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持続じぞく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

持続じぞく(じぞく、ふつdurée)とは、一般いっぱんに、ながたもつづけること、ながつづいていることを意味いみする。また、ベルクソン哲学てつがく主要しゅよう概念がいねんひとつであり、間断かんだんなき意識いしきなが意味いみする。

純粋じゅんすい持続じぞくしん時間じかん

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たとえば、音楽おんがく旋律せんりつにゆだねた意識いしき内容ないようは、それをぎゃくきにしたり、こまれにしたりすることはできない。このように概念がいねん言葉ことばからはなれて内省ないせい専念せんねんすると、そこに意識いしき直接ちょくせつ与件よけんとして、ひとつのながかんじる。そのながれは、計量けいりょう不可能ふかのうせい可逆かぎゃくせい連続れんぞくせい異種いしゅ混交こんこうせい特徴とくちょうとしており、めようなき自発じはつ能動のうどうによるものである。これをベルクソンは「純粋じゅんすい持続じぞく」とんだ。

この純粋じゅんすい持続じぞくは、空間くうかんてき表現ひょうげんできるものではない。というのも、空間くうかんとは数学すうがくてき抽象ちゅうしょうであり、測定そくてい可能かのう可逆かぎゃくてき均質きんしつてき受動じゅどうてきなものとなって、それはもはやながれの連続れんぞくではなく、てん継起けいきとなってしまうからだ。したがって、古典こてん物理ぶつりがくの(線形せんけいてき時間じかんは、しん時間じかんではない。したがって、しん実在じつざい認識にんしきは、(もちろんカントのいう感性かんせいてき直観ちょっかん悟性ごせいによってではなく)ちょう知性ちせいてき直観ちょっかんによって可能かのうとなる。

持続じぞく自由じゆう

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ベルクソンによれば、この純粋じゅんすい持続じぞくこそが自由じゆう源泉げんせんである。通常つうじょう自由じゆうといえば、選択せんたく自由じゆう意味いみする。たとえば、ひとつのみちすすんでいると、そのさきふたつに枝分えだわかれしている。その分岐ぶんきてんにおいて、どちらかのみちすすむか自分じぶん意志いしもとづいて選択せんたくできる。そこに自由じゆうがあるとされる。しかし、ベルクソンにいわせれば、そのような分岐ぶんきおもかべること自体じたいが、空間くうかんされた時間じかんによる発想はっそうであり、生命せいめい自由じゆう持続じぞくそくしたものではない。生命せいめいにとっての未来みらいというのは、分岐ぶんきのようにあらかじめ存在そんざいするものではなく、「現在げんざい」において不断ふだんかつ連続れんぞくてき創造そうぞうされるものであるからだ。したがって、自由じゆうとはこの純粋じゅんすい持続じぞくへの帰一きいつであり、その発現はつげんとしての純粋じゅんすい自我じがによる行為こういである。

他方たほう物質ぶっしつかい一瞬いっしゅんまえ過去かこ惰性だせいてき反復はんぷくするだけであり、すなわち持続じぞく弛緩しかんきょくであるとされる。物質ぶっしつは「みずからを破壊はかいする」のにたいして、生命せいめいは「みずからを形成けいせいする」。つまり、生命せいめいには、「物質ぶっしつりていくさかのぼろうとする努力どりょく」をみることができる。宇宙うちゅう万象ばんしょうは、この持続じぞく種々しゅじゅ緊張きんちょうによる多様たよう創造そうぞうてき進化しんか展開てんかいなのである。そして、緊張きんちょうきょくにあるのが、エラン・ビタールなま躍動やくどう)である。

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • アンリ・ベルクソン(中村なかむら文郎ふみおやく)『時間じかん自由じゆう』(岩波いわなみ文庫ぶんこ、2001ねん