小御門こみかど神社じんじゃ

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小御門こみかど神社じんじゃ
小御門神社 拝殿
拝殿はいでん
所在地しょざいち 千葉ちばけん成田なりた名古屋なごや898
位置いち 北緯ほくい3551ふん22.9びょう 東経とうけい14021ふん30.6びょう / 北緯ほくい35.856361 東経とうけい140.358500 / 35.856361; 140.358500
主祭しゅさいしん おく太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわらけんぶんさだおおやけ
社格しゃかくひとし 別格べっかくかんぬさしゃ別表べっぴょう神社じんじゃ
創建そうけん 明治めいじ15ねん(1882ねん
例祭れいさい 4がつ29にち
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小御門こみかど神社じんじゃ(こみかどじんじゃ)は、千葉ちばけん成田なりた名古屋なごやにある神社じんじゃである。きゅう社格しゃかく別格べっかくかんぬさしゃたてたけし中興ちゅうこうじゅうしゃいちしゃである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

後醍醐天皇ごだいごてんのう側近そっきん藤原ふじわらけんまつる。けん元弘もとひろ元年がんねん1331ねん)、後醍醐天皇ごだいごてんのう身代みがわりに比叡山ひえいざん討幕とうばく挙兵きょへいしたが(元弘もとひろへんとらえられ、元弘もとひろ2ねん下総しもうさこくながされて、その3かげつに32さいで歿した。たてたけし中興ちゅうこうさい太政大臣だじょうだいじん追贈ついぞうされ、ぶんさだおおやけ諡号しごうあたえられた。

明治めいじ10ねん1877ねん)、住民じゅうみんによりけんまつ神社じんじゃ創建そうけん運動うんどうこった。明治めいじ12ねん1879ねん)に神社じんじゃ創建そうけん許可きょかりて「小御門こみかど神社じんじゃ」のしゃごう決定けっていし、明治めいじ15ねん1882ねん)にけんはかあと社殿しゃでん造営ぞうえいし、同年どうねん4がつ29にち鎮座ちんざさいおこなわれ、同年どうねん6がつ14にち別格べっかくかんぬさしゃれつかくした。

後醍醐天皇ごだいごてんのう身代みがわりとなったことから「身代みがわりのかみ」として、交通こうつう安全あんぜん航空こうくう安全あんぜん御利益ごりやくありとして信仰しんこうされる。

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 千葉ちばけん指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ
    • 小御門こみかど神社じんじゃもり  このもりは、明治めいじ時代じだい社殿しゃでん造営ぞうえいとともにうえ栽された人工じんこうりんだい部分ぶぶんめ、シラカシ、クスノキ、スギ、クロマツ、モミなどから構成こうせいされている。うえ栽後やく100ねん経過けいかし、いずれもみきかこえり1.5m以上いじょうだか15m以上いじょう大木たいぼく成長せいちょうし、荘厳そうごん外観がいかん形成けいせいしている。  はやしはシラカシりん、タブノキりん、スギりん混生こんせいりん大別たいべつされる。社殿しゃでんうらのタブノキりん以外いがいは、社殿しゃでん造営ぞうえいには畑地はたちであったとつたえられる。タブノキりんふるくから保護ほごされてきたはやしで、にアカガシも混生こんせいしている。社務しゃむしょ裏側うらがわにはスギりんがあり、モウソウチクが混生こんせいしている。社殿しゃでん東側ひがしがわおよ南側みなみがわはやしはクスノキを主体しゅたいとしてスダジイ、クロマツなどが混在こんざいしている。  はやしなかとく注目ちゅうもくすべきは、シラカシりんである。参道さんどう西側にしがわ発達はったつしており、だか25mにたっしている。シラカシりんきたそう地域ちいき代表だいひょうてき常緑じょうりょく広葉樹こうようじゅりんとされるが、その起源きげん生垣いけがき防風ぼうふうりんなど人為じんいてき森林しんりんであるとかんがえられている。小御門こみかど神社じんじゃもりは、うえ栽の時期じきがわかる発達はったつした人工じんこうりんられる場所ばしょとして貴重きちょうであるが、とくきたそう地域ちいき典型てんけいてきなシラカシりんがみられる場所ばしょとして重要じゅうようである。

ギャラリー[編集へんしゅう]

関連かんれん図書としょ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]