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捶丸 (すいがん、chuiwan)は、中国 ちゅうごく でかつて行 おこな われていたゴルフ に似 に たスポーツ。宋 そう 代 だい から金 きむ ・元 もと 代 だい にかけて流行 りゅうこう し、杖 つえ で球 たま を打 う ち、穴 あな に入 い れるというゴルフと類似 るいじ のルールを持 も つ。
笹島 ささじま 恒 ひさし 輔によると捶丸は弄 ろう 丸 まる (nug wan)という戦国 せんごく 時代 じだい (紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき - 紀元前 きげんぜん 221年 ねん )の遊戯 ゆうぎ に由来 ゆらい する。
また、江西 えにし 省 しょう 博物館 はくぶつかん の陳 ひね 之 の 川 かわ (Chen Zhichuan)によると、ルーツは唐 とう 代 だい (618年 ねん - 907年 ねん )に行 おこな われた「歩 ふ 打球 だきゅう 」で、宋 そう (960年 ねん - 1279年 ねん )から金 きむ (1115年 ねん - 1234年 ねん )、元 もと (1271年 ねん - 1368年 ねん )にかけて成熟 せいじゅく して広 ひろ まり、盛 さか んとなった。南 みなみ 唐 とう (937年 ねん - 975年 ねん )またはそれ以前 いぜん の壁画 へきが にすでに捶丸が描 えが かれている。また、宋 そう 代 だい の学者 がくしゃ ・魏 ぎ 泰 たい による『東 ひがし 軒 のき 筆 ひつ 録 ろく 』に、南 みなみ 唐 とう のある地方 ちほう 公務員 こうむいん が娘 むすめ に地面 じめん を掘 ほ らせ、そこに球 たま を打 う ち込 こ むことを教 おし えたという鮮明 せんめい な記述 きじゅつ がある。文字 もじ で残 のこ された捶丸の記録 きろく としては最古 さいこ の例 れい である。宋 そう 代 だい の陶枕 とうちん ( とうちん ) にも捶丸の絵 え が使用 しよう された例 れい がある。
元 もと 代 だい の1282年 ねん には捶丸の専門 せんもん 書 しょ 『丸 まる 経 けい 』が編纂 へんさん された。『丸 まる 経 けい 』には「宋 そう の徽宗 (第 だい 8代 だい 皇帝 こうてい 。在位 ざいい :(1100年 ねん - 1126年 ねん )と金 かね の章 あきら 宗 むね (1189年 ねん - 1208年 ねん )が捶丸を好 この んだ」という記述 きじゅつ があり、宋 そう 代 だい ・元 もと 代 だい の壁画 へきが ・宮廷 きゅうてい 画 が にも捶丸の描写 びょうしゃ がある。庶民 しょみん の間 あいだ ではこれよりも古 ふる くから行 おこな われていた捶丸が宮廷 きゅうてい に取 と り入 い れられたものである。
河南 かなん 省 しょう 平 ひら 頂山 いただきやま 市 し の大学 だいがく ・平 ひら 頂山 いただきやま 学院 がくいん の崔 ちぇ 楽 らく 泉 いずみ (Cui Lequan)特 とく 任 にん 教授 きょうじゅ によると、『丸 まる 経 けい 』には競技 きょうぎ のルールや形式 けいしき が詳述 しょうじゅつ されている。専用 せんよう の競技 きょうぎ 場 じょう に異 こと なる地形 ちけい 、さらには障害 しょうがい 物 ぶつ を作 つく り、ボールを乗 の せる台 だい や穴 あな 、穴 あな の位置 いち を示 しめ す旗竿 はたざお を置 お く 。杖 つえ で球 たま を打 う ち、穴 あな に入 い れた方 ほう が勝 か ち」などの記載 きさい は現代 げんだい のゴルフによく似 に ている。崔 ちぇ 楽 らく 泉 いずみ によると、捶丸とゴルフが誕生 たんじょう した時期 じき を考 かんが えると、中国 ちゅうごく の捶丸とゴルフの原型 げんけい となるスポーツが接点 せってん を持 も ち、互 たが いに影響 えいきょう を与 あた えていた可能 かのう 性 せい も否定 ひてい できない。『丸 まる 経 けい 』がゴルフの教科書 きょうかしょ としての役割 やくわり を果 は たしたという説 せつ もある。
元 もと 代 だい には貴族 きぞく の遊 あそ びとしてルールもほぼ確定 かくてい し、故 こ 宮 みや 博物 はくぶつ 院 いん 所蔵 しょぞう の明代 あきよ (1368年 ねん - 1644年 ねん )の絵画 かいが にも皇帝 こうてい や女性 じょせい が捶丸を楽 たの しんでいる描写 びょうしゃ があるが、明代 あきよ 以降 いこう は廃 すた れていき、『帝京 ていきょう 景物 けいぶつ 略 りゃく 』には子供 こども の遊戯 ゆうぎ として打 だ 抜(ta pa)として僅 わず かに名残 なごり をとどめるのみとなった。清朝 せいちょう (1636年 ねん - 1912年 ねん )が国民 こくみん のスポーツを規制 きせい してから捶丸も衰退 すいたい したとする資料 しりょう もある[ 8]
2022年 ねん 、平 ひら 頂山 いただきやま 学院 がくいん の陶磁 とうじ 工芸 こうげい 技術 ぎじゅつ 陳列 ちんれつ 館 かん で行 おこな われた整理 せいり 作業 さぎょう で、陶器 とうき または磁器 じき の球 たま が大量 たいりょう に発見 はっけん された。これらは捶丸で使用 しよう されたものと鑑定 かんてい され、この発見 はっけん は世界 せかい のゴルフの歴史 れきし を研究 けんきゅう する上 じょう でも重要 じゅうよう な意義 いぎ を持 も つ(崔 ちぇ 楽 らく 泉 いずみ による)。熱 ねつ ルミネッセンス法 ほう による年代 ねんだい 測定 そくてい の結果 けっか 、これらの球 たま の年代 ねんだい は唐 とう 代 だい から清 しん 代 だい に分布 ぶんぷ していたが、唐 とう ・宋 そう ・元 げん のものだけで1800点 てん 以上 いじょう あった。表面 ひょうめん に絵画 かいが や丸文 まるぶん 、花卉 かき 文 ぶん 、渦巻 うずまき 文 ぶん などの装飾 そうしょく を施 ほどこ したもの、異 こと なる二 に 種類 しゅるい 以上 いじょう の胎 ( たい ) (=土 ど 、陶土 とうど )を用 もち いる絞 しぼ 胎( こうたい ) や釉 の重 かさ ね掛 か けなど特殊 とくしゅ な技法 ぎほう を用 もち いたものもあった。無数 むすう の丸 まる いくぼみ を施 ほどこ したものは現代 げんだい のゴルフボールに酷似 こくじ している。
『原 はら 経 けい 』という捶丸のルールブックに準拠 じゅんきょ して述 の べる(この節 ふし 、特 とく に断 ことわ らない限 かぎ り出典 しゅってん :)
捶丸の競技 きょうぎ 場 じょう には凹凸 おうとつ を設 もう け、凸 とつ 所 しょ が球 たま を打 う つ所 ところ で、凹所には球 っきゅう を入 い れる穴 あな を掘 ほ った
凸 とつ 部 ぶ の高 たか さは1尺 しゃく 以内 いない で、凹凸 おうとつ 間 あいだ の距離 きょり は遠 とお い所 ところ で100歩 ほ から60歩 ほ で、100歩 ほ 以上 いじょう 離 はな れてはいけない
近 ちか い場合 ばあい は数 すう 丈 たけ だが、1丈 たけ より近 ちか くてはいけない
遠近 えんきん の選択 せんたく はプレイヤーの自由 じゆう とする
凹所の穴 あな の後方 こうほう には旗 はた を立 た て、穴 あな の周囲 しゅうい 5尺 しゃく には人 ひと を入 い れない
穴 あな は再 さい 使用 しよう せず一回 いっかい ごとに新 あら たに掘 ほ った
ボールに相当 そうとう するものは木 き の節 ふし を使用 しよう した
クラブに相当 そうとう するものは堅牢 けんろう な木 き を牛 うし 筋 すじ と牛 うし 膠 にかわ で固 かた め、竹 たけ を柄 え にして使用 しよう した
競技 きょうぎ は人数 にんずう を気 き にせずに行 おこな うことができた。2人 ふたり で行 おこな うのを単 たん 対 たい 、3 - 4人 にん を一 いち 朋 とも 、5 - 6人 にん を小 しょう 会 かい 、7 - 8人 にん を中 ちゅう 会 かい 、9 - 10人 にん を大会 たいかい と称 しょう した
誰 だれ かが穴 あな に球 たま を入 はい ればその人 ひと に点 てん が入 はい って、再 ふたた び初 はじ めから繰 く り返 かえ す。大会 たいかい では20点 てん 、中 ちゅう 会 かい では15点 てん 、小 しょう 会 かい では10点 てん に達 たっ した者 もの が出 で たら試合 しあい 終了 しゅうりょう