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小野おのひさし

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小野おのひさし
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき - 前期ぜんき
生誕せいたん 大同だいどう3ねん808ねん
死没しぼつ さだかん2ねん5月18にち860ねん6がつ10日とおか
官位かんい したがえじょう播磨はりままもる
主君しゅくん 仁明天皇にんみょうてんのう文徳ふみのり天皇てんのう清和せいわ天皇てんのう
氏族しぞく 小野おの
父母ちちはは ちち小野おのたきつよし
くにはり今井いまい
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小野おの ひさし(おの の つねえだ)は、平安へいあん時代じだい初期しょきから前期ぜんきにかけての貴族きぞく書家しょか出羽守でわのかみ小野おのたきつよし官位かんいしたがえじょう播磨はりままもる

経歴けいれき

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右京うきょう出身しゅっしん祖父そふ永見ながみせいえびすふく将軍しょうぐんちちたきつよし出羽守でわのかみ東北とうほく地方ちほう経営けいえいにあたった家柄いえがら出自しゅつじとする。

仁明にんみょうちょううけたまわ2ねん835ねんしょう内記ないき、のちだい内記ないき昇進しょうしんし、美作みさくじょう近江おうみだいじょうねた。うけたまわ8ねん841ねん式部しきぶだいすすむてんじるが、同年どうねん12がつぶくのべらが渤海使として長門ながとこく来着らいちゃくしたさいには、しょうそと山代やましろえきともそんとい渤海きゃく使つとめている。うけたまわ11ねん844ねんしたがえ叙爵じょしゃくし、のちだいおさむしょうとして地方ちほうかんてんじる。しょう在職ざいしょくちゅう筑前ちくぜんもりきのこんもり論争ろんそうし、参議さんぎけんかんかいよし長官ちょうかん滋野しげのさだぬしから批判ひはんけている[1]

文徳ふみのりあさでは、じん寿ことぶき3ねん853ねんみぎしょうべんひとし寿ことぶき4ねん854ねん播磨はりままもる歴任れきにんするが、播磨はりままもるとしての統治とうち簡素かんそ要点ようてんをよくさえていることを重視じゅうししたが、開明かいめいてきではないとひょうされた[2]

清和せいわちょうさだかん元年がんねん859ねん)にはしたがえじょうじょせられるが、よくさだかん2ねん860ねん)5がつ18にち卒去そっきょ享年きょうねん53。最終さいしゅう官位かんいくらいしたがえじょう

人物じんぶつ

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わかころから学問がくもんこのんだ。非常ひじょう文才ぶんさいがあり、草書そうしょ隷書れいしょ得意とくいとした。その能筆のうひつ当時とうじぐんいてすぐれており、しょならものみなその書跡しょせき手本てほんとし、つね柯のいた書状しょじょうれたもの愛重あいちょうしないものはいなかったという[2]

性格せいかくはうわべをかざてることがく、ありのままにった。一方いっぽうで、自尊心じそんしんたかく、おごたかぶるところがあった[2]

かんれき

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ろく国史こくし』による。

系譜けいふ

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  • ちち小野おのたきつよし[2]
  • ははしょう
  • 生母せいぼ不明ふめい子女しじょ
    • 男子だんし小野おのこくはり[3]
    • 男子だんし小野おの今井いまい[3]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日本にっぽん文徳ふみのり天皇てんのう実録じつろくひとし寿ことぶき2ねん2がつ8にちじょう
  2. ^ a b c d 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん2ねん5がつ18にちじょう
  3. ^ a b 鈴木すずきしんねん諸国しょこくひゃくいえ系図けいずじょう,小野おの朝臣あそん

参考さんこう文献ぶんけん

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