思想しそうはん保護ほご観察かんさつほう

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思想しそうはん保護ほご観察かんさつほう
日本国政府国章(準)
日本にっぽん法令ほうれい
通称つうしょう略称りゃくしょう なし
法令ほうれい番号ばんごう 昭和しょうわ11ねん5がつ29にち法律ほうりつだい29ごう
種類しゅるい 刑法けいほう
効力こうりょく 廃止はいし
成立せいりつ 1936ねん5がつ24にち
公布こうふ 1936ねん5がつ29にち
施行しこう 1936ねん11月20にち
おも内容ないよう 思想しそうはん監視かんし
関連かんれん法令ほうれい 治安ちあん維持いじほう
条文じょうぶんリンク 官報かんぽう1936ねん05がつ29にち
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思想しそうはん保護ほご観察かんさつほう(しそうはんほごかんさつほう、昭和しょうわ11ねん5がつ29にち法律ほうりつだい29ごう)は、1936ねん昭和しょうわ11ねん)、思想しそうはん公権力こうけんりょくした監視かんししておくために制定せいていされた日本にっぽん法律ほうりつである。ぜん14じょうからる。治安ちあん維持いじほう違反いはん逮捕たいほされたが執行しっこう猶予ゆうよがついたものや、起訴きそ猶予ゆうよになったもの仮釈放かりしゃくほうしゃ満期まんき出獄しゅつごくしゃたいして適用てきようされた。

思想しそうはん保護ほご観察かんさつ制度せいどとは、一言ひとことうと、思想しそうはんさい教育きょういく監視かんし制度せいどである。犯罪はんざいしゃ保護ほご観察かんさつ制度せいどは、19世紀せいきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく起源きげんとして、ヨーロッパひろまった制度せいどだったが、思想しそうはん対象たいしょうとした制度せいど導入どうにゅう日本にっぽん最初さいしょである[1]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)、「ポツダム」宣言せんげん受諾じゅだくともはつスル命令めいれいせきスルけんもと治安ちあん維持いじほう廃止はいしとうけん昭和しょうわ20ねん10がつ15にちみことのりれいだい575ごう)により廃止はいしされた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

廣田ひろた内閣ないかく成立せいりつした思想しそうはん保護ほご観察かんさつほうにより設置せっちされた思想しそうはん保護ほご観察かんさつしょ一覧いちらん

1936ねん2がつもと内閣ないかく総理そうり大臣だいじん斎藤さいとうみのる二・二六事件ににろくじけんにより暗殺あんさつされ岡田おかだ内閣ないかくそう辞職じしょくし、つづいて廣田ひろた内閣ないかく成立せいりつしたが、その時期じきの5がつ成立せいりつした法律ほうりつである。

ほう成立せいりつの5がつ29にち当時とうじ憲法けんぽう番人ばんにんたる枢密院すうみついん議長ぎちょう平沼ひらぬま騏一郎きいちろうもと検事けんじ総長そうちょうもと国本こくほんしゃ代表だいひょうもと大審院だいしんいんちょうもと法曹ほうそうかい会長かいちょう。のち内閣ないかく総理そうり大臣だいじん)。検事けんじ総長そうちょう光行みつゆき次郎じろう(のち貴族きぞくいん議員ぎいん)、大審院だいしんいんちょう池田いけだとら二郎じろう[ちゅう 1]警視総監けいしそうかんもと神奈川かながわけん知事ちじ石田いしだかおる(のち宮内庁くないちょう御用ごようかけ高松宮たかまつのみや別当べっとう)であった。

昭和しょうわ維新いしん運動うんどう弾圧だんあつ治安ちあん維持いじほうつみおかしたものふたたざいおかさせないために、本人ほんにん保護ほごし、その思想しそう行動こうどう観察かんさつすることを目的もくてきとする刑事けいじ政策せいさく一環いっかんであった。

思想しそう輔導ほどうかん思想しそう保護司ほごし保護ほご観察かんさつにあたり、保護ほご観察かんさつ審査しんさかいもうけられ、保護ほご観察かんさつよう、あるいはその期間きかん原則げんそくとしては2年間ねんかん更新こうしんようなどの審査しんさ議決ぎけつあずからせた。

全国ぜんこく22ヵ所かしょ保護ほご観察かんさつしょかれた。保護ほご観察かんさつされたもの保護司ほごしによるかあるいは保護ほごしゃわたし,または保護ほご団体だんたい寺院じいん教会きょうかいなどに委託いたくして私生活しせいかつおよ監視かんし実施じっしされた[2]

東京とうきょうでは神社じんじゃ本庁ほんちょう近辺きんぺん[疑問ぎもんてん]渋谷しぶや千駄ヶ谷せんだがや思想しそうはん保護ほご観察かんさつしょ設置せっち大阪おおさかでは大阪おおさかきた若松わかまつまち河岸かわぎし弁護士べんごし事務所じむしょあと借地しゃくち設置せっちされ、100めい以上いじょう保護ほごによって、大阪おおさか控訴こうそいん検事けんじきょく管轄かんかつないの1800めい以上いじょう(うち大阪おおさか600めい)が保護ほご観察かんさつけていた[ちゅう 2]ほん法律ほうりつもとづき、[よう出典しゅってん]全日本ぜんにほん仏教ぶっきょうかいなども思想しそうはん保護ほご観察かんさつ団体だんたいとなった。

朝鮮半島ちょうせんはんとうにおいては、朝鮮ちょうせん思想しそうはん保護ほご観察かんさつれい昭和しょうわ11ねん制令せいれいだい16ごう[3]により統制とうせいされた。朝鮮ちょうせんでは司法しほう人事じんじけん朝鮮ちょうせん総督そうとくにぎっており、これにたい朝鮮ちょうせん弁護士べんごしかいは、裁判所さいばんしょ構成こうせいほう弁護士べんごしほう施行しこうするよう帝国ていこく弁護士べんごしかい陳情ちんじょうをしたが、実現じつげんしなかった[4]。なお、朝鮮ちょうせん思想しそうはん保護ほご観察かんさつれい施行しこうさいし、朝鮮ちょうせん総督そうとく保護ほご観察かんさつしょ官制かんせい昭和しょうわ11ねんみことのりれいだい432ごう[5]もとづき朝鮮ちょうせん総督そうとく保護ほご観察かんさつしょもうけられたほか、朝鮮ちょうせん思想しそうはん保護ほご観察かんさつれい施行しこう規則きそく昭和しょうわ11ねん朝鮮ちょうせん総督そうとくれいだい128ごう[6]制定せいていされた。

法案ほうあん[編集へんしゅう]

1934ねん1935ねんの2治安ちあん維持いじほう改正かいせい失敗しっぱいにより予防よぼう拘禁こうきん制度せいど導入どうにゅう不可能ふかのうになったことから、転向てんこう政策せいさく推進すいしんのための法的ほうてき基礎きそうしなわれた。そこで当面とうめん対策たいさくとしてつくられたのが思想しそうはん保護ほご観察かんさつほうである[1]

1934ねん治安ちあん維持いじほう改正かいせいあんでは、「保護ほご観察かんさつ」と「予防よぼう拘禁こうきん」の2制度せいど規定きていされていた。しかし、「予防よぼう拘禁こうきん」に反対はんたい集中しゅうちゅうしたためそれを削除さくじょし、わって「保護ほご観察かんさつ」の適用てきよう範囲はんいひろげてつくられたのが翌年よくねんの1935ねん改正かいせいあんである[7]。なお、予防よぼう拘禁こうきん制度せいど1941ねんしん治安ちあん維持いじほう成立せいりつにより復活ふっかつする。

保護ほご観察かんさつ制度せいどみのおやであり、そだてのおやでもあるのがもり山武さんぶ市郎いちろう(司法省しほうしょう保護ほご課長かちょう当時とうじ)である[8]法案ほうあん責任せきにんしゃだった森山もりやま[1]は、「在来ざいらいきがかりを一切いっさいてまして、全然ぜんぜんあらたなる基礎きそした立案りつあんした」とべて、思想しそうはん保護ほご観察かんさつほうが「威嚇いかくだんあつ」ではなく「保護ほご指導しどう」にあることを強調きょうちょうした[9]が、後述こうじゅつのように実態じったいことなる。

前述ぜんじゅつとお治安ちあん維持いじほう改正かいせいあん(1934ねん、1935ねん)は廃案はいあんになったが、これらから「保護ほご観察かんさつ」の部分ぶぶんをほぼそのままして法律ほうりつしたのが思想しそうはん保護ほご観察かんさつほうである[7]法律ほうりつにあたっては、1935ねん改正かいせいあんつぎの3てん修正しゅうせいほどこした[10]

  1. 保護ほご観察かんさつ決定けっていけん検事けんじにではなく、保護ほご観察かんさつ審査しんさかい(検事正けんじせい裁判所さいばんしょちょう警察けいさつ部長ぶちょう弁護士べんごしなどから構成こうせい)にあたえるように変更へんこうした。
  2. 保護ほご観察かんさつしょ観察かんさつ対象たいしょうしゃ通信つうしん居住きょじゅう交友こうゆうなどを制限せいげんできるようにした。
  3. 保護ほご観察かんさつ期限きげんは2ねん上限じょうげんとした。ただし、更新こうしん可能かのうである。

森山もりやまによると、どうほう治安ちあん維持いじほう改正かいせいあんわりになっているとの懸念けねん払拭ふっしょくするために、上記じょうき3てん修正しゅうせいおこなったほか法律ほうりつ主管しゅかん刑事けいじきょくから大臣だいじん官房かんぼう保護ほごうつすなどの措置そちった[9]

法案ほうあんは、1936ねんだい69帝国ていこく議会ぎかい提出ていしゅつされた[1]法律ほうりつ制定せいてい趣旨しゅしは、思想しそう転向てんこうしゃ再犯さいはん防止ぼうし転向てんこうしゃ転向てんこう促進そくしんである[7]特別とくべつ高等こうとう警察けいさつ(特高とっこう)にはすで思想しそうよう監視かんしじん思想しそう要注意ようちゅういじん制度せいどがあったため、当初とうしょ内務省ないむしょう法案ほうあん反対はんたいだったが、森山もりやま説得せっとく態度たいど法案ほうあん賛成さんせいすることになった[1]

議会ぎかい審議しんぎでは加藤かとうかんじゅう反対はんたいろん展開てんかい治安ちあん維持いじほう違反いはんしゃ再犯さいはんりつやく3パーセントとひくいこと(通常つうじょう犯罪はんざいやく35パーセント)、憲法けんぽうさだめる居住きょじゅう転居てんきょ自由じゆう侵害しんがいすることを指摘してきした[10]が、結局けっきょく法案ほうあん原案げんあんのまま1936ねん5月に成立せいりつ同年どうねん11がつ20日はつかより施行しこうされた[7]。「思想しそう指導しどう」と「保護ほご観察かんさつ」が2ほんはしらで、前者ぜんしゃは「しん日本人にっぽんじん還元かんげんせしむる」ことを目的もくてきにして職業しょくぎょう斡旋あっせん就学しゅうがく復学ふくがくなどに配慮はいりょする「生活せいかつ支援しえん」、後者こうしゃ字義じぎどおりであり、対象たいしょうしゃ起訴きそ猶予ゆうよもの執行しっこう猶予ゆうよもの仮釈放かりしゃくほうもの満期まんき釈放しゃくほうしゃの4つであった[7]

思想しそうはん保護ほご観察かんさつ制度せいどは、日本にっぽん本土ほんどだけでなく朝鮮ちょうせん(1936ねん12月より)・関東かんとうしゅう(1939ねん1がつより)でも施行しこうされたが、台湾たいわんでは導入どうにゅうされなかった[11]

転向てんこう政策せいさく[編集へんしゅう]

思想しそうはん保護ほご観察かんさつほう成立せいりつともない、これまで適用てきようされてきた転向てんこう判断はんだん基準きじゅんは1936ねんには厳格げんかくされた[12]森山もりやま自身じしん著書ちょしょ思想しそうはん保護ほご観察かんさつほう解説かいせつ』のなか説明せつめいするところでは転向てんこう以下いか段階だんかい分類ぶんるいし、だいよん段階だんかい一応いちおう目標もくひょうとすることにされた[13][14]

だいいち段階だんかい
マルクス主義まるくすしゅぎ正当せいとうせい主張しゅちょうし、また是認ぜにんするもの
だい段階だんかい
マルクス主義まるくすしゅぎたいしては、まったまた一応いちおう批判ひはんてきにして、いまなおお〔ママ自由じゆう主義しゅぎ個人こじん主義しゅぎてき態度たいど否定ひていざるもの
だいさん段階だんかい
マルクス主義まるくすしゅぎ批判ひはんする程度ていどいたりしもの
だいよん段階だんかい
完全かんぜん日本にっぽん精神せいしん理解りかいせりとみとめらるるにいたりたるもの
だい段階だんかい
日本にっぽん精神せいしん体得たいとくして、実践躬行じっせんきゅうこう(きゅうこう)のいき到達とうたつせるしゃ

このように転向てんこうしゃに「日本にっぽん精神せいしん」を要求ようきゅうするようになった。

日本にっぽん精神せいしん」という言葉ことばは、「日本にっぽん主義しゅぎ」という言葉ことばとともに1930年代ねんだい日本にっぽん流行りゅうこうしたが、ともにどのようなことを意味いみしているのか曖昧あいまいなまま使つかわれていた[15][ちゅう 3]森山もりやま解説かいせつでも「日本にっぽん精神せいしん」という言葉ことば転向てんこう判断はんだん基準きじゅんになっているが、司法省しほうしょう森山もりやまどもに「日本にっぽん精神せいしん」の定義ていぎ明確めいかくだったわけではない[20]。このあいまいさは、共産きょうさん主義しゅぎ以外いがい思想しそう弾圧だんあつにつながっていった。

治安ちあん維持いじほう本来ほんらい共産党きょうさんとう対策たいさく法律ほうりつだったが、転向てんこう政策せいさくにおける「転向てんこう」の判断はんだん基準きじゅんに、はん自由じゆう主義しゅぎはん個人こじん主義しゅぎや、「日本にっぽん精神せいしん」というあいまいな基準きじゅんしたため、共産きょうさん主義しゅぎ以外いがい思想しそう排斥はいせきされる原因げんいんになった[20]問題もんだいは、それだけではまされない。思想しそう検事けんじは、思想しそう排斥はいせき強制きょうせい治安ちあん維持いじほう違反いはんしゃだけでなく、一般いっぱん国民こくみんにまでひろげようとした。たとえば、東京とうきょう保護ほご観察かんさつ所長しょちょう平田ひらたいさおは、転向てんこう方策ほうさく一般いっぱん社会しゃかいたいしても「日本にっぽん精神せいしん実践じっせん宣揚せんよう」のために必要ひつようである、とべている[21]。また、同所どうしょ輔導ほどうかんだった中村なかむら義郎よしお (宮城みやぎ控訴こうそいん検事けんじきょく思想しそう検事けんじ名古屋なごや地裁ちさい検事けんじきょく思想しそう検事けんじ東京とうきょう予防よぼう拘禁こうきんしょ初代しょだい所長しょちょう[22]) は「いま思想しそう関係かんけいしゃのなしとげた「転向てんこう問題もんだい発展はってんし、さら一転いってんして国民こくみん全体ぜんたい時局じきょくてき国策こくさくてき転向てんこう」を要請ようせいしている」といている[21]平田ひらた発言はつげんささえ事変じへん勃発ぼっぱつまえの1936ねん中村なかむら発言はつげん太平洋戦争たいへいようせんそう開始かいし以前いぜんの1938ねんのものである。

転向てんこう判断はんだんは1938ねんになるとさら基準きじゅんきびしくなり、だい段階だんかいにならないと「転向てんこう」したと判断はんだんされなくなった[20]。また、ささえ事変じへん以降いこう日本にっぽん精神せいしん」の称揚しょうよう決定的けっていてきになり、政府せいふ転向てんこうしゃ国家こっか総動員そうどういん体制たいせいみ、戦地せんち宣撫せんぶはんとして宣伝せんでん活動かつどう協力きょうりょくさせるように強制きょうせいした[15]

1941ねんになると基準きじゅんは、しん治安ちあん維持いじほう制定せいていともなってさら改訂かいていされ、「過去かこ思想しそう清算せいさんし、日常にちじょう生活せいかつうら臣民しんみんどう躬行きゅうこうるもの」のみが「転向てんこう」したと判断はんだんされ、それ以外いがいものは「予防よぼう拘禁こうきん」にまわされた[23]。ただ、1941ねん改正かいせいによって成立せいりつしたしん治安ちあん維持いじほうにおける目玉めだま政策せいさくだった予防よぼう拘禁こうきん制度せいど実際じっさいにはあまり効果こうか発揮はっきしたとはえず[24]実際じっさい予防よぼう拘禁こうきん所内しょない拘禁こうきんされた人数にんずう期待きたいされたほどのかずにはならなかった[25][26]

保護ほご観察かんさつしょ[編集へんしゅう]

1936ねん昭和しょうわ11ねん11月1にち東京とうきょう大阪おおさかなど控訴こうそいん所在地しょざいちに7ヶ所かしょ保護ほご観察かんさつしょ、15カ所かしょ保護ほご観察かんさつしょ出張所しゅっちょうしょ設置せっちされた[27][28]。このうち、東京とうきょう保護ほご観察かんさつしょ管内かんない(東京とうきょう埼玉さいたま千葉ちば山梨やまなし)だけで全国ぜんこくの「保護ほご観察かんさつ対象たいしょうしゃやく3ぶんの1をめており、保護ほご観察かんさつしょのモデルケースとして注目ちゅうもくされていた[8]東京とうきょう保護ほご観察かんさつしょ所長しょちょうには、平田ひらたいさお就任しゅうにんした(大審院だいしんいん検事けんじとの兼務けんむ)[28]平田ひらたは、保護ほご観察かんさつ制度せいど運用うんようめん重要じゅうよう役割やくわりたした人物じんぶつである[28]

大阪おおさか名古屋なごや広島ひろしま札幌さっぽろ所長しょちょう思想しそう検事けんじから転出てんしゅつした専任せんにんしゃ所長しょちょうになり、その保護ほご観察かんさつしょ所長しょちょう地裁ちさい検事けんじきょく思想しそう検事けんじ兼任けんにんした[29]。このように、保護ほご観察かんさつ制度せいど運用うんよう思想しそう検事けんじによって主導しゅどうされたとってよい。

保護ほご観察かんさつしょだけではなく、民間みんかん保護ほご事業じぎょう団体だんたいや、寺院じいん教会きょうかい病院びょういん身柄みがらけの請負うけおいでかかわった[12]保護ほご事業じぎょう団体だんたいとしては、たとえば、半官半民はんかんはんみん帝国ていこく更新こうしんかいがあげられる[12]。このかいでは、もと共産きょうさん党員とういん転向てんこうしゃ小林こばやしもりじんが、思想しそうはん職業しょくぎょうあっせんを担当たんとうした[12]

運用うんよう実態じったい[編集へんしゅう]

思想しそうはん保護ほご観察かんさつ制度せいどは、その名前なまえにあるように「保護ほご」と「観察かんさつ」の2めんった制度せいどで、「保護ほご」に相当そうとうする事業じぎょうとして、思想しそうはんやその家族かぞく就職しゅうしょくあっせんや結婚けっこん仲介ちゅうかい職業しょくぎょう訓練くんれん授産じゅさん[12]就学しゅうがく援助えんじょ生活せいかつ扶助ふじょ[30]など、「観察かんさつ」は、保護司ほごしらによる出張しゅっちょう観察かんさつ定期ていきてき[31]である。

思想しそう検事けんじたちは、この制度せいど共産きょうさん主義しゅぎ弾圧だんあつ一辺倒いっぺんとうではない日本にっぽん独自どくじ制度せいどだとほこった[23]たとえば、東京とうきょう保護ほご観察かんさつ所長しょちょう平田ひらたいさおは「保護ほご観察かんさつほうまったははほうなく、日本にっぽん独自どくじあい精神せいしん立脚りっきゃくしたしん日本にっぽんてき法律ほうりつ」だと自画じが自賛じさんしている[32]が、運用うんようはこの言葉ことばからはかけはなれたものに変質へんしつしていった。

東京とうきょう保護ほご観察かんさつしょでは施行しこう当初とうしょは「保護ほご重視じゅうし姿勢しせいしめしていた[33]。しかし、ささえ事変じへん以降いこうは「保護ほご」よりも「観察かんさつ」が主体しゅたいになっていき、1940ねんごろになると、「観察かんさつ」の重要じゅうよう決定的けっていてきになった[33]。1936ねんだい69帝国ていこく議会ぎかい加藤かとうかんじゅうは、法案ほうあんは「保護ほご観察かんさつ」とうたっているが運用うんようは「監視かんし取締とりしまり」に主眼しゅがんかれるだろう、と警告けいこくしていた[10]が、実際じっさいにそのとおりになった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

ちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ なお5がつ13にちまでははやしよりゆき三郎さぶろう
  2. ^ 当時とうじ大阪おおさか弁護士べんごしかい会長かいちょう村野むらの美雄よしおは1908ねん宮武みやたけ外骨がいこつ滑稽こっけい新聞しんぶん発禁はっきん事件じけん担当たんとう裁判官さいばんかんであったが、居住きょじゅう大阪おおさかきた若松わかまつまちであった。
  3. ^ 日本にっぽん主義しゅぎ」という言葉ことばは、私的してきなグループよう文書ぶんしょではあるが、外交がいこうかん作成さくせいしたものにすらあらわれる[16]。1936ねん作成さくせいの『日本にっぽん固有こゆう外交がいこう指導原理しどうげんり綱領こうりょう』がいちれいである[17]。この文書ぶんしょ革新かくしん外交がいこうかんグループの1人ひとりであるひとしみや武夫たけおによるもので、戸部とべ良一りょういちげんによれば「とても外交がいこうかんいたものとはおもわれない。くどいほどに「道義どうぎ」と「良心りょうしん」が強調きょうちょうされ、抽象ちゅうしょうてき観念論かんねんろん終始しゅうしし、うんざりするほど空虚くうきょ言葉ことば羅列られつされている」[18]。「日本にっぽん精神せいしん」という言葉ことば題名だいめいにつけたほんが1930年代ねんだい大量たいりょう発行はっこうされていたことは、現在げんざいでも容易ようい図書としょ検索けんさくして確認かくにんできる。たとえば、「日本にっぽん精神せいしん」という言葉ことばは、西田にしだ幾多郎きたろうの『日本にっぽん文化ぶんか問題もんだい』(岩波いわなみ新書しんしょ、1940ねん)pp.89-90にもられ、そのにも、国民こくみん精神せいしん総動員そうどういん運動うんどう(せいどう)中央ちゅうおう連盟れんめいせいどう委員いいんかい幹事かんじかい議論ぎろんでも使つかわれている[19]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 中澤なかざわ俊輔しゅんすけ治安ちあん維持いじほう なぜ政党せいとう政治せいじは「悪法あくほう」をんだか』中公新書ちゅうこうしんしょ、2012ねん、157ぺーじISBN 978-4-12-102171-7 
  2. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だい2はん』 日立ひたちソリューションズ・クリエイト
  3. ^ 官報かんぽう1936ねん12月23にち
  4. ^ 帝国ていこく弁護士べんごしかい会誌かいし正義まさよし』。
  5. ^ 官報かんぽう1936ねん12月12にち
  6. ^ 官報かんぽう1937ねん01がつ18にち
  7. ^ a b c d e 荻野おぎの富士夫ふじお思想しそう検事けんじ岩波いわなみ新書しんしょ、2000ねん、88ぺーじISBN 978-4-00-430689-4 
  8. ^ a b 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』p.92.
  9. ^ a b 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』p.89.
  10. ^ a b c 中澤なかざわ治安ちあん維持いじほう』p.158.
  11. ^ 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』p.90.
  12. ^ a b c d e 中澤なかざわ治安ちあん維持いじほう』p.159.
  13. ^ 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』p.90.
  14. ^ 中澤なかざわ治安ちあん維持いじほう』p.160.
  15. ^ a b 中澤なかざわ治安ちあん維持いじほう』pp.160-161.
  16. ^ 戸部とべ良一りょういち外務省がいむしょう革新かくしん 世界せかいしん秩序ちつじょ幻影げんえい中公新書ちゅうこうしんしょ、2010ねん、84-86ぺーじISBN 978-4-12-102059-8 
  17. ^ 戸部とべ良一りょういち革新かくしん』p.76.
  18. ^ 戸部とべ革新かくしん』p.77.
  19. ^ 井上いのうえ寿一ひさいち理想りそうだらけの戦時せんじ日本にっぽん』ちくま新書しんしょ、2013ねん、205-206ぺーじISBN 978-4-480-06711-1 
  20. ^ a b c 中澤なかざわ治安ちあん維持いじほう』p.161.
  21. ^ a b 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』p.96.
  22. ^ 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』pp.93, 147.
  23. ^ a b 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』p.91.
  24. ^ 中澤なかざわ治安ちあん維持いじほう』pp.191-192.
  25. ^ 中澤なかざわ治安ちあん維持いじほう』p.192.
  26. ^ 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』p.148.
  27. ^ 転向てんこうしゃ指導しどうねらう『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ11ねん5がつ28にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい5かん 昭和しょうわ10ねん-昭和しょうわ11ねん本編ほんぺんp237 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  28. ^ a b c 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』p.92.
  29. ^ 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』p.93.
  30. ^ 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』p.94.
  31. ^ 荻野おぎの思想しそう判事はんじ』pp.94-95.
  32. ^ 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』pp.91-92.
  33. ^ a b 荻野おぎの思想しそう検事けんじ』p.94.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]