう家臣かしん川副かわそえ勝重かつしげむすめとしてまれ、出家しゅっけして孝蔵こうぞうぬし名乗なの[2]

高台院こうだいいんつかはじめた正確せいかく時期じきしょうであるが、豊臣とよとみ秀吉ひでよし関白かんぱくになったころにはおく仕切しき責任せきにんしゃとなっていたとおもわれる。天正てんしょう18ねん1590ねん)には謀反むほんうたがいをもたれた伊達だてまさしむねたい秀吉ひでよし代理だいりとして詰問きつもん書状しょじょうおくり、慶長けいちょう2ねん1597ねん)、蔚山うるさんじょうたたかにおける失態しったい小早川こばやかわ秀秋ひであき筑前ちくぜんこくから越前えちぜんこくへの懲罰ちょうばつてきうつりふう決定けっていしたさいにも実務じつむ仕切しきっている。秀吉ひでよしより謀反むほんうたがいをかけられた豊臣とよとみ秀次しゅうじ聚楽第じゅらくだいからだい坂城さかき出頭しゅっとうするように説得せっとくする使者ししゃ役割やくわりめいじられたこともある。また、内裏だいりへの進上しんじょうぶつ持参じさんしていることから高台院こうだいいんきの女房にょうぼう上位じょういにいたことがわかる[3]。そのため、「ひょうのことは浅野あさの長政ながまさが、おくのことは孝蔵こうぞうぬしが」とわれるほどの権威けんいっていた。豊臣とよとみ秀吉ひでよし辞世じせいとおち えにし わがかな 難波なんばのことも ゆめのまたゆめ」は天正てんしょう16ねん1588ねん)4がつこう陽成ようぜい天皇てんのう聚楽第じゅらくだいむかえたさいんだものだが、このをしたためた短冊たんざく後々あとあとまであずかっていたのが孝蔵こうぞうおもである。

慶長けいちょう3ねん1598ねん)に秀吉ひでよし死去しきょすると、慶長けいちょう4ねん1599ねん)に高台院こうだいいんとも大坂おおさかしろ退去たいきょし、きょう三本木さんぼんぎ現在げんざい祇園ぎおん付近ふきん)にうつる。その高台院こうだいいん執事しつじとして大津おおつじょうたたか講和こうわ交渉こうしょうやく[4]徳川とくがわ家康いえやすとの折衝せっしょうやくなどをつとめる。しかし慶長けいちょう19ねん1614ねん)、大坂おおさかじん直前ちょくぜん駿府すんぷおもむき、その徳川とくがわ秀忠ひでただから江戸城えどじょうした屋敷やしきあたえられ、寛永かんえい2ねん1625ねん)10がつ23にちには河内かわうちこく深井ふかいむらに200せき領地りょうちあたえられる[5]秀忠ひでただからの200せき公式こうしき拝領はいりょうした寛永かんえい2ねん10がつ高台院こうだいいんいち周忌しゅうきけであった。

寛永かんえい3ねん(1626ねん)に死去しきょ生涯しょうがい未婚みこんであったためはいなかったが、末弟ばってい川副かわそえ正俊まさとし大坂おおさかじん討死うちじに)の嫡子ちゃくしである重次しげつぐ養子ようしとなり200せきいだ。墓所はかしょ東京とうきょう荒川あらかわ西日暮里にしにっぽり南泉みないずみてら

なぞ[編集へんしゅう]

江戸えどひがしくだしたことにかんしては、

  • 豊臣とよとみ見限みかぎ高台院こうだいいん見捨みすてた。
  • 淀殿よどどのより江戸えど幕府ばくふへの内通ないつううたがいをかけられ、危険きけんかん江戸えど逃亡とうぼうした。
  • もともと高台院こうだいいん関ヶ原せきがはらたたかさい西にしぐん支持しじしており、孝蔵こうぞうぬし石田いしだ三成みつなり縁戚えんせき義理ぎりおいであるおか重政しげまさ三成みなり次女じじょ婿むこ)であることから西にしぐんのため積極せっきょくてき活動かつどうしていたが、三成みなりらの死後しご高台院こうだいいん豊臣とよとみ存続そんぞくのためにかつての武断ぶだん連絡れんらくをとるようになり、孝蔵こうぞうぬしはそれがゆるせずに絶縁ぜつえんした[6]
  • 徳川とくがわ秀忠ひでただが12さいとき人質ひとじちとして秀吉ひでよししたおくられたさい身柄みがらあずかった高台院こうだいいん孝蔵こうぞうぬしからのようにいつくしみそだてられたおんむくいるため、秀忠ひでただ高台院こうだいいん了承りょうしょう孝蔵こうぞうぬし招聘しょうへいした。
  • 移住いじゅう背景はいけい徳川とくがわ家康いえやす意思いしがあり、この前提ぜんていには豊臣とよとみ徳川とくがわ融和ゆうわ胎動たいどうがあり、さらにその前提ぜんていとして、解消かいしょうしきれない緊張きんちょうがあったとされる[4]

など相反あいはんする仮説かせつ乱立らんりつし、いまだになぞとなっている。

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビドラマ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 内藤ないとう耻叟ちそう徳川とくがわじゅうだいまき4:43ぺーじ
  2. ^ 桑田くわたただしおや桃山ももやま時代じだい女性じょせい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1972ねん)142ぺーじ
  3. ^ 田端たばた泰子やすこ北政所きたのまんどころおね―大坂おおさかことは、ことのもなし―』(ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2007ねん8がつ)119ぺーじ
  4. ^ a b 跡部あとべしん高台院こうだいいん豊臣とよとみ」(『大阪城おおさかじょう天守閣てんしゅかく紀要きようだい34ごう、2006ねん
  5. ^ 桑田くわたただしおや桃山ももやま時代じだい女性じょせい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1972ねん)144ぺーじ
  6. ^ 白川しらかわとおる石田いしだ三成みつなりとその一族いちぞく』など

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]