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だいたてはじめ

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だいたて はじめ
栗原くりはらしんたかし
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき
生誕せいたん せいおう元年がんねん1288ねん
死没しぼつ せいけい2ねん/元弘もとひろ3ねん5月19にち1333ねん[1]7がつ1にち
改名かいめい 次郎じろう[注釈ちゅうしゃく 1]又次郎またじろうまた二郎じろう仮名かめい
官位かんい おくしたがえよん
主君しゅくん 新田にった義貞よしさだ
氏族しぞく だいたて
父母ちちはは ちち大舘おおたちははしょう
兄弟きょうだい 綿めん為氏ためうじそう金谷かなやしげるゆう
つま 新田にったちょう新田にった義貞よしさだ義助よしすけちち)のむすめ
あきらみゆきそうけんけんみぎすけどき?)、六郎ろくろう?)
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だいたて はじめ(おおだち むねうじ)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき武将ぶしょう新田にった支族しぞく祖父そふ新田にった政義まさよしちち大舘おおたちあに綿めん為氏ためうじだいたてあきらだいたてみゆき大舘おおたちむねけんだいたてけんみぎすけどき?)、六郎ろくろう?)がいる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代じだい末期まっき岩松いわまつ政経せいけい代官だいかんである堯海田嶋たじまさと用水ようすいめぐそうろんとなり、控訴こうそされてやぶれる。このさい総領そうりょうである新田にった宗家そうけ調停ちょうていではなく、大舘おおたち岩松いわまつ両家りょうけ幕府ばくふ直接ちょくせつ裁定さいていもうている。

元弘もとひろ3ねん/せいけい(1333ねん)5がつ義兄弟ぎきょうだいにもあたる新田にった義貞よしさだ旗頭はたがしらに、子息しそくらや新田にった一族いちぞくとも鎌倉かまくら幕府ばくふたい挙兵きょへい鎌倉かまくらにおいて義貞よしさだ部隊ぶたいを3つに分割ぶんかつして進軍しんぐんしたが、そう極楽寺ごくらくじ切通きりどおしから突入とつにゅうする部隊ぶたい指揮しきまかされた。5月18にち稲村ヶ崎いなむらがさき海岸かいがんせんから[注釈ちゅうしゃく 2]鎌倉かまくら市街しがい突入とつにゅう敢行かんこうしようとした。1北条ほうじょうぐんやぶって突破とっぱしたが[2]大仏だいぶつさだただし態勢たいせいなおすとその配下はいか本間ほんま山城やましろ左衛門さえもんとの戦闘せんとう討死うちじにした[3][2]。『梅松うめまつろん』にれば、どう18にち未明みめい稲村ヶ崎いなむらがさき海岸かいがんせんから鎌倉かまくらにいったん進入しんにゅうするも、諏訪すわ長崎ながさきらの幕府ばくふかたとの戦闘せんとうとなり、そうらは稲瀬いなせがわ付近ふきん戦死せんしし、新田にったぐんはいったん退却たいきゃくした、としるされている。

5月18にち死去しきょとするのは『尊卑そんぴ文脈ぶんみゃく』によるものだが[4]、『太平たいへい』は死去しきょ日時にちじを5月19にちとしている。享年きょうねん46[5]

そう討死うちじにによってこの方面ほうめんぐん指揮しき系統けいとう消失しょうしつしたため、一旦いったん息子むすこあかりぐんひきいたが、そう討死うちじにほういた義貞よしさだ化粧けしょうざか方面ほうめんおとうと脇屋わきや義助よしすけまかせ、21にち極楽寺ごくらくじ方面ほうめん布陣ふじんしてきたため、義貞よしさだ以降いこう指揮しきることとなった[2]。その義貞よしさだ防御ぼうぎょかた極楽寺ごくらくじ切通きりどおしの突破とっぱではなく、『梅松うめまつろん』がつたえるところのそう突入とつにゅうおなじルート、すなわち稲村ヶ崎いなむらがさき海岸かいがんせんから21にち未明みめい鎌倉かまくら市街しがい突入とつにゅうしたとされている[注釈ちゅうしゃく 3]

戦死せんししたそうじゅういちにん当初とうしょ御霊みたま神社じんじゃ付近ふきんほうむられじゅう一面観いちめんかんおんまつられたが、のちに改葬かいそうされ、現在げんざい稲村ヶ崎いなむらがさきえき付近ふきんにある「じゅういちにんづか」にほうむられているとされる。

大正たいしょう4ねん(1915ねん)、したがえよん追贈ついぞうされた[6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 太平たいへい』による記述きじゅつ
  2. ^ この急峻きゅうしゅん海岸かいがんには、極楽寺ごくらくじ切通きりどお掘削くっさく以前いぜん主要しゅよう街道かいどう稲村いなむら」が存在そんざいしていた。
  3. ^ この突入とつにゅうは「太平たいへい」に記述きじゅつされているが一方いっぽうの「梅松うめまつろん」では、義貞よしさだ極楽寺ごくらくじ切通きりどおしを突破とっぱしたとされている。当時とうじうみ干満かんまん計算けいさんするとそう突入とつにゅうの18にち干潮かんちょうであるが、21にち未明みめいはそれにたらないため、巷談こうだんにあるように「義貞よしさだ太刀たちうみかみささげると、たちまちしおがひいて急峻きゅうしゅんみさき海岸かいがん通行つうこう可能かのうになった」とするような海岸かいがんせん突破とっぱむずかしい、とするせつもある。しかしそもそもどう海岸かいがんには極楽寺ごくらくじ切通きりどお開通かいつう以前いぜんの「稲村いなむら」とばれる街道かいどうがあり、そこを通過つうかしたともかんがえられる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 安田やすだ元久もとひさ へん鎌倉かまくら室町むろまち人名じんめい事典じてん』(コンパクト)新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん 
  2. ^ a b c 永井ながい 2003, p. 148.
  3. ^ 峰岸みねぎし 2005, p. 63.
  4. ^ 山本やまもと 2005, p. 99.
  5. ^ 群馬ぐんまけんだい1かん
  6. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.34

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 山本やまもと隆志たかし新田にった義貞よしさだミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2005ねん 
  • 峰岸みねぎし純夫すみお新田にった義貞よしさだ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2005ねんISBN 978-4-642-05232-0 
  • 永井ながいすすむ金沢かなざわさだあらわ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2003ねんISBN 4-642-05228-3 
  • 真下ましも和雄かずお へんしんてい 新田しんでんぞく世良田せらだ東照宮とうしょうぐう社務しゃむしょ、1974ねん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]