平沼ひらぬまえき (国鉄こくてつ)

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平沼ひらぬまえき
ひらぬま
Hiranuma
地図左下ひだりした平沼ひらぬまきょうえき相模鉄道さがみてつどう
所在地しょざいち 神奈川かながわけん横浜よこはま平沼ひらぬま
げん横浜よこはま西にし平沼ひらぬまいち丁目ちょうめ19)
北緯ほくい3527ふん40びょう 東経とうけい13937ふん4.3びょう / 北緯ほくい35.46111 東経とうけい139.617861 / 35.46111; 139.617861座標ざひょう: 北緯ほくい3527ふん40びょう 東経とうけい13937ふん4.3びょう / 北緯ほくい35.46111 東経とうけい139.617861 / 35.46111; 139.617861
所属しょぞく事業じぎょうしゃ 鉄道てつどういん国鉄こくてつ
所属しょぞく路線ろせん 東海道本線とうかいどうほんせん
キロほど 29.4 km(東京とうきょう起点きてん
開業かいぎょう年月日ねんがっぴ 1901ねん明治めいじ34ねん10がつ10日とおか
廃止はいし年月日ねんがっぴ 1915ねん大正たいしょう4ねん8がつ15にち
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平沼ひらぬまえき(ひらぬまえき)は、かつて神奈川かながわけん横浜よこはま東海道本線とうかいどうほんせんうえもうけられていたえきである。現在げんざい相模鉄道さがみてつどう平沼ひらぬまきょうえき北側きたがわにあった。

概要がいよう[編集へんしゅう]

右側みぎがわのマンションがなら場所ばしょ平沼ひらぬまえき跡地あとち相模鉄道さがみてつどう平沼ひらぬまきょうえきプラットホームから撮影さつえい
1906年頃(平沼駅設置後)
1906ねんごろ平沼ひらぬまえき設置せっち
1916年頃(横浜駅を移転、平沼駅を廃止)
1916ねんごろ横浜よこはまえき移転いてん平沼ひらぬまえき廃止はいし
1929年頃(横浜駅の再移転後)
1929ねんごろ横浜よこはまえきさい移転いてん

横浜よこはまえき構造こうぞう問題もんだい[編集へんしゅう]

1872ねん明治めいじ5ねん)、新橋しんばしえき - 横浜よこはまえきあいだ日本にっぽんはつ鉄道てつどう開業かいぎょうするが、このとき東西とうざいりょうきょうむす鉄道てつどうかんして具体ぐたいてき計画けいかく存在そんざいせず、横浜よこはまとおるかどうかすら検討けんとうしていない状況じょうきょうであったことから、横浜よこはまえき海運かいうんとの接続せつぞく考慮こうりょし、みなとちか現在げんざい桜木町さくらぎちょうえき位置いちあたまはししき設置せっちされた。

その一時いちじ中山道なかせんどうルートとまったりょうきょうむす鉄道てつどうであるが、予算よさん工事こうじ難易なんい理由りゆうとし、最終さいしゅうてき東海道とうかいどうルートへ変更へんこうされる。1887ねん明治めいじ20ねん)、とうえきから国府津こうづえきまで路線ろせん延伸えんしんされることになったが、前述ぜんじゅつのような構造こうぞうえき設置せっちされたため、線路せんろ配置はいちスイッチバック構造こうぞうにならざるをなかった。

そして1889ねん明治めいじ22ねん)に東海道とうかいどうせん全通ぜんつうむかえるが、スイッチバック構造こうぞうであるがゆえに横浜よこはまえき初代しょだい)は貨物かもつ滞留たいりゅうする場所ばしょとなってしまった。そして1894ねん明治めいじ27ねん)ににちしん戦争せんそう勃発ぼっぱつすると、陸軍りくぐん要請ようせい神奈川かながわえき - ほどたにえきあいだ短絡たんらくせん設置せっちされ、軍用ぐんよう貨物かもつ列車れっしゃはこちらを経由けいゆするようになった。

神奈川かながわほどたに接続せつぞく[編集へんしゅう]

にちしん戦争せんそう終結しゅうけつすると、軍事ぐんじ需要じゅよう下火したびになった。しかし、当時とうじ国有こくゆう鉄道てつどう運営うんえいしていた逓信ていしんしょう鉄道てつどうきょくでは、これを東海道とうかいどうのメインルートをこの短絡たんらくせん経由けいゆ変更へんこうしようと目論もくろんだ。

だが、横浜よこはま財界ざいかい有力ゆうりょくしゃによって構成こうせいされた横浜よこはま商工しょうこう会議かいぎしょが、その方針ほうしんくやいなもう反対はんたいし、再三さいさんにわたる陳情ちんじょうおこなった。列車れっしゃ発着はっちゃく本数ほんすう減少げんしょうすれば、みなと荷物にもつがたまってしまうだろうとして、おそれたのである。

しかし横浜よこはまえきスイッチバック問題もんだいくわえ、発着はっちゃく列車れっしゃ増加ぞうかにより手狭てぜまになりつつあるという状況じょうきょうにもおちいっており、貨物かもつ数ヵ月すうかげつ滞留たいりゅうしてあまざらしになるという有様ありさまだった。結局けっきょく鉄道てつどうきょく意志いしげず、1898ねん明治めいじ31ねん8がつ1にちより一部いちぶ旅客りょかく列車れっしゃ貨物かもつ列車れっしゃかんしては短絡たんらくせんはしらせるようになり、横浜よこはまえき経由けいゆしなくなった。横浜よこはま市街しがいとの連絡れんらくは、くだ列車れっしゃについては横浜よこはまえき - 神奈川かながわえき東神奈川ひがしかながわえき - 横浜よこはまえきあいだにあったえきで、1928ねん昭和しょうわ3ねん廃止はいしあいだのぼ列車れっしゃについてはほどたにえき保土ケ谷ほどがやえき改称かいしょう) - 横浜よこはまえきあいだ接続せつぞく列車れっしゃはしらせることで対応たいおうしていた。

えき設置せっち評判ひょうばん[編集へんしゅう]

だが横浜よこはま市民しみんからは、やはりわずらわしいということで不満ふまんこえのこった。そこで鉄道てつどうきょくでは、横浜よこはま商工しょうこう会議かいぎしょ陳情ちんじょう配慮はいりょするかたちで、はずれではあるが短絡たんらくせんじょうえき新設しんせつし、優等ゆうとう列車れっしゃはここに停車ていしゃさせることにした。これが平沼ひらぬまえきで、1901ねん明治めいじ34ねん)に開設かいせつされた。

しかし、駅前えきまえには横浜よこはま市電しでんかよっておらず、おまけに駅前えきまえつうじる道路どうろせまうえがりくねっているなど、市街地しがいちとのアクセスは神奈川かながわほどたに接続せつぞく時代じだいよりもおと有様ありさまとなり、評判ひょうばんわるかった。結局けっきょく旅客りょかく列車れっしゃおおくは横浜よこはまえき経由けいゆのこり、平沼ひらぬまえき発着はっちゃく列車れっしゃ1904ねん明治めいじ37ねん当時とうじで6往復おうふく程度ていどにとどまることとなった。

その京浜けいひんあいだ電車でんしゃ運転うんてんおこなわれることになったが、商工しょうこう会議かいぎしょではこれをに、不便ふべん平沼ひらぬまえきはいして横浜よこはまえき移転いてんさせることを要望ようぼうした。その結果けっか1915ねん大正たいしょう4ねん)、東海道とうかいどう本線ほんせんのルートを若干じゃっかん東側ひがしがわはしるように移動いどうさせ、東急東横とうきゅうとうよこせん高島町たかしまちょうえき2004ねん平成へいせい16ねん1がつ30にち廃止はいし付近ふきん横浜よこはまえき移転いてん初代しょだい横浜よこはまえき桜木町さくらぎちょうえき改称かいしょうされ、平沼ひらぬまえき役目やくめえて廃止はいしされた。えきがあった場所ばしょに、過去かこえきがあったとわかる痕跡こんせきのこっていない。

なお1923ねん大正たいしょう12ねん)の関東大震災かんとうだいしんさいで2代目だいめ横浜よこはまえき駅舎えきしゃ崩壊ほうかいしたため、1928ねん昭和しょうわ3ねん)には東海道とうかいどう本線ほんせん短絡たんらくせん経由けいゆするルート(現行げんこうルート)にりかえることになり、これにともな横浜よこはまえき現在地げんざいち移転いてんした。

歴史れきし[編集へんしゅう]

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

鉄道てつどう唱歌しょうか[編集へんしゅう]

  • 鉄道てつどう唱歌しょうか本編ほんぺん1900ねん発表はっぴょう)では、横浜よこはまえき桜木さくらぎまち)がてくるが、1911ねん発表はっぴょうの「訂正ていせい鉄道てつどう唱歌しょうか」では、「神奈川かながわぎて平沼ひらぬまの あなたをればひゃくせんけむりそらをこがすまで ここ横浜よこはま大港おおみなと」と改訂かいていされてほんえき登場とうじょうする。

となりえき[編集へんしゅう]

東海道とうかいどうせん
神奈川かながわえき - 平沼ひらぬまえき - ほどたにえき

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]