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岩城いわきたかしひさし

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岩城いわきたかしひさし
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 天保てんぽう8ねん6月4にち1837ねん7がつ6にち)または天保てんぽう7ねん1836ねん
死没しぼつ 安政あんせい2ねん5月14にち1855ねん6月27にち)または同年どうねん4がつ29にち
別名べつめい 通称つうしょう房之助ふさのすけ
戒名かいみょう げんとおるいん殿どのやま利貞としさだ
墓所はかしょ 東京とうきょう板橋いたばし小豆沢あずさわ総泉寺そうせんじ
官位かんい したがえ但馬たじまもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家定いえさだ
はん 出羽でわ亀田かめだはんあるじ
氏族しぞく 岩城いわき
父母ちちはは ちち岩城いわきたかしははははせんぜいめぐみきょういん
兄弟きょうだい りゅうきょう三男さんなん)、りゅうひさし四男よつお)、隆信たかのぶ五男いつお)、
りゅうまさし六男むつお)、りゅうくになななん)、
堀田ほったただしよう八男はちお堀田ほったただしまこと養子ようし)、
立花たちばなたねあつし正室せいしつ直子なおこさんじょ浅野あさのちょう正室せいしつ)、くらじょ浄真じょうしんいん佐竹さたけよししつ)、
銀子ぎんすはちじょ佐竹さたけよし祚継しつ)、
みどりみさおいん前田まえだとし正室せいしつとうけい8なん18じょ
つま 和喜子わきこ戸沢とざわ正実まさみむすめ
養子ようし隆信たかのぶ
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岩城いわき たかしひさし(いわき たかなが)は、江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう出羽でわこく亀田かめだはん9だい藩主はんしゅ

天保てんぽう8ねん1837ねん)6がつ4にち、8だい藩主はんしゅ岩城いわきたかしよんおとことしてまれる。よしみひさし2ねん1849ねん)9がつ11にちあにりゅうきょう死去しきょにより嫡男ちゃくなんとなる。よしみひさし3ねん1850ねん)9がつ15にち江戸えど幕府ばくふ12だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家慶いえよし目見まみする。よしみなが5ねん12月28にち1853ねん)、したがえ但馬たじままもる叙位じょい任官にんかんする、家督かとく相続そうぞく以前いぜん叙任じょにんされたのは、ちちりゅう城主じょうしゅかく昇進しょうしんともな措置そちであった。

よしみなが7ねん1854ねん)2がつ28にちりゅう死去しきょにより家督かとくいだが、安政あんせい2ねん1855ねん)5がつ14にち死去しきょした。享年きょうねん19。子女しじょがなかったためおとうと隆信たかのぶあといだ。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

父母ちちはは

正室せいしつ

養子ようし