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せいそく

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せいそく(せいそくり)は、「せい」(人間にんげんってまれた本性ほんしょう)がすなわち「天理てんり」であるとするせつそうあきら理学りがく命題めいだいひとつ。中国ちゅうごくきたそうほど伊川いがわ)によって提言ていげんされ、みなみそうしゅ継承けいしょうされた、朱子学しゅしがく重要じゅうようテーゼである。

しゅ熹は存在そんざいろんとして二元論にげんろん主張しゅちょうする。「」とは天地てんち万物ばんぶつ主宰しゅさいする法則ほうそくせいであり、「」とは万物ばんぶつ構成こうせいする要素ようそである。とは形而上けいじじょうのもの、形而下けいじかのものであって、まったくべつぶつであるが、たがいに単独たんどく存在そんざいすることができず、両者りょうしゃは「不離ふりざつ」の関係かんけいであるとする。また、運動うんどうせいをもち、理法りほうであり 運動うんどうって秩序ちつじょあたえるとする。

そしてこのような存在そんざいろんてきな「」は人間にんげん倫理りんり道徳どうとくにもつらぬかれている。「」は「せい」である。この場合ばあいせい」は孟子もうし性善説せいぜんせつもとづきぜんとされる。人間にんげん本来ほんらいせい)はぜんであるが、現実げんじつ存在そんざい)においてはぜんおこなったり、あくおこなったりする。そこで儒者じゅしゃは「きょけい」や静坐せいざおこなったり、「かくぶつ」や読書どくしょによって、その本来ほんらいせい)にもどり、「」を体得たいとくしなければならない。朱子学しゅしがくでは「聖人せいじんまなんでいたるべし」と学問がくもん究極きゅうきょくてき目標もくひょうは「」を体得たいとくし「聖人せいじん」となることとされた。

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