岩田いわたしん

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岩田いわた しん(いわた あらた、1882ねん5月29にち - 1947ねん10月3にち)は、日本にっぽん法学ほうがくしゃ民法みんぽう学者がくしゃ東京とうきょう商科しょうか大学だいがくげん一橋大学ひとつばしだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ日本にっぽんはじめて事情じじょう変更へんこう原則げんそくろんじた。国際こくさい私法しほう大平おおひらよし一橋大ひとつばしだい名誉めいよ教授きょうじゅ商法しょうほう吉永よしなが榮助えいすけ一橋大ひとつばしだい名誉めいよ教授きょうじゅ岩田いわたゼミ出身しゅっしん。なお、民法みんぽう後継こうけいしゃしていない[1][2]川名かわなけんよんろう門下もんか

人物じんぶつ来歴らいれき[編集へんしゅう]

愛知あいちけん碧海あおみぐん知立ちりゅうまちげん知立ちりゅう出身しゅっしん1906ねん明治めいじ39ねん第一高等学校だいちこうとうがっこう卒業そつぎょう1911ねん明治めいじ44ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがくどく法科ほうか卒業そつぎょう。1916ねん大正たいしょう5ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく大学院だいがくいん旧制きゅうせい法学ほうがく研究けんきゅう修了しゅうりょう東京とうきょう高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうげん一橋大学ひとつばしだいがく教授きょうじゅ。1920ねん大正たいしょう9ねんフランスドイツスペインイギリスイタリア文部省もんぶしょう在外ざいがい研究けんきゅういんとして、研究けんきゅう留学りゅうがく( - 1923ねん)。1923ねん大正たいしょう12ねん東京とうきょう商科しょうか大学だいがくげん一橋大学ひとつばしだいがく商学部しょうがくぶ助教授じょきょうじゅ1924ねん大正たいしょう13ねんどう教授きょうじゅ1934ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学ほうがく博士はかせ論文ろんぶんだいは「占有せんゆう理論りろん[3]1936ねん昭和しょうわ11ねん)、白票はくひょう事件じけんで「白票はくひょうぐみ」として孫田まごた秀春ひではるらと対立たいりつし、東京とうきょう商科しょうか大学だいがく退官たいかん[2]どう名誉めいよ教授きょうじゅ中央大学ちゅうおうだいがく法学部ほうがくぶ教授きょうじゅ1946ねん昭和しょうわ21ねん中央大学ちゅうおうだいがく依願いがん退職たいしょく翌年よくねん死去しきょ[4]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 經濟けいざい事情じじょう變動へんどう債權さいけん效力こうりょく : Clausula rebus sic stantibus(事情じじょう變更へんこう抗辯こうべん)』(同文どうぶんかん、1926ねん
  • 日本にっぽん民法みんぽう民法みんぽうつうじてたる明治めいじ大正たいしょう思想しそう』(同文どうぶんかん、1928ねん
  • 信託しんたくほうしんろん』(有斐閣ゆうひかく、1933ねん
  • 債権さいけんほうしんろん』(有斐閣ゆうひかく、1934ねん初版しょはん・1938ねんぞうていばん
  • 民法みんぽう總則そうそくしんろん』(有斐閣ゆうひかく、1941ねん
  • 日本にっぽん經濟けいざいほう理論りろん』(有斐閣ゆうひかく、1944ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 皆川みなかわこう大平おおひらよし先生せんせい : ひと学説がくせついちきょう論叢ろんそう
  2. ^ a b 好美よしみ清光せいこういちきょうにおける民法みんぽうがくいちきょう論叢ろんそう
  3. ^ 博士はかせろん文書ぶんしょデータベースによる
  4. ^ 以上いじょうについて、「岩田いわたしん博士はかせ略歴りゃくれき」『岩田いわた先生せんせいしのんで / 岩田いわた博士はかせ追悼ついとうろく出版しゅっぱん事業じぎょう委員いいんかい』(岩田いわたかい , 1966ねん)p122