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成瀬なるせただしじゅう

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成瀬なるせただしじゅう
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき幕末ばくまつ
生誕せいたん 文化ぶんか9ねん9月30にち1812ねん11月3にち
死没しぼつ 安政あんせい4ねん9月18にち1857ねん11月4にち
改名かいめい 小吉こよし幼名ようみょう)、せいじゅう
別名べつめい 為三郎ためさぶろうまんこれすけ
戒名かいみょう じゅんきょういん殿どの一貫いっかん以道だい居士こじ
墓所はかしょ 愛知あいちけん名古屋なごやちゅうさかえさん丁目ちょうめはく林寺はやしじ
平和へいわ公園こうえん墓地ぼち移動いどう
官位かんい したがえ隼人はやとせい
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 尾張おわりはん尾張おわり犬山いぬやまはん当主とうしゅ
氏族しぞく 成瀬なるせ
父母ちちはは ちち成瀬なるせただしことぶき
つま 正室せいしつ奥平おくだいらあきらだかむすめ
むすめ成瀬なるせただしこえ正室せいしつ)、養子ようしせいこえ
テンプレートを表示ひょうじ

成瀬なるせ ただしじゅう(なるせ まさずみ)は、尾張おわりはん家老がろう尾張おわり犬山いぬやまはんだい8だい当主とうしゅ

文化ぶんか9ねん(1812ねん)9がつ30にちだい7だい当主とうしゅ成瀬なるせただしことぶき長男ちょうなんとしてまれる。文政ぶんせい11ねん12月にしたがえしゅ殿しんがりあたま叙任じょにん[1]天保てんぽう9ねん1838ねん)10がつ27にちちち死去しきょにより家督かとくいだ。同年どうねん隼人はやとせい転任てんにん尾張おわり藩主はんしゅ斉温なりはる斉荘なりたか慶臧よしつぐ慶勝よしかつの4だいつかえた。

天保てんぽう7ねん(1836ねん)、実父じっぷ将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなりであった藩主はんしゅ斉温なりはる婚儀こんぎのために上洛じょうらくしていたせいじゅうが、名古屋なごやにいた先代せんだい尾張おわり藩主はんしゅ徳川とくがわ斉朝なりとも無視むしして犬山いぬやましろはいるという情報じょうほうった斉朝なりとも激怒げきどしている。結局けっきょく成瀬なるせひとしあさ伺候しこうした。また天保てんぽう10ねん(1839ねん)、斉温なりはる没後ぼつご斉荘なりたか家斉いえなりじゅういちなん斉温なりはるあに)をしん藩主はんしゅむかえるにさいし、幕府ばくふせいじゅう尾張おわりはん重鎮じゅうちんとの交渉こうしょうことはこび、隠居いんきょ斉朝なりともにはまった相談そうだんがなかった。

安政あんせい4ねん(1857ねん)9がつ18にち(または9がつ19にち)に死去しきょした。享年きょうねん46。2なん4じょがあったが男子だんし早世そうせいしたため、あと養子ようしむすめ婿むこせいこえ青山あおやま忠良ただよし三男さんなん)がいだ。

絵画かいが才能さいのうがあり、狩野かのめんえがき、はなくさとりたくみであった。

成瀬なるせただしじゅうはか名古屋なごや千種ちくさ平和へいわ公園こうえんしろ林寺はやしじ墓地ぼち

系譜けいふ[編集へんしゅう]

父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ

養子ようし

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 小山こやまほまれじょう徳川とくがわ御三家ごさんけづけ家老がろう研究けんきゅう』(清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2006ねんISBN 4-7924-0617-X