(Translated by https://www.hiragana.jp/)
山崎正董 - Wikipedia コンテンツにスキップ

山崎やまざきただしただし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

山崎やまざき ただしただし(やまさき まさただ、明治めいじ5ねん5月11にち1872ねん6月16にち) - 昭和しょうわ25ねん1950ねん5月29にち)は日本にっぽん医師いし産婦人科さんふじんか)。私立しりつ熊本くまもと学校がっこう教授きょうじゅ愛知あいち県立けんりつ医学いがく専門せんもん学校がっこう校長こうちょう熊本くまもと医科いか大学だいがく学長がくちょう(1925-1932)。60さい定年ていねんきな旅行りょこう歴史れきし没頭ぼっとう。『横井よこい小楠しょうなん』『肥後ひごそだて』をあらわす。1932ねんと1933ねん沖縄おきなわ旅行りょこうした写真しゃしん発見はっけんされ、写真しゃしんしゅうができた。かい沖縄おきなわかわら蒐集しゅうしゅうした。

山崎やまざき ただしただし

ごう

[編集へんしゅう]

つとむごうだまどう

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

1872ねん5がつ11にち 現在げんざい高知こうちけん高岡たかおかぐん佐川さがわまちまれる。1890ねん だいさん高等こうとう学校がっこう入学にゅうがく。1892ねん 第一高等学校だいちこうとうがっこう転学てんがく。1900ねん 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょう。1901ねん 私立しりつ熊本くまもと学校がっこう教授きょうじゅ。1909ねんドイツ ミュンヘン大学だいがくボン大学だいがく産婦人科さんふじんか研究けんきゅう翌年よくねん帰国きこく。1911ねん 私立しりつ熊本くまもと産婆さんば学校がっこう設立せつりつ校長こうちょうとなる。1913ねん 医学いがく博士はかせ。1914ねん近世きんせいさん科学かがく』を出版しゅっぱん。1916ねん 愛知あいち県立けんりつ医学いがく専門せんもん学校がっこう校長こうちょう1920ねん 愛知あいち県立けんりつ愛知医科大学あいちいかだいがくちょう教授きょうじゅ兼任けんにん。1923ねん 欧米おうべい出張しゅっちょう。1925ねん 熊本くまもと医科いかだい学長がくちょう付属ふぞく病院びょういんちょう。1932ねん 大学だいがくちょう病院びょういんちょうめんぜられる。同学どうがく名誉めいよ教授きょうじゅ。1932ねん10がつ 奄美あまみ大島おおしま沖縄おきなわ旅行りょこう。1933ねん3がつ・4がつ 再度さいど奄美あまみ大島おおしま沖縄おきなわ旅行りょこう。1938ねん横井よこい小楠しょうなん伝記でんき遺稿いこうへん)』を出版しゅっぱん。1946ねん 進駐軍しんちゅうぐん住宅じゅうたく接収せっしゅうされ書庫しょこむ。1950ねん5がつ29にち 79さい死去しきょ墓所はかしょ熊本くまもと小峰こみね墓地ぼち蔵書ぞうしょかい県立けんりつ図書館としょかんなどに寄付きふする。2000ねん 沖縄おきなわ旅行りょこう写真しゃしん発見はっけんされ、写真しゃしんしゅうなつかしき沖縄おきなわ ~山崎やまざきただしただしらがあるいた昭和しょうわ初期しょきげん風景ふうけい』 が発行はっこうされる。

肥後ひごそだて

[編集へんしゅう]

正史せいし746ページ、補遺ほい132ページにおよ大著たいちょである。2006ねん再版さいはんされた。肥後ひごそだて250ねん周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう実行じっこう委員いいんちょう山本やまもと哲郎てつろうによる[1][2]

  • 藩校はんこう習館の創立そうりつたかられきよんねん、そのろくねんには「再春館さいしゅんかん」が創立そうりつされた。当時とうじ殿しんがり細川ほそかわ重賢しげかた場所ばしょ二本木にほんぎである。教師きょうし岩本いわもと原理げんり村井むらいほおそと句読くとうきむはじめ、引経物産ぶっさん医療いりょう吟味ぎんみやく、などかれ最後さいご明治めいじ3ねんとある。その古城こじょう学校がっこうとおりまち病院びょういん北岡きたおかかり病院びょういん県立けんりつ熊本くまもと学校がっこう、(教師きょうしのち東京とうきょう大学だいがく初代しょだい小児科しょうにか教授きょうじゅになった弘田ひろたちょうがいる)、伝習でんしゅうかん春雨はるさめ黌、九州学院きゅうしゅうがくいん医学部いがくぶ私立しりつ熊本くまもと学校がっこう熊本くまもと医学いがく専門せんもん学校がっこう熊本くまもと医科いか大学だいがく、と歴史れきし沿って記述きじゅつされている。
  • 東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ土肥どい博士はかせは「これ通覧つうらんするにいち地方ちほう医学いがくぎないが、じつ側面そくめんから近世きんせい日本にっぽん医学いがくたるとうと価値かちみとめられる。(中略ちゅうりゃく)またその公務こうむ寸暇すんかを偸んでさらにこの大著たいちょ完成かんせいしたるその絶倫ぜつりん精力せいりょく縦横じゅうおう自在じざい筆致ひっちけてもくにあいどううれうる至情しじょうしん敬服けいふくあまりある」、と絶賛ぜっさんしている。
  • エピソードも豊富ほうふで、「つじ便所べんじょ肥後ひごいく」の稿こうでは、明治めいじ5ねん東京とうきょうはじ全国ぜんこく各地かくち街路がいろじょうだい小便しょうべんきんじた白川しらかわけんげん熊本くまもとけん)で、教師きょうしマンスフェルトつじ便所べんじょをおくべく提案ていあんされた。古城こじょう医学いがくしょ有料ゆうりょう便所べんじょをつくり、(りょう農家のうかからもらう)病院びょういんもならったが、北岡きたおか病院びょういん事務じむがかり古賀こがは「小便しょうべん古賀こが」というあだがついた。有料ゆうりょう便所べんじょ明治めいじ20ねん熊本くまもと熊本くまもと)に委譲いじょうした。つじ便所べんじょ肥後ひごそだて多大ただいなる貢献こうけんをしたとある。

横井よこい小楠しょうなん

[編集へんしゅう]

2009ねん横井よこい小楠しょうなん生誕せいたん200ねんにあたり、山崎やまざき業績ぎょうせき見直みなおされた[3][4]

  • 横井よこい小楠しょうなん著述ちょじゅつ動機どうき[5]
何故なぜ医者いしゃであるわたし医者いしゃでもない小楠しょうなん先生せんせいつてあらわしたのであろうか。この著述ちょじゅつふでめた動機どうきしゅとして徳富とくとみ蘇峰そほうこれすすめ、うたのによるが、そのもとは先生せんせい肥後ひごにおける西洋せいよう医学いがく興隆こうりゅうおおいにちからくしたのにもといんするのである。(中略ちゅうりゃく)これから小楠しょうなん先生せんせい生涯しょうがいについてべるが、わたししょうちょ横井よこい小楠しょうなん』でも、これにきくばんやくせんさんひゃくぺーじようしているから、みじか時間じかんではとてもばなしくされぬので、おおいに省略しょうりゃくすることにする。また先生せんせい私生活しせいかつこと家庭かていじんとしての先生せんせいについてはすこぶ興味きょうみもあり、またおおいに教訓きょうくんになることもあるが、これも割愛かつあいし、しゅとして公的こうてき生活せいかつ一端いったんはなすことにする。(以下いかりゃく

沖縄おきなわ旅行りょこう

[編集へんしゅう]

[6]

熊本大学くまもとだいがく学長がくちょうとして職務しょくむわれる生活せいかつからはな医界いかいはなれることを念願ねんがんし、還暦かんれき退職たいしょくかれこのんだ人生じんせいあゆむことになる。幼年ようねん文学ぶんがくこころざし、漢詩かんしまなんだが医家いかいえまれたのでもっときらいであった医師いしになった。弟子でし医師いし電報でんぽうち、カメラマンをれて、いそいそと沖縄おきなわ旅行りょこうした。翌年よくねん偶々かれ秘蔵ひぞであった次女じじょ急死きゅうしし、その悲哀ひあいなぐさめるために再度さいど旅行りょこうした。今回こんかいつま三男さんなんせいちゅう九州きゅうしゅうにちにち新聞しんぶん津留つるカメラマン、画家がか宮崎みやざき東里とうり夫妻ふさい同行どうこう沖縄おきなわ各地かくち写真しゃしん撮影さつえいした。かれ大学だいがくまなんだ医師いし協力きょうりょくし、くるま知事ちじ使つか公用こうようしゃ使つかった。写真しゃしん熊本くまもと図書館としょかん寄贈きぞうされたが行方ゆくえ不明ふめいであった。沖縄おきなわ写真しゃしん研究けんきゅう野々村ののむら孝男たかお追求ついきゅう津留つるなど大勢おおぜい協力きょうりょくもあり、行方ゆくえ不明ふめい写真しゃしん発見はっけんされ、写真しゃしんしゅう発行はっこうされた。現在げんざいでは貴重きちょう写真しゃしんで、山崎やまざき自身じしんうつっているのも、建物たてものおおきさなどがわかっていいとされている。なお、1933ねん沖縄おきなわのロゼッタストーン沖縄おきなわけん中頭なかがみぐん嘉手納かでなまちこくそうかんはか付近ふきんにおいて、発見はっけんされたせんこく石版せきばんであるが、山崎やまざきただしただし沖縄おきなわ研究けんきゅうしゃ島袋しまぶくろ源一郎げんいちろうにより発見はっけんされたのが最初さいしょとされている。

性格せいかくなど

[編集へんしゅう]

熊本くまもとけん医師いし会長かいちょうなどをつとめた福田ふくだれい寿ことぶきおな産婦人科さんふじんかであったが、山崎やまざきとは同年代どうねんだいである。福田ふくだれい寿ことぶき明治めいじ6ねんまれで、英国えいこく医学いがくおさめた。かれの 『ひゃくねん証言しょうげん』に山崎やまざきのことがている。「せん生徒せいとかんをしていたのが山崎やまざきです。間違まちがったことをする学生がくせいあたままさしくはたらいておらんのだから理屈りくつをいってもわからん。そういうのはステッキでもってなぐりたたきつけてなおしてやるそとだてはないという方針ほうしんをはっきりっておられました。つよ学生がくせいがいて、山崎やまざき用心ようじんして「今後こんごよくおぼえておれ」とったら、「おぼえておる」と返答へんとうしたことがあった。修身しゅうしん道徳どうとく教育きょういく)もやっていたが、わるいことでも露見ろけんしなければいい、という意見いけんであった。生徒せいとかおおぼえていて、うえどおり、したどおり(熊本くまもと繁華はんかがい)をあるいてくる学生がくせい行動こうどうをみて評価ひょうかしていた。」[7]荒木あらききよしこれの『山崎やまざきただしただし』によると、後輩こうはい教授きょうじゅたちによる学位がくい問題もんだいなどにおいては、相当そうとうきびしい指摘してきかれていて、けむたい存在そんざいであった。[8]

記念きねん施設しせつ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 肥後ひごそだて鎮西ちんぜいうみ時報じほうしゃ 熊本くまもと、1929ねん
  2. ^ どうさつ鎮西ちんぜいうみ時報じほうしゃ 熊本くまもと、1931ねん
  3. ^ 山崎やまざきただしただしへん横井よこい小楠しょうなん上巻じょうかん伝記でんきへん下巻げかん遺稿いこうへん明治めいじ書院しょいん、1938ねん5がつ
  4. ^ 山崎やまざきただしただしへん横井よこい小楠しょうなん遺稿いこう』、日新にっしん書院しょいん、1942ねん7がつ
  5. ^ 横井よこい小楠しょうなん先生せんせいしのびて』 1949, 熊本くまもとけん教育きょういく委員いいんかいへん
  6. ^ 写真しゃしんしゅうなつかしき沖縄おきなわ山崎やまざきただしただしらがあるいた昭和しょうわ初期しょきげん風景ふうけい野々村ののむら孝男たかお編著へんちょ(2000ねん琉球新報りゅうきゅうしんぽうしゃ
  7. ^ 福田ふくだれい寿ことぶき  『ひゃくねん証言しょうげん』 熊本日日新聞社くまもとにちにちしんぶんしゃ 1971 p292-293
  8. ^ 荒木あらききよし山崎やまざきただしただし』1963 

文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 写真しゃしんしゅうなつかしき沖縄おきなわ山崎やまざきただしただしらがあるいた昭和しょうわ初期しょきげん風景ふうけい野々村ののむら孝男たかお編著へんちょ(2000ねん琉球新報りゅうきゅうしんぽうしゃ
  • 山崎やまざきただしただし』 荒木あらききよしこれ 1963ねん11月30にち 490ページにおよ人物じんぶつでん 熊本くまもと