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成瀬なるせ正親まさちか

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成瀬なるせ正親まさちか
成瀬なるせ正親まさちかぞうはく林寺はやしじくら
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん 寛永かんえい16ねん3月11にち1639ねん4がつ14にち
死没しぼつ 元禄げんろく16ねん9がつ20日はつか1703ねん10月30にち
改名かいめい 小吉こよし正親まさちか
戒名かいみょう かしわさだいん殿どのぶしこう良忠よしただ居士こじ
墓所はかしょ

愛知あいちけん名古屋なごやちゅうさかえさん丁目ちょうめしろ林寺はやしじ

愛知あいちけん犬山いぬやまの臨渓いん
官位かんい したがえ信濃しなのまもる隼人はやとせい
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ光友みつとも綱誠つななり吉通よしみち
はん 尾張おわり犬山いぬやまはんあるじ
氏族しぞく 成瀬なるせ
父母ちちはは 成瀬なるせただしとら
兄弟きょうだい 正親まさちかてらちょくりゅう板倉いたくら重大じゅうだい正室せいしつ
志水しみずただしつぎしつ
つま 小出こいでよししげるむすめ
正幸まさゆきせき長治ながはる正室せいしつ
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成瀬なるせ 正親まさちか(なるせ まさちか)は、江戸えど時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうきにかけての尾張おわりはん家老がろう尾張おわり犬山いぬやまはん3だい当主とうしゅ官位かんいしたがえ隼人はやとせい

略歴りゃくれき

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2だい当主とうしゅ成瀬なるせただしとら長男ちょうなんとして誕生たんじょう幼名ようみょう小吉こよし

あかりれき元年がんねん1655ねん)に尾張おわりかえり、よくあかりれき2ねん1656ねん)に徳川とくがわ光友みつともから部屋住へやずみりょうとして5000せきあたえられた。万治まんじ2ねん1659ねん)、ちち隠居いんきょによりあといだ。このとき、尾張おわりはんよりちち隠居いんきょりょう固辞こじにより5000せき加増かぞうけて3まん5000せきりょうすることとなり、尾張おわりはんなかでも最高さいこう知行ちぎょうりょうするようになった。12月にしたがえ信濃しなのまもるにんじられた。寛文ひろふみ元年がんねん1661ねん)2がつ徳川とくがわ光友みつともにより、正親おうぎ竹腰たけこし正晴まさはる尾張おわりでは格別かくべつであるため、重要じゅうよう事項じこう以外いがい雑務ざつむめんじて藩主はんしゅ在府ざいふ書状しょじょうへのばん必要ひつようない、とされた。9月、隼人はやとせい転任てんにん[1]

成瀬なるせ正親まさちかはか(名古屋なごや平和へいわ公園こうえん)

元禄げんろく16ねん1703ねん)9がつ20日はつか、65さい死去しきょし、あと長男ちょうなん正幸まさゆきいだ。法号ほうごうかしわさだいん殿どのぶしこう良忠よしただ居士こじ墓所はかしょ愛知あいちけん名古屋なごやちゅうさかえさん丁目ちょうめしろ林寺はやしじ(のち平和へいわ公園こうえん改葬かいそう)。

評価ひょうか

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  • 花守はなもり夢物語ゆめものがたり」というしょにおいて、正親まさちかちちだいからの蓄財ちくざい浪費ろうひし、家計かけい維持いじできないとなると譜代ふだい家臣かしん75にんひまし、佞臣ねいしん重用じゅうようし、家中いえじゅう騒動そうどう近国きんごくまでこえ、3.5まんせきあたえるのは尾張おわりはん無駄むだだと酷評こくひょうしている[1]

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 小山こやま、2006ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 小山こやまほまれじょう徳川とくがわ御三家ごさんけづけ家老がろう研究けんきゅう』(清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2006ねんISBN 4-7924-0617-X

関連かんれん項目こうもく

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