村上むらかみよし

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村上むらかみよし
教導きょうどう立志りっしもと』より「村上むらかみ義光よしみつ」(1885ねん)、井上いのうえ安治やすじ
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねんうるう2がつ1にち1333ねん3月17にち[1]
別名べつめい 通称つうしょう彦四郎ひこしろう
梅松うめまつろん』のいち写本しゃほんよしあきら
太平たいへい』:義光よしみつ
墓所はかしょ つて墓所はかしょ村上むらかみ義光よしみつはか奈良ならけん吉野よしのぐん吉野よしのまち大字だいじ吉野山よしのやま[2]
祭神さいじん鎌倉かまくらみや村上むらかみしゃ神奈川かながわけん鎌倉かまくら二階堂にかいどう
官位かんい したがえひだりけんあたまおくしたがえさん[2]
主君しゅくん 護良親王もりよししんのう
氏族しぞく 信濃しなの村上むらかみ河内かわうちはじめ庶流)
父母ちちはは ちち村上むらかみしんやすし
兄弟きょうだい 国信くにのぶしんじさだ
朝日あさひ義隆よしたか
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村上むらかみ よし(むらかみ よしてる)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき武将ぶしょうちちしんじやすしおとうと国信くにのぶおよび信濃しなの村上むらかみ棟梁とうりょうしんじさだ朝日あさひ義隆よしたか官位かんいしたがえひだりけんあたま通称つうしょう彦四郎ひこしろう大塔おおとうみや護良親王もりよししんのう後醍醐天皇ごだいごてんのう皇子おうじ)につかえ、鎌倉かまくら幕府ばくふとのたたか元弘もとひろらんにおける吉野よしのじょうたたかで、次男じなん義隆よしたかとも討死うちじにした。史料しりょうじょうすうぎょう記述きじゅつのこるのみだが、軍記物語ぐんきものがたり太平たいへい』では村上むらかみ 義光よしみつ表記ひょうき登場とうじょうし、印象いんしょうてき活躍かつやくえがかれ、護良親王もりよししんのう忠臣ちゅうしんとしてられるようになった。明治めいじ時代じだいしたがえさん追贈ついぞうされ、鎌倉かまくらみや村上むらかみしゃ祭神さいじんとなった。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

菊池きくち容斎ようさい前賢ぜんけん故実こじつ』より「村上むらかみ義光よしみつ

村上むらかみよし義光よしみつ)にかんする数少かずすくない史料しりょうは、ほらいん公定こうていへん尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』である[1]。また、『梅松うめまつろんじょうにもえる[3]いみなは『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』『梅松うめまつろん』ともに「」の表記ひょうきしるされるが[4][5][3]、『梅松うめまつろん』のべつ写本しゃほん(『ぐんしょ類従るいじゅうばん底本ていほん)では「よしあきら」の表記ひょうきもちいられている[3]通称つうしょう彦四郎ひこしろう(『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』『梅松うめまつろんじょう[5][3]。『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』によれば、位階いかいしたがえで、官職かんしょく写本しゃほん系統けいとうによってひだりけんあたまとするものとみぎけんあたまとするものがあるが[5]、『国史こくしだい辞典じてん』「村上むらかみ義光よしみつ」(村田むらたただしこころざし担当たんとう)は前者ぜんしゃせつっている[2]

信濃しなの村上むらかみは、河内かわうちはじめ源頼信みなもとのよりのぶ次男じなんみなもとよりゆききよしとする名門めいもんで、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』によれば義光よしみつちち村上むらかみしんやすしとされる[5]。また、国信くにのぶしんじさだ(のち信濃しなの村上むらかみ棟梁とうりょう)というおとうとと、朝日あさひ義隆よしたかというがいた[5]

後醍醐天皇ごだいごてんのう鎌倉かまくら幕府ばくふとのたたか元弘もとひろらん(1331-1333ねん)がはじまると、前半ぜんはんせん敗北はいぼくいち姿すがたをくらました護良親王もりよししんのう後醍醐天皇ごだいごてんのう皇子おうじ)は、後半こうはんせんふたた姿すがたあらわし、吉野よしのじょう籠城ろうじょうした[6]。これにたいし、元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん(1333ねん初頭しょとう鎌倉かまくら幕府ばくふ大将たいしょう大仏だいぶつ高直たかなおぐん奉行ぶぎょう工藤くどうだかけい使節しせつ二階堂にかいどうさだふじみち蘊)らをしょうとするぐん編成へんせいした[6]うるう2がつ1にち西暦せいれき3月17にち)、二階堂にかいどうぐん攻撃こうげきによって吉野よしのじょう落城らくじょうした[1]。『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』によれば、このときとその次男じなん義隆よしたか討死うちじにした[1][注釈ちゅうしゃく 1]は、『梅松うめまつろんじょうでも、吉野よしのじょう落命らくめいした護良親王もりよししんのうがわしょうとして言及げんきゅうされる[3]

後述こうじゅつする『太平たいへい』による忠臣ちゅうしん伝説でんせつ著名ちょめいだが、実際じっさいには吉野よしのじょうたたか以前いぜん村上むらかみ父子ふし動向どうこうははっきりしない[1]本来ほんらい村上むらかみ信濃しなのこく長野ながのけん)の御家人ごけにんであり、また御内おんうちじん北条ほうじょうとく宗家そうけ被官ひかん)として、幕府ばくふ事実じじつじょう権力けんりょくしゃ北条ほうじょうともしたしかった有力ゆうりょく氏族しぞくである[7]。それなのに、父子ふしがいついかなる経緯けいい護良親王もりよししんのう側近そっきんとなって、吉野よしのじょう戦死せんししたのか、歴史れきしてき実像じつぞう不明ふめいである[1][7]一説いっせつによれば、鎌倉かまくら時代じだいには系統けいとう村上むらかみ傍系ぼうけいだったので、勢力せいりょく拡大かくだい目指めざして護良親王もりよししんのう接近せっきんしたのではないかともいう[7]

明治めいじ41ねん1908ねん)、したがえさん追贈ついぞうされた[2]奈良ならけん吉野よしのぐん吉野よしのまち大字だいじ吉野山よしのやまにある墓所はかしょつたえられる場所ばしょ一時いちじ荒廃こうはいしていたが、のち整備せいびされた[2]。また、鎌倉かまくらみや村上むらかみしゃ祭神さいじんとなった。

太平たいへい』での活躍かつやく[編集へんしゅう]

概要がいよう[編集へんしゅう]

太平たいへい』では元弘もとひろへんころ笠置山かさぎやま陥落かんらくし、潜伏せんぷくしていた南都なんと般若寺はんにゃじから熊野くまののがれる護良親王もりよししんのう供奉ぐぶ(ぐぶ)した9めい1人ひとり村上むらかみ義光よしみつ」として登場とうじょうする。

太平たいへいまきだい 大塔おおとうみや熊野くまの落事[編集へんしゅう]

水野みずの年方としかたふで村上むらかみ義光よしみついも綿めんはただつかえし

道中どうちゅう十津川とつかわさとてきかた土豪どごういも(いもせ)庄司しょうじ遭遇そうぐうし、親王しんのういちぎょうはその通行つうこううが、いもは「幕府ばくふ面子めんつてるためとおすかわりにのあるしん一人ひとりにん、もしくはいちせんまじえたことしめすためにはた寄越よこせ」と返答へんとうしてきた。そこで供奉ぐぶした9めい1人ひとり赤松あかまつ則祐のりすけ(あかまつそくゆう)が親王しんのうため名乗なのて「主君しゅくん危機ききのぞんではみずからのいのちす、これこそが臣下しんかみち殿下でんかために、この則祐のりすけてきわたったてもかまわない」とった。しかし、供奉ぐぶした9めい1人ひとり平賀ひらが三郎さぶろうが「みやためにもいま有能ゆうのう武将ぶしょう一人ひとりたりとうしなってはいけない。はたわたして激闘げきとうすえびたことにすればいも庄司しょうじ立場たちばまもれる」とい、親王しんのうはこれをききいれて大事だいじにしきはたいも庄司しょうじわたして、そのえた。 おくれてやってきた義光よしみついも庄司しょうじくわすが、そこにはにしきはたひるがえっていた。義光よしみつ激昂げっこうし「みかど御子みこたいして、貴様きさまごときがなんということを!」と、てきかたうばわれたはたかえし、はたっていたいも下人げにんをひっつかみ、4、5たけ(1たけやく3メートルなので、12、15メートル)ほどかなたにげつけた。義光よしみつ怪力かいりきおそれをなしいも庄司しょうじ言葉ことばうしない、義光よしみつみずかはたかたかか親王しんのういちぎょういかけ無事ぶじいついた。

護良親王もりよししんのうは「赤松あかまつ則祐のりすけちゅうはじめほどこせしゃ(もうししゃ)がのごとく、平賀ひらが三郎さぶろうさとし陳平ちんぺい謀略ぼうりゃくのごとし、そして村上むらかみ義光よしみついさむ北宮きたみや黝(ほくきゅうよう)のいきおいをもしのぐ」とさんにんとなえた。(ちゅうはじめほどこせしゃ北宮きたみや黝は古代こだい中国ちゅうごく勇者ゆうしゃ陳平ちんぺいかん王朝おうちょう功臣こうしん)。

太平たいへいまきだいなな 吉野よしのじょう軍事ぐんじ[編集へんしゅう]

元弘もとひろ3ねん(1333ねん初頭しょとう幕府ばくふかた二階堂にかいどうさだふじが6まんひきいて吉野山よしのやまはいった。護良親王もりよししんのうぐん奮戦ふんせんするも、いよいよ本陣ほんじんのある蔵王ざおうどうまでへいせまった。親王しんのうはこれまでと最後さいご酒宴しゅえんひらいていたが、そこへ義光よしみつがやってきて親王しんのう説得せっとくびさせる。 義光よしみつ幕府ばくふぐんあざむくため、親王しんのうよろいみずか身代みがわりとなって「てんあきら太神おおが子孫しそん神武じんむ天王てんのうよりきゅうじゅうだいみかど後醍醐天皇ごだいごてんのうだい皇子おうじ一品兵部卿親王尊仁、逆臣ぎゃくしんためほろぼされ、恨を泉下せんかほうぜんために、只今ただいま自害じがいする有様ありさまおけて、なんじとう武運ぶうんゆるがせつきて、はらをきらんずるとき手本てほんにせよ」とさけび、切腹せっぷくして自刃じじんした。このときみずからのはらわたをきちぎりてきげつけ、太刀たちくちにくわえたのちに、うつぶせにふくとなって絶命ぜつめいしたという壮絶そうぜつ逸話いつわのこる。

首実検くびじっけん

幕府ばくふかた二階堂にかいどうさだふじ軍勢ぐんぜいには護良親王もりよししんのうものはなく、自刃じじんした護良親王もりよししんのうおもわれるくび京都きょうとろく探題たんだいおく首実検くびじっけん結果けっか護良親王もりよししんのうではなかったことのちかる。

なお、義隆よしたか義光よしみつとものうとしたが、義光よしみつはこれを親王しんのうまもるよういつけた。その義隆よしたか親王しんのうびさせるため奮闘ふんとうし、満身まんしん創痍そういとなり力尽ちからつき、切腹せっぷく自害じがいした。

墓所はかしょ[編集へんしゅう]

村上むらかみよし義光よしみつ)のはかつたえられるはかが、蔵王ざおうどうより北西ほくせいやく1.4kmの場所ばしょにある。案内あんないばんによると身代みがわりとなって蔵王ざおうどうてた義光よしみつ北条ほうじょうかた検分けんぶんし、親王しんのうではないとっててられたのをあわれとおもった里人さとびとがとむらってはかとしたものだという。はかには玉垣たまがきかこまれたたから篋印とうと、かってみぎ大和やまと高取たかとりはん内藤ないとうけいぶん天明てんめい3ねん(1783ねん)にてたとされる「村上むらかみ義光よしみつちゅうれつ」がある。なお、義隆よしたかはか蔵王ざおうどうよりみなみ1.5km、勝手かって神社じんじゃから下市しもいちまち才谷さいたにへとける奈良ならけんどう257号線ごうせん沿いにある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく原文げんぶん[5]戦闘せんとう正月しょうがつ出来事できごと誤記ごきしている[1]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g 新井あらい 2016, pp. 137–138.
  2. ^ a b c d e 村田むらた 1997.
  3. ^ a b c d e 梅松うめまつろんじょう 1928, p. 107.
  4. ^ "村上むらかみ義光よしみつ". 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん. コトバンクより2020ねん7がつ10日とおか閲覧えつらん
  5. ^ a b c d e f 藤原ふじわら 1903, p. 109.
  6. ^ a b 新井あらい 2016, pp. 124–127.
  7. ^ a b c 亀田かめだ 2017, pp. 38–40.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]