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ちょうまもる

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ちょうまもる
こうかん
昭義あきよし将軍しょうぐん
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
しゅう沛国ゆたかけん
拼音 Zhāng Wèi
公則まさのり
主君しゅくん ちょう曹操そうそう
テンプレートを表示ひょうじ

ちょう まもる(ちょう えい、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくこうかん時代じだい末期まっき武将ぶしょう公則まさのりしゅう沛国ゆたかけんひとちちちょうははあにちょうおとうとちょう傀。おいちょうとみすうめいちょう魯の10にん)。

生涯しょうがい

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たてやすし20ねん215ねん)、曹操そうそうかんちゅう進攻しんこうしてくるとちょう魯が降伏ごうぶくしようとしたが、ちょうまもる承知しょうちせず、将軍しょうぐん楊昂楊任すうまんへいひきいてやすせき守備しゅびした。一時いちじ曹操そうそうぐん撃退げきたいしたが、曹操そうそうこうらがひきいる別働隊べつどうたい派遣はけんして夜襲やしゅうさせたため、楊任が戦死せんしし、ちょうまもる敗走はいそうした(陽平ようへいせきたたか)。

それでもちょうまもる抵抗ていこうつづけていると、野生やせい鹿しかすうせんとうちょうまもる陣営じんえいはしこわ事故じこ曹操そうそうぐん計略けいりゃくによるものかどうかは不明ふめい)が発生はっせいした。さらに、偶然ぐうぜん発生はっせいしたこう祚との夜間やかん遭遇そうぐうせんでは、こう祚が味方みかたぶためにらした軍鼓ぐんこおとを、ちょうまもる奇襲きしゅう合図あいず勘違かんちがいしてしまう。これらのことにより、ついにちょうまもる戦意せんい喪失そうしつして降伏ごうぶくした。

てん』は、ちょうまもる公則まさのりとする。曹操そうそうつかえて昭義あきよし将軍しょうぐんにんぜられたと記載きさいされている。

物語ものがたりちゅうちょうまもる

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、最後さいごまであにさからって曹操そうそうへの抵抗ていこうつづけ、勇将ゆうしょうもととのいちやぶ戦死せんししている。

参考さんこう文献ぶんけん

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