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しゅう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ひめしゅう
まもる
だい14だいおおやけ
王朝おうちょう まもる
在位ざいい期間きかん 紀元前きげんぜん719ねん
都城みやこのじょう ちょう
せいいみな ひめしゅう
生年せいねん しょう
没年ぼつねん 紀元前きげんぜん719ねん
ちち そうこう

しゅう(しゅうく、生年せいねん不明ふめい - 紀元前きげんぜん719ねん)は、まもるだい14だい君主くんしゅそうこう桓公かんこうおとうとあにからおおやけ簒奪さんだつした。

生涯しょうがい

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そうこうとそのわらわあいだまれる。

そうこう18ねんぜん740ねん)、しゅう吁が成人せいじんしてへいせんこのんだので、そうこうかれ将軍しょうぐん任命にんめいした。このときうえきょういし(せきしゃく)が諫言したが、そうこうはききいれなかった。

桓公かんこう2ねんぜん733ねん)、しゅう吁はあに桓公かんこうから排斥はいせきされ、まもる出奔しゅっぽんした。

桓公かんこう13ねんぜん722ねん)、隣国りんごくていにおいてていはくそうこう)のおとうとであるきょう叔段内紛ないふんこし、ていから逃亡とうぼうした。そこでしゅう吁はかれみ、ともに桓公かんこうつことを画策かくさくした。

桓公かんこう16ねんぜん719ねんはるしゅう吁はてい逃亡とうぼうしゃたちとともにあに桓公かんこう襲撃しゅうげきしてころし、みずかまもる君主くんしゅとなった。また、しゅう吁はきょう叔段のために[1]てい攻撃こうげきしようと、同盟どうめいこくであるそうひねさんこく協力きょうりょく要請ようせいした。さんこくはこれに承諾しょうだくし、よんカ国かこく連合れんごうぐんていを5日間にちかん攻撃こうげきして撤退てったいした。あき連合れんごうぐんはふたたびてい攻撃こうげきした。このときしゅう吁はにも援軍えんぐん要請ようせいをし、魯の公子こうし援軍えんぐんけた。このたたかいは連合れんごうぐん勝利しょうりわったが、しゅう吁にたいする人民じんみん反感はんかんいちぽうであった。そこでひねせていた旧臣きゅうしんいし碏がひね桓公かんこう共謀きょうぼうしてしゅう吁をころそうと画策かくさく。9月、しゅう吁と側近そっきんいしあついし碏の息子むすこ)はひねにいたところをとらえられ、濮の[2]処刑しょけいされた。このときまもるからはみぎおさむ[3]うしいにた。12月、まもるひと桓公かんこうおとうとであるすすむ(けい)[4]からむかえてまもる君主くんしゅとした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 史記しき』では「きょう叔段のため」としているが、『ひだりでん』では「先君せんくん桓公かんこう)のうらみ(公孫こうそんすべりらん)をはらすという名目めいもく諸侯しょこう信用しんようしゅうしんるため」としている。
  2. ^ 濮(ぼく)とはまもるあいだにあるかわ名前なまえで、ひね領土りょうど
  3. ^ みぎおさむ(ゆうさい)とは大夫たいふ役名やくめい
  4. ^ 国名こくめいくに現在げんざい河北かほくしょう邢台けん

参考さんこう資料しりょう

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