元弘もとひろらん

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元弘もとひろらん
稲村ヶ崎石碑
稲村ヶ崎いなむらがさき石碑せきひ神奈川かながわけん鎌倉かまくら
戦争せんそう元弘もとひろらん
年月日ねんがっぴ

れきもととく3ねん4がつ29にち - 元弘もとひろ3ねん6月5にち
西暦せいれき1331ねん6月5にち - 1333ねん7がつ17にち

場所ばしょ日本にっぽん全国ぜんこく笠置山かさぎやま金剛山こんごうざん千早ちはやじょう吉野よしのじょう京都きょうと鎌倉かまくら太宰府だざいふ ひとし
結果けっか後醍醐天皇ごだいごてんのう勢力せいりょく決定的けっていてき勝利しょうり鎌倉かまくら幕府ばくふ北条ほうじょうとく宗家そうけ滅亡めつぼうたてたけし新政しんせい開始かいし
交戦こうせん勢力せいりょく
後醍醐天皇ごだいごてんのう勢力せいりょく 鎌倉かまくら幕府ばくふ
北条ほうじょうとく宗家そうけ
指導しどうしゃ指揮しきかん
天皇てんのう

後醍醐天皇ごだいごてんのう


楠木くすのきとう
楠木くすのき正成まさしげ
楠木くすのき正季まさすえ
たちばな正遠まさとお和田わだ正遠まさとお)?


護良親王もりよししんのう勢力せいりょく
護良親王もりよししんのう
村上むらかみよし義光よしみつ) 
赤松あかまつ則祐のりすけ


後醍醐天皇ごだいごてんのう側近そっきん
みことりょう親王しんのう
日野ひのあさ 処刑
日野ひのしゅんもと 処刑
千種ちくさ忠顕ただあき


後半こうはんせん
足利あしかがたかし尊氏たかうじ
新田にった義貞よしさだ
菊池きくちたけしとき 
名和なわ長年ながとし
結城ゆうき親光ちかみつ
赤松あかまつ則村のりむら
平野ひらのすすむかん入道にゅうどう 処刑
佐々木ささきたかし
塩冶えんや高貞たかさだ

とくむね

北条ほうじょうだか 


うち管領かんりょう
長崎ながさきだか 


執権しっけん連署れんしょ
北条ほうじょう守時もりとき 
北条ほうじょうしげるとき 


征夷大将軍せいいたいしょうぐん
まもりくに親王しんのう


鎌倉かまくら幕府ばくふほんぐん
阿蘇あそおさむとき 処刑
長崎ながさき高貞たかさだ 処刑
名越なごしだか 
二階堂にかいどうさだふじ
安達あだちだかけい( ?)
宇都宮うつのみや高綱たかつな公綱きんつな


ろく探題たんだい
北条ほうじょうなかとき 
北条ほうじょうえき 


鎮西ちんぜい探題たんだい
赤橋あかばし英時ひでとき 


長門ながと探題たんだい
金沢かなざわただし

元弘もとひろらん

元弘もとひろらん(げんこうのらん)は、鎌倉かまくら時代ときよさい末期まっきもととく3ねん4がつ29にち1331ねん6月5にち)から元弘もとひろ3ねん6月5にち1333ねん7がつ17にち)にかけて、鎌倉かまくら幕府ばくふ打倒だとうかかげる後醍醐天皇ごだいごてんのう勢力せいりょくと、幕府ばくふおよ北条ほうじょうだか当主とうしゅとする北条ほうじょうとく宗家そうけ勢力せいりょくあいだおこなわれた全国ぜんこくてき内乱ないらん。ただし、元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん(1333ねん)5–6がつちゅうのどの出来事できごとをもって終期しゅうきとするかは諸説しょせつある(始期しき終期しゅうき)。

概要がいよう[編集へんしゅう]

後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばく目指めざした理由りゆう時期じきについては諸説しょせつあって一定いっていしないが、どのせつ採用さいようするにしても、もととく2ねん1330ねんまつには具体ぐたいてき倒幕とうばく計画けいかくっていたとされる。ところが、よく3ねん4がつ29にち(1331ねん6がつ5にち)に、後醍醐ごだいご側近そっきんさんぼう」の一人ひとり吉田よしだ定房さだふさろく探題たんだい計画けいかく密告みっこくして、鎌倉かまくら幕府ばくふもこれをるところになり、長崎ながさき高貞たかさだ追討ついとう使派遣はけんされた。関係かんけい各所かくしょ調しらべがすすなか後醍醐天皇ごだいごてんのう8がつ9にち西暦せいれき9月11にち)に「元弘もとひろ」への改元かいげんみことのりし(幕府ばくふ持明院じみょういんみつるみとめず)、さらに同月どうげつ後半こうはん京都きょうと脱出だっしゅつして、一品いっぴん中務なかつかさきょうみことりょう親王しんのうもと天台座主てんだいざしゅみことくも法親王ほうしんのう護良親王もりよししんのう)の皇子おうじとも笠置山かさぎやまたたかこした。武将ぶしょう楠木くすのき正成まさしげ桜山さくらやま茲俊もこれに呼応こおうして、正成まさしげ下赤坂しもあかさかじょうたたか開始かいし、茲俊は備後びんご吉備津きびつみや挙兵きょへいした。しかし、後醍醐ごだいごみことりょうもなく捕縛ほばくされ、みことくも護良もりなが)と正成まさしげび、茲俊は吉備津きびつみやをかけ自害じがいしててた。後醍醐天皇ごだいごてんのう退位たいい強制きょうせいされ、後醍醐ごだいご大覚寺だいかくじみつる対立たいりつする持明院じみょういんみつる皇統こうとう両統りょうとう迭立)からひかりげん天皇てんのう即位そくいし、後醍醐天皇ごだいごてんのう隠岐島おきのしまへ、みことりょう親王しんのう土佐とさこく高知こうちけん)にながされ、腹心ふくしん日野ひのあさ処刑しょけいされた。元弘もとひろ2ねん/もととく4ねん1332ねん4がつ10日とおか幕府ばくふ関係かんけいしゃ処分しょぶんえ、事態じたい終結しゅうけつ公式こうしき宣言せんげんした。ここまでをとく元弘もとひろへん(げんこうのへん)とび、「元弘もとひろへん」は「元弘もとひろらん」にふくまれるいち事件じけんであるとする場合ばあいおおいが、りょうかたり区別くべつせず「元弘もとひろへん」を「元弘もとひろらん」の同義語どうぎごとしてあつか場合ばあいもある(名称めいしょう)。元弘もとひろ2ねん/もととく4ねん4がつ28にち (1332ねん5月23にち)、幕府ばくふ持明院じみょういんみつるがわでは「せいけい」へ改元かいげんとなった。

ところが同年どうねんまつ楠木くすのき正成まさしげ還俗げんぞくした護良親王もりよししんのうさい挙兵きょへいし、さらによく元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん(1333ねん)には後醍醐天皇ごだいごてんのうみことりょう親王しんのう流刑りゅうけい脱出だっしゅつした。楠木くすのきとう籠城ろうじょうせん上赤坂かみあかさかじょうたたか千早ちはやじょうたたか長引ながびくことで幕府ばくふ御家人ごけにん厭戦えんせん感情かんじょうし、倒幕とうばくうなが後醍醐ごだいご綸旨りんじ天皇てんのう命令めいれいぶん)と護良もりなが令旨れいし皇族こうぞく命令めいれいぶん)が全国ぜんこく出回でまわったこととうにより、戦況せんきょう徐々じょじょ後醍醐ごだいご勢力せいりょくかえしてきた。ここに、北条ほうじょうとく宗家そうけ代々だいだい縁戚えんせき関係かんけいむすんできた武家ぶけ名門めいもん足利あしかが当主とうしゅであるこう尊氏たかうじ)が幕府ばくふから離反りはんしたことがおおきな転機てんきとなって、鎌倉かまくらからの遠征えんせいぐんきょうろく探題たんだい壊滅かいめつ。さらに、関東かんとうでは御家人ごけにん新田にった義貞よしさだらが倒幕とうばくおうじ、5月22にち西暦せいれき7がつ4にち)、ひがししょうてら合戦かっせんで、とくむね北条ほうじょうだかうち管領かんりょう長崎ながさきだか中心ちゅうしんとする幕府ばくふとく宗家そうけ本体ほんたいほろぼした。のこ九州きゅうしゅうではみことりょう親王しんのう菊池きくちたけしときらがたたかっていたが(たけ本人ほんにんは3がつちゅう戦死せんし)、同月どうげつ25にち西暦せいれき7がつ7にち)に鎮西ちんぜい探題たんだい攻略こうりゃくした。勝利しょうり完全かんぜんにした後醍醐天皇ごだいごてんのうは、どう25にちひかりげん天皇てんのう廃位はいいして元号げんごうを「元弘もとひろ」に一統いっとうすると、6月5にち西暦せいれき7がつ17にち)に京都きょうと凱旋がいせんたてたけし新政しんせい開始かいしした。

背景はいけい[編集へんしゅう]

正中せいちゅうへんまで[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき幕府ばくふでは北条ほうじょうとくむねいえ権勢けんせいるっていた(とくむね専制せんせい)。北条ほうじょう一門いちもん知行ちぎょうこくいちじるしく増加ぞうかする一方いっぽうで、御家人ごけにんそうでは、もとこうつづけられた異国いこく警固けいごばんやく負担ふたんもと寇の恩賞おんしょう訴訟そしょう停滞ていたい貨幣かへい経済けいざい普及ふきゅう所領しょりょう分割ぶんかつなどによって生活せいかつ困窮こんきゅうし、没落ぼつらくするもの増加ぞうかしていった。幕府ばくふ徳政令とくせいれいはっして対応たいおうするが、社会しゃかいてき混乱こんらんから諸国しょこくでは幕府ばくふ荘園しょうえん領主りょうしゅ反抗はんこうする悪党あくとう活動かつどう活発かっぱつし、次第しだい支持しじうしなっていった。

朝廷ちょうていでは13世紀せいき後半こうはん以降いこう後深草天皇ごふかくさてんのう子孫しそん持明院じみょういんみつる)と亀山天皇かめやまてんのう子孫しそん大覚寺だいかくじみつる)のりょう皇統こうとう天皇てんのう交互こうご即位そくいする両統りょうとう迭立おこなわれていた。だが、公家くげ社会しゃかいなか支持しじ皇統こうとうによる派閥はばつしょうじるようになるなど混乱こんらんこし、幕府ばくふによる朝廷ちょうてい制御せいぎょ困難こんなんにした。

ぶん2ねん(1318ねん)、大覚寺だいかくじみつる後醍醐天皇ごだいごてんのう即位そくいした。後醍醐天皇ごだいごてんのうちちこう宇多天皇うだてんのう政治せいじ路線ろせん継承けいしょうし、朝廷ちょうていへの中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめた。ところが、正中せいちゅう元年がんねん1324ねん)、幕府ばくふ打倒だとう計画けいかくしたという嫌疑けんぎをかけられ、ろく探題たんだいによって捕縛ほばくされた(正中せいちゅうへん)。幕府ばくふ公式こうしき発表はっぴょうでは、天皇てんのう冤罪えんざいとされてつみにはわれなかったが、側近そっきん日野ひのあさ佐渡さどとう流罪るざいとなった。

元弘もとひろ倒幕とうばく計画けいかく発端ほったん[編集へんしゅう]

太平たいへい』では、後醍醐天皇ごだいごてんのうへの無罪むざい判決はんけつは、幕府ばくふ弱腰よわごし姿勢しせい結果けっかであり、実際じっさいには天皇てんのう執念深しゅうねんぶか倒幕とうばく計画けいかくっていたと物語ものがたられており、歴史れきしがくとしてもこれにちか見方みかたをするのが通説つうせつてき見解けんかいである。

伝統でんとうてき見解けんかい支持しじするもりしげるあかつきによれば、後醍醐ごだいご倒幕とうばく傾向けいこうがさらにつよまり、しん段階だんかいはいったのは、1326ねんではないかという[1]正中せいちゅう3ねん3がつ20日はつか(1326ねん4がつ23にち)に大覚寺だいかくじみつる皇太子こうたいしくにりょう親王しんのう薨去こうきょして、持明院じみょういんみつるりょうじん親王しんのうひかりげん天皇てんのう)がたてぼうされ、さらによしみれきへの改元かいげんはさみ、関東かんとうさる代々だいだいつとめる西園寺さいおんじ当主とうしゅ地位ちいが、よしみれき元年がんねん11月18にち(1326ねん12月13にち)に西園寺さいおんじみのる薨去こうきょしたことで、持明院じみょういんみつるりである西園寺さいおんじこうむね交代こうたいするなど、後醍醐ごだいごにとって不利ふり事件じけんつづけにこったことが論拠ろんきょとしてげられる[1]

しかし、2007ねん河内かわうちさちによって、後醍醐天皇ごだいごてんのうはこの時点じてんではまだ幕府ばくふとの協調きょうちょう路線ろせんのぞんでおり、天皇てんのう本当ほんとう冤罪えんざいだったとする新説しんせつとなえられ[2]亀田かめだ俊和としかず大筋おおすじでの積極せっきょくてき支持しじ表明ひょうめい[3]呉座ござ勇一ゆういち蓋然性がいぜんせいたかいとている[4]

太平たいへい』には、げんとおる2ねん(1322ねん)のはるより後醍醐天皇ごだいごてんのう中宮ちゅうぐう西園寺さいおんじ禧子よしこ御産おさん祈祷きとうしょうして真言しんごんりつむね真言しんごん密教みっきょうそうであるえんかん文観もんかんらに「関東かんとう調伏ちょうぶく」の祈祷きとうをさせたとする記事きじせられており、通説つうせつてき見解けんかい支持しじする百瀬ももせ今朝雄けさおは、この祈祷きとう実際じっさいにはよしみれき元年がんねん(1326ねん)からあしかけ4ねんにわたるものであおれんいん慈道法親王ほうしんのうなども祈祷きとうくわわっていたことを指摘してきしたうえで、中宮ちゅうぐう懐妊かいにん事実じじつ虚偽きょぎであって実際じっさいには「関東かんとう調伏ちょうぶく」のための祈祷きとうであったと結論けつろんけた[5]。これにたいして、前述ぜんじゅつ河内かわうち百瀬ももせ年代ねんだい考証こうしょうみとめるものの、「御産おさん祈祷きとう」がくにりょう親王しんのう薨去こうきょの3かげつからはじまっていることに着目ちゃくもくして、後醍醐ごだいご関東かんとうさる代々だいだいつとめる西園寺さいおんじ出身しゅっしん女性じょせい母親ははおやとする親王しんのう誕生たんじょうすればくにあと皇位こうい継承けいしょう問題もんだい一気いっき有利ゆうりてることを指摘してきして、百瀬ももせをはじめとする伝統でんとうてき通説つうせつが「御産おさん祈祷きとう」を〈出産しゅっさん祈願きがんのための祈祷きとう〉とかいしているのがあやまりであり、これは〈懐妊かいにん祈願きがんのための祈祷きとう〉であって実際じっさいに「御産おさん祈祷きとう」がおこなわれていたと主張しゅちょうしている[6]

もりはじめとする伝統でんとうてき見解けんかいたいし、正中せいちゅうへん冤罪えんざいせつ支持しじする亀田かめだ主張しゅちょうでは、後醍醐ごだいご倒幕とうばくこころざしたのは、聡明そうめいさと実母じつぼ家格かかくたかさから後醍醐ごだいご世継よつぎとされていた世良せら親王しんのうもととく2ねん9月17にち1330ねん10月29にち)に病死びょうしし、自身じしん皇統こうとう存続そんぞくさせるのがむずかしくなった時点じてんからではないか(ぎゃくえば、この時点じてんまでは後醍醐ごだいご幕府ばくふ協調きょうちょう関係かんけいにあったのではないか)という[7]。また、河内かわうち主張しゅちょうもととく2ねんごろ鎌倉かまくら幕府ばくふ成長せいちょうしたくにりょう遺児いじ康仁やすひと親王しんのう)を将来しょうらい皇位こうい継承けいしょうしゃとする方針ほうしんかため、またあまりにも長期ちょうきにわたる「御産おさん祈祷きとう」が幕府ばくふ疑惑ぎわくまねいた結果けっか後醍醐ごだいごたいしてりょうじんへの譲位じょうい圧力あつりょくつよめてきたことで後醍醐ごだいご討幕とうばくかわせたとする[8]

こうして、後醍醐天皇ごだいごてんのう側近そっきん日野ひのしゅんもと前述ぜんじゅつ文観もんかんらと本格ほんかくてき倒幕とうばく計画けいかくすすめた。

経過けいか[編集へんしゅう]

笠置山かさぎやま下赤坂しもあかさかじょうたたか[編集へんしゅう]

皇居外苑こうきょがいえん楠木くすのき正成まさしげぞう

もととく3ねん4がつ29にち1331ねん6月5にち)、後醍醐ごだいご側近そっきんである吉田よしだ定房さだふさろく探題たんだい倒幕とうばく計画けいかく密告みっこくし、またも計画けいかく事前じぜん発覚はっかくした。ろく探題たんだい軍勢ぐんぜい御所ごしょなかにまでおくり、後醍醐ごだいご女装じょそうして御所ごしょ脱出だっしゅつし、比叡山ひえいざんかうとせかけて山城やましろこく笠置山かさぎやま挙兵きょへいした。後醍醐ごだいご皇子おうじ護良親王もりよししんのうや、河内かわうちこく悪党あくとう楠木くすのき正成まさしげもこれに呼応こおうし、それぞれ挙兵きょへいした。

幕府ばくふ大仏だいぶつさだただし金沢かなざわさだふゆ足利あしかがたかし尊氏たかうじ)、新田にった義貞よしさだらの討伐とうばつぐんけた。9月に笠置山かさぎやま陥落かんらくし(笠置山かさぎやまたたか)、楠木くすのきぐんまも下赤坂しもあかさかじょうのこった。ここで幕府ばくふぐん苦戦くせんいられる。楠木くすのきぐん城壁じょうへきいた幕府ばくふぐんたいして大木たいぼくとしたり、熱湯ねっとうびせかけたり、あらかじもうけておいたじゅうへいとしたりといった奇策きさく駆使くしした。だが楠木くすのき正成まさしげは、長期間ちょうきかん抗戦こうせん不可能ふかのうであると理解りかいしていた。10月、みずか下赤坂しもあかさかじょうをかけて自害じがいしたようにせかけ、姿すがたをくらませた(赤坂あかさかじょうたたか)。

後醍醐ごだいご側近そっきん千種ちくさ忠顕ただあきとともに幕府ばくふらえられた[注釈ちゅうしゃく 1]幕府ばくふ持明院じみょういんみつるひかりげん天皇てんのう即位そくいさせ、元号げんごうせいけいあらためさせるとともに、元弘もとひろ2ねん/せいけい元年がんねん1332ねん)、日野ひのしゅんもと北畠きたばたけぎょうさき流罪るざいとなっていた日野ひのちょうらを斬罪ざんざいとし、後醍醐ごだいご隠岐島おきのしま配流はいるした。こうして倒幕とうばく運動うんどう鎮圧ちんあつされたかにえた。

千早ちはやじょうたたか[編集へんしゅう]

元弘もとひろらんした人形にんぎょう京都きょうと笠置かさぎまち

護良親王もりよししんのう楠木くすのき正成まさしげ両者りょうしゃ各々おのおの潜伏せんぷくし、機会きかいをうかがっていた。楠木くすのき正成まさしげかわ内国ないこく金剛山こんごうざん千早ちはやじょう挙兵きょへいし、護良親王もりよししんのう吉野よしの挙兵きょへいして倒幕とうばく令旨れいしはっした。正成まさしげ元弘もとひろ2ねん/せいけい元年がんねん(1332ねんまつ赤坂あかさかじょう奪回だっかいし、よく元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん1333ねん)にはろくぜい摂津せっつこく天王寺てんのうじなどで撃破げきはした。

これにたい幕府ばくふふたた大仏だいぶつ家時いえとき大仏だいぶつ高直たかなお兄弟きょうだい名越なごや宗教しゅうきょうらがひきいる大軍たいぐんけた。金剛山こんごうさんけい籠城ろうじょうする楠木くすのきぜいたいし、幕府ばくふぐん正成まさしげ悪党あくとう仲間なかま平野ひらのすすむかん入道にゅうどう正成まさしげおとうと楠木くすのき正季まさすえらがまも上赤坂かみあかさかじょうかった。上赤坂かみあかさかじょうまもりはかた幕府ばくふぐん苦戦くせんするが、しろ水源すいげんち、平野ひらのすすむかんらを降伏ごうぶくさせた。おなごろ吉野よしのでは護良親王もりよししんのうやぶれた。

これにより、正成まさしげがわずかな軍勢ぐんぜい篭城ろうじょうする千早ちはやじょうのこすのみとなったが、楠木くすのきぐんよろいせたわら人形にんぎょうおとりとして射掛いかけるなどといったさくにより、ふたた幕府ばくふぐん翻弄ほんろうした。幕府ばくふぐん水源すいげんとうとしたが、千早ちはやじょうでは城中じょうちゅう水源すいげん確保かくほしていたため効果こうかはなかった。楠木くすのきぐん一部いちぶって包囲ほういかた奇襲きしゅうし、軍旗ぐんきうばって城壁じょうへきかか嘲笑ちょうしょうしてみせるなど、90日間にちかんにわたって幕府ばくふ大軍たいぐん相手あいてたたかいた。

幕府ばくふぐん千早ちはやじょう大軍たいぐんけにしながらとせずにいる、とのほう全国ぜんこくつたわり、各地かくち倒幕とうばく機運きうん触発しょくはつすることとなった。

ろく攻略こうりゃく[編集へんしゅう]

播磨はりまこくでは赤松あかまつ則村のりむら円心えんしん)が挙兵きょへいし、その各地かくちでも反乱はんらんきた。すなわちむら周辺しゅうへん後醍醐ごだいごかた糾合きゅうごうし、京都きょうと進撃しんげきするいきおいであった。このような状況じょうきょうて、うるう2がつ後醍醐天皇ごだいごてんのう名和なわ長年ながとしはたらきで隠岐おきとう脱出だっしゅつし、伯耆ほうきこく船上山せんじょうさんはいって倒幕とうばく綸旨りんじ天下てんかはっした(船上山せんじょうさんたたか)。

幕府ばくふ船上山せんじょうさんつため足利あしかがたかし名越なごしだからの援兵えんぺいおくんだ。しかし、4がつ27にちにはこう赤松あかまつ則村のりむらたれ、こう所領しょりょうのあった丹波たんばこくしのむら八幡宮はちまんぐう幕府ばくふ反旗はんきひるがえす。5月7にち足利あしかがたかし佐々木ささきみちほまれ則村のりむららと呼応こおうしてろく探題たんだいとし、京都きょうと制圧せいあつした。北条ほうじょうなかとき北条ほうじょうえきろく探題たんだい一族郎党いちぞくろうとう東国とうごくのがれようとするが、5月9にち近江おうみこく番場ばんば蓮華寺れんげじ自刃じじんし、ひかりげん天皇てんのうこう伏見ふしみ上皇じょうこう花園はなぞの上皇じょうこうらえられた[注釈ちゅうしゃく 2]

鎌倉かまくら攻略こうりゃく[編集へんしゅう]

5月8にち新田にった義貞よしさだ上野うえのこく生品なましな明神みょうじん挙兵きょへいした。新田しんでんぐん一族いちぞく周辺しゅうへん御家人ごけにんあつめてへいやしつつ、利根川とねがわえて南進なんしんした。新田にった声望せいぼう当時とうじさほどたかくはなかったが、鎌倉かまくら時代じだいとおしてみなもと名門めいもん認識にんしきされていた足利あしかがこう尊氏たかうじ)の嫡子ちゃくし千寿せんずおう足利あしかが義詮よしあきら)が合流ごうりゅうしたことにより、義貞よしさだ軍勢ぐんぜいいきおいをし、新田にったぐんすうまん規模きぼふくがったとつたわる。幕府ばくふ北条ほうじょうやすしらの軍勢ぐんぜい迎撃げいげきのためにかわせるが、御家人ごけにんらの離反りはん相次あいつぎ、小手指こてさしばらたたか分倍河原ぶばいがわらたたか敗退はいたいし、幕府ばくふぜい鎌倉かまくらめられた。

新田にったぐん極楽寺ごくらくじざかきょぶくりょざか、そして義貞よしさだおとうと脇屋わきや義助よしすけ化粧けしょうざかさんぽうから鎌倉かまくら攻撃こうげきした。しかし天然てんねん要塞ようさいとなっていた鎌倉かまくら切通きりどおまもりはかたく、極楽寺ごくらくじざかでは新田しんでんかただいたてはじめ戦死せんしした。たたかいは一旦いったん膠着こうちゃくし、新田にったぐん切通きりどおしからの攻略こうりゃくあきらめたが、新田にった義貞よしさだ海岸かいがんせん稲村ヶ崎いなむらがさき)から鎌倉かまくら突入とつにゅうした。執権しっけん北条ほうじょう守時もりときだい16だい執権しっけん)や北条ほうじょうはじめときだい13だい執権しっけん)ら幕府ばくふ要人ようじん戦死せんし自害じがいした市街しがいせんののち、のこったとく宗家そうけ当主とうしゅ北条ほうじょうだかだい14だい執権しっけん)や北条ほうじょうさだあきらだい15だい執権しっけん)ら幕府ばくふ中枢ちゅうすう諸人もろびと総計そうけい800余人よにんは5月22にち北条ほうじょう菩提寺ぼだいじであったひがししょうてらにおいて自害じがいした(ひがししょうてら合戦かっせん)。

九州きゅうしゅう[編集へんしゅう]

おなごろ鎮西ちんぜい探題たんだい北条ほうじょう英時ひでときも、しょうさだけい大友おおとも貞宗さだむね島津しまつ貞久さだひさらにめられて5がつ25にち博多はかた自刃じじんした。

その[編集へんしゅう]

後醍醐天皇ごだいごてんのうは、北条ほうじょうだか冥福めいふくいのるため、たてたけし2ねん1335ねん)3がつごろ、腹心ふくしん足利尊氏あしかがたかうじめいじ、鎌倉かまくらたかとき屋敷やしきあとたから戒寺建立こんりゅうしようとした[10][注釈ちゅうしゃく 3]。その戦乱せんらん造営ぞうえい一時いちじ中断ちゅうだんされていたが、かんおう擾乱じょうらん(1350–1352)をせいして幕府ばくふ実権じっけんにぎったたかしは、えんかん名義めいぎじょう開山かいさんせいおもんみけん実質じっしつてき開山かいさん)として、正平しょうへい8ねん/文和ふみかず2ねん1353ねんはるごろから造営ぞうえい再開さいかいし、翌年よくねんごろには完成かんせいさせ、後醍醐ごだいご遺志いし完遂かんすいした[10][注釈ちゅうしゃく 4]

また、こう遺児いじ北条ほうじょうぎょうちゅう先代せんだいらん一時いちじ後醍醐天皇ごだいごてんのう反旗はんきひるがえしたが、のち南北なんぼくあさ内乱ないらんはじまると後醍醐ごだいごがわについたが、足利あしかがぐんとのたたかいで敗北はいぼくし、られた。[11]

影響えいきょう[編集へんしゅう]

後醍醐天皇ごだいごてんのう討幕とうばく運動うんどうつい成功せいこうた。後醍醐天皇ごだいごてんのう京都きょうと帰還きかんし、元弘もとひろ元号げんごう復活ふっかつさせ、念願ねんがんであった中央ちゅうおう集権しゅうけん政策せいさくであるたてたけし新政しんせい開始かいしした。しかし、たてたけし政権せいけんは、後醍醐天皇ごだいごてんのう足利尊氏あしかがたかうじたたかたてたけしらんにより、わずか3ねん崩壊ほうかいした。

太平たいへい史観しかんや、それをいだ1960年代ねんだい佐藤さとう進一しんいちせつでは、後醍醐天皇ごだいごてんのう独裁どくさいてき暗君あんくんで、その政策せいさく現実げんじつてきなものであり、また側近そっきん公家くげばかりを贔屓ひいきし、元弘もとひろらん功績こうせきのあった武士ぶしたちを冷遇れいぐうしたとされる。このことにより、足利尊氏あしかがたかうじ後醍醐ごだいごへの叛意はんいいだき、たてたけしらんたてたけし政権せいけんほろぼして室町むろまち幕府ばくふ創立そうりつしたとされる。

その一方いっぽう、2000ねん前後ぜんこうからあらわれた新説しんせつでは、後醍醐天皇ごだいごてんのう政治せいじてき手腕しゅわんさい評価ひょうかされる傾向けいこうにあり、たてたけし新政しんせいしょ政策せいさくは、大覚寺だいかくじみつる法制ほうせい鎌倉かまくら幕府ばくふ法制ほうせい折衷せっちゅうした合理ごうりてき改革かいかくで、武士ぶし実力じつりょく適切てきせつみとおおくの恩賞おんしょうあたえたものだったとされる。足利尊氏あしかがたかうじ終生しゅうせい後醍醐天皇ごだいごてんのうたい畏敬いけいねんいだき、後醍醐ごだいごしょ改革かいかく後継こうけいとなる室町むろまち幕府ばくふ発展はってんてきがれたとする見解けんかいもある。

考察こうさつ[編集へんしゅう]

名称めいしょう[編集へんしゅう]

この内乱ないらんかかわる用語ようごとしては、「元弘もとひろらん」と「元弘もとひろへん」というものがある。

国史こくしだい辞典じてん』「元弘もとひろらん」(福田ふくだ豊彦とよひこ担当たんとう)は、もととく3ねん元弘もとひろ元年がんねん1331ねん)の倒幕とうばく計画けいかく発覚はっかくから元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん1333ねん)の鎌倉かまくら幕府ばくふ崩壊ほうかいたてたけし新政しんせい発足ほっそくまでの戦乱せんらん全体ぜんたいを「元弘もとひろらん」と[12]。そして、「元弘もとひろへん」は「元弘もとひろらん」に内包ないほうされる事件じけんであり、その始期しき終期しゅうきは、元弘もとひろらん勃発ぼっぱつ当初とうしょから、後醍醐天皇ごだいごてんのうらえられて強制きょうせい譲位じょうい隠岐おき配流はいるされて近臣きんしん処分しょぶんされるまでをす「場合ばあいおおい」としている[12]。『国史こくしだい辞典じてん』とおおよそ同様どうよう区別くべつもちいる日本にっぽん中世ちゅうせい研究けんきゅうしゃには、もりしげるあかつき[13][14]新井あらい孝重たかしげ[15]生駒いこまたかししん[16]などがいる。

一方いっぽう日本にっぽん以外いがい分野ぶんや文献ぶんけんでは、『日本にっぽん国語こくごだい辞典じてんだいはん[17]および『日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ』「元弘もとひろへん」(五味ごみ克夫かつお担当たんとう[18]が、「元弘もとひろへん」を1331–1333ねん戦乱せんらん全体ぜんたいたいする呼称こしょう(つまり「元弘もとひろらん」と同義語どうぎご)としてもちいている。

始期しき終期しゅうき[編集へんしゅう]

始期しきについては、元弘もとひろ倒幕とうばく計画けいかくがいつからられていたかが不明ふめいであるため、ただちに明確めいかくではない。しかし、もととく3ねん4がつ29にち1331ねん6月5にち)に、吉田よしだ定房さだふさ謀反むほんくわだてをろく探題たんだい密告みっこくし、この情報じょうほう関東かんとうつたわったことで事件じけん表面ひょうめんした[14]。これをけ、鎌倉かまくらから長崎ながさき高貞たかさだ南条なんじょう高直たかなおらのめいの「追討ついとう使」が派遣はけんされ、軍事ぐんじてき対立たいりつ関係かんけい発生はっせいした[14]。したがって、この密告みっこく起点きてんとしてのちつづ戦乱せんらんかたられる[18][12][14]

終期しゅうきについては、以下いかかんがえられる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 天皇てんのう臣下しんかであるはず幕府ばくふらえられるという事態じたいは、後醍醐ごだいご対立たいりつする持明院じみょういんみつるにも衝撃しょうげきあたえ、花園はなぞの上皇じょうこうは「王家おうけはじ何事なにごと如之哉、天下てんか静謐せいひつゆう雖可えつ、一朝之恥辱又不可不歎」ときしている[9]
  2. ^ 北条ほうじょうなか自刃じじんさいしたがっていた武士ぶし432にん殉死じゅんししている。
  3. ^ 足利尊氏あしかがたかうじ寄進きしんじょうたてたけし2ねん1335ねん3月28にちづけ(『神奈川かながわけん資料しりょうへん3所収しょしゅう[10]
  4. ^ 将軍しょうぐん足利尊氏あしかがたかうじ寄進きしんじょうあん」「将軍しょうぐん足利尊氏あしかがたかうじ御教書みぎょうしょあん」(『神奈川かながわけん資料しりょうへん3所収しょしゅう)、「おもんみけん灌頂授与じゅよ」(『鎌倉かまくら史料しりょうへん1所収しょしゅう[10]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b もり 2012, だい3しょう たてたけし政権せいけん成立せいりつ展開てんかい>1 げんひろしらん>倒幕とうばく運動うんどうしん段階だんかい.
  2. ^ 日本にっぽん中世ちゅうせい朝廷ちょうてい幕府ばくふ体制たいせい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねんISBN 4-642-02863-3。pp. 305–320
  3. ^ 亀田かめだ 2017, pp. 18–19.
  4. ^ 呉座ござ勇一ゆういち陰謀いんぼう日本にっぽん中世ちゅうせいKADOKAWA角川かどかわ新書しんしょ〉、2018ねんISBN 978-4040821221 だい4しょう 足利尊氏あしかがたかうじ陰謀いんぼうか>だい1せつ 打倒だとう鎌倉かまくら幕府ばくふ陰謀いんぼう
  5. ^ もととく元年がんねんの〈中宮なかみや懐妊かいにん〉」『弘安ひろやす書札しょさつれい研究けんきゅう』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2000ねん)P253-270.(初出しょしゅつ:『金澤かなざわ文庫ぶんこ研究けんきゅう』274ごう、1985ねん
  6. ^ 日本にっぽん中世ちゅうせい朝廷ちょうてい幕府ばくふ体制たいせい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねんISBN 4-642-02863-3。pp. 336・338
  7. ^ 亀田かめだ 2017, pp. 19–23.
  8. ^ 日本にっぽん中世ちゅうせい朝廷ちょうてい幕府ばくふ体制たいせい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねんISBN 4-642-02863-3。pp. 336-337
  9. ^ 花園天皇はなぞのてんのう宸記元弘もとひろ元年がんねん10がつ別記べっき1にちじょう
  10. ^ a b c d 神奈川かながわけん鎌倉かまくらしょう町村ちょうそんたから戒寺」『日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい平凡社へいぼんしゃ、2006ねん 
  11. ^ 鈴木すずき由美ゆみ ちょ「【北条ほうじょう南朝なんちょう】5 鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうも、たたかいつづけた北条ほうじょう一族いちぞく」、日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい; 呉座ござ勇一ゆういち へん南朝なんちょう研究けんきゅう最前線さいぜんせん : ここまでわかった「たてたけし政権せいけん」からのち南朝なんちょうまで』よういずみしゃ歴史れきし新書しんしょy〉、2016ねん、110–128ぺーじISBN 978-4800310071 . pp. 119–126.
  12. ^ a b c d e f 福田ふくだ 1997.
  13. ^ もりしげるあかつき「『博多はかた日記にっき』の文芸ぶんげいせい九州きゅうしゅう元弘もとひろらん」(初出しょしゅつ:「福岡大学ふくおかだいがく人文じんぶん論叢ろんそう」37かん4ごう(2006ねん3がつ)/所収しょしゅう:もり中世ちゅうせい日本にっぽん政治せいじ文化ぶんか』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2006ねんISBN 978-4-7842-1324-5 だいさんしょうだいせつ)P418)
  14. ^ a b c d もり 2012, だい3しょう たてたけし政権せいけん成立せいりつ展開てんかい>1 げんひろしらん>元弘もとひろへん.
  15. ^ 新井あらい 2016, p. 94.
  16. ^ 生駒いこま 2017, p. 26.
  17. ^ 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてんだいはん元弘もとひろへん
  18. ^ a b c 五味ごみ 1994.
  19. ^ もり 2012, だい3しょう たてたけし政権せいけん成立せいりつ展開てんかい>1 げんひろしらん>元弘もとひろ倒幕とうばく勢力せいりょく.
  20. ^ a b 亀田かめだ 2017, p. 54.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]