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小野おのちくたかし

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小野おの ちくたかし(おの ちっきょう、 1889ねん明治めいじ22ねん11月20にち - 1979ねん昭和しょうわ54ねん5がつ10日とおか)は、きん現代げんだい日本にっぽん代表だいひょうする日本にっぽん画家がか[1]。75年間ねんかん画業がぎょうとおして、日本にっぽん自然しぜんうつくしさをえがつづけた[1]本名ほんみょう小野おの英吉えいきち[1][2]

小野おの ちくたかし
生誕せいたん 本名ほんみょう : 小野おの 英吉えいきち
1889ねん11月20にち
日本の旗 日本にっぽん
岡山おかやまけん笠岡かさおか西本にしほんまち
死没しぼつ (1979-05-10) 1979ねん5がつ10日とおか(89さいぼつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 京都きょうと市立しりつ絵画かいが専門せんもん学校がっこう
著名ちょめい実績じっせき 日本にっぽん
運動うんどう動向どうこう くに創作そうさく協会きょうかい
受賞じゅしょう 文化ぶんか勲章くんしょう
影響えいきょうけた
芸術げいじゅつ
竹内たけうち栖鳳せいほう

経歴けいれき

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たけつえかい

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1889ねん明治めいじ22ねん岡山おかやまけん笠岡かさおか西本にしほんまちよんおとことしてまれる[1][2]祖父そふ長兄ちょうけい画家がかであった[2]1903ねん明治めいじ36ねん長兄ちょうけいすすめで京都きょうとのぼり、竹内たけうち栖鳳せいほう師事しじ[2]。「竹橋たけばし」のごうさずかる。1909ねん明治めいじ42ねん栖鳳せいほうすすめでどうじゅく土田つちた麦僊ばくせんとともに、京都きょうと市立しりつ絵画かいが専門せんもん学校がっこうせんげん京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく)のだいいち期生きせいとして入学にゅうがく(1911ねん卒業そつぎょう[1][2][3]

当時とうじ栖鳳せいほう写生しゃせい伝統でんとうカミーユ・コロー写実しゃじつ表現ひょうげん融合ゆうごうした作品さくひんえがいていた[4]栖鳳せいほう革新かくしんてき制作せいさく姿勢しせい洗礼せんれいけたたけたかしは、そのポール・セザンヌなどの西洋せいよう近代きんだい絵画かいがと、富岡とみおか鉄斎てっさいなど南画なんが影響えいきょうけ、大胆だいたん筆触ひっしょくあざやかな色彩しきさいによる作風さくふう展開てんかいした[4]

くに創作そうさく協会きょうかい

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1916ねん大正たいしょう5ねん洋画ようがてき手法しゅほう果敢かかんれた《しまさく[1]だい10かい文展ぶんてん特選とくせんというこう評価ひょうかるも、翌年よくねん同展どうてん落選らくせんし、同展どうてん審査しんさたいして疑問ぎもんつようになる[3]当時とうじおなじように文展ぶんてん審査しんさについて不満ふまん画家がかおおかった[3]。そこで、1918ねん大正たいしょう7ねんせん卒業生そつぎょうせいであるたけたかし麦僊ばくせん村上むらかみ華岳かがく榊原さかきばら紫峰しほう長瀬ながせばんはなくに創作そうさく協会きょうかい結成けっせい[1][3]くにてんという公募こうぼてんおこない、旧習きゅうしゅうにとらわれない自由じゆう芸術げいじゅつ創造そうぞう目指めざした[3]

1921ねん大正たいしょう10ねん)には麦僊ばくせんばんはなとともに、わたしおう経験けいけんのある洋画ようが黒田くろだ重太郎しげたろう案内あんないわたりおう[1][3]帰国きこく東洋とうようにおけるせん表現ひょうげんについてさい認識にんしきすることとなり、江戸えど時代じだい南画なんがあらためてまな[4]1923ねん大正たいしょう12ねんごうを「たけたかし」とあらためる[1][2]1928ねん昭和しょうわ3ねんだい7回国かいこくてん出品しゅっぴんさくの《冬日ふゆびじょう》によって、西洋せいようというフィルターをとおした線描せんびょう淡彩たんさいによる南画なんがふう表現ひょうげん到達とうたつした[4]同年どうねんくに創作そうさく協会きょうかい解散かいさんし、そのかんてん復帰ふっきする[5]

戦中せんちゅう

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1939ねん昭和しょうわ14ねんごろより、それまでの線描せんびょう淡彩たんさいによる南画なんがふう表現ひょうげんを、めんてき対象たいしょう把握はあく日本にっぽん素材そざい素直すなおかした大和絵やまとえてき表現ひょうげんへとえていく[4]1941ねん昭和しょうわ16ねん)から太平洋戦争たいへいようせんそうはじまり、おおくの日本にっぽん画家がかたちと同様どうようたけたかし富士山ふじさん旭日きょくじつなど日本にっぽん賛美さんびする画題がだいえがいた[3]一方いっぽう、このころつづけに身内みうち友人ゆうじんくしている。1936ねんはは麦僊ばくせん次女じじょ、1939ねん華岳かがく、1942ねん栖鳳せいほう、1943ねん長男ちょうなん、1945ねんつま死去しきょし、精神せいしんてき憔悴しょうすい制作せいさくかんばしくない様子ようすがこのころ自筆じひつ文章ぶんしょうからうかがえる[3][6][7]

戦後せんご

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1947ねん昭和しょうわ22ねん)には京都きょうと美術びじゅつ専門せんもん学校がっこう教授きょうじゅ就任しゅうにんし、京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく改組かいそしたのち教鞭きょうべんった[1]同年どうねん帝国ていこく芸術げいじゅついんげん日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいんとなる[1][2]

戦後せんごたけたかしは、あかるくやわらかな色彩しきさいにより、写生しゃせいそくしながらも象徴しょうちょうてき装飾そうしょくてき画面がめん形作かたちづくるようになる[3]対象たいしょうとする自然しぜん特別とくべつ場所ばしょではなく、身近みぢかでさりげない水面すいめん野辺のべ、そして自宅じたくにわしに見上みあげた樹木じゅもくくもであった[4]。そのなかでも夕焼ゆうやけのそら背景はいけいとした樹木じゅもく姿すがたは、1974ねん昭和しょうわ49ねん)の《あいだあかね》などにえがかれ、たけたかし絵画かいが代表だいひょうするモチーフとなっていく[4]。さらに、晩年ばんねんには戦前せんぜんから構想こうそういていた松尾まつお芭蕉ばしょうおくのほそみち』の絵画かいがいどみ、10てん連作れんさくおく細道ほそみちしょう》を完成かんせいさせた[6]

50さい前後ぜんこうぼっした華岳かがく麦僊ばくせんたいし、たけたかし戦後せんご日本にっぽん画壇がだん重鎮じゅうちんとして活躍かつやくし、1976ねん昭和しょうわ51ねん)には文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうしている。1979ねん昭和しょうわ54ねん)5がつ10日とおか胃癌いがんのため死去しきょ[3][5]享年きょうねん89さい等持院とうじいん小野おのたくは、いま閑寂かんじゃく空気くうきにつつまれ、にわひがしとなり位置いちする名刹めいさつ等持院とうじいん境内けいだいには、小野おのちくたかし素材そざいになった木々きぎしげる。

代表だいひょうさく

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おも出版しゅっぱん

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栄典えいてん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 小野おのちくたかしについて - 笠岡かさおかホームページ”. www.city.kasaoka.okayama.jp. 2021ねん1がつ10日とおか閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g 年譜ねんぷ」『生誕せいたん130ねん 小野おのちくたかしのすべて』笠岡かさおか市立しりつちくたかし美術館びじゅつかん、2019ねん、154-162ぺーじ
  3. ^ a b c d e f g h i j 中原なかはら千穂ちほたけたかしさんをるために」『生誕せいたん130ねん 小野おのちくたかしのすべて』笠岡かさおか市立しりつちくたかし美術館びじゅつかん、2019ねん、5-8ぺーじ
  4. ^ a b c d e f g 生誕せいたん120ねん 小野おのちくたかしてん大阪おおさか市立しりつ美術館びじゅつかん”. www.osaka-art-museum.jp. 2021ねん1がつ10日とおか閲覧えつらん
  5. ^ a b 小野おのちくたかし :: ひがしぶんけんアーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2021ねん1がつ10日とおか閲覧えつらん
  6. ^ a b だいしょう 至純しじゅん時代じだい」『生誕せいたん130ねん 小野おのちくたかしのすべて』笠岡かさおか市立しりつちくたかし美術館びじゅつかん、2019ねん、59ぺーじ
  7. ^ うえその四郎しろうたけたかし絵画かいがつうそこする「さび(さび)」『生誕せいたん130ねん 小野おのちくたかしのすべて』笠岡かさおか市立しりつちくたかし美術館びじゅつかん、2019ねん、138-146ぺーじ
  8. ^ 文化ぶんか審議しんぎかい答申とうしん国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の指定していとうおよ登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の登録とうろく)II.解説かいせつ p.16

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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