(Translated by https://www.hiragana.jp/)
斎藤寿一 - Wikipedia コンテンツにスキップ

斎藤さいとう寿一ひさいち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

斎藤さいとう 寿一ひさいち(さいとう じゅいち、1931ねん - 1992ねん12月31にち[1])は、日本にっぽん版画はんがいえ。その作風さくふうから「あおのサイトウ」とばれた[2]

だい4かいシェル美術びじゅつしょうてんにてシェルしょう受賞じゅしょうした[3]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

神奈川かながわけん川崎かわさきまれる[4]。デビュー当時とうじ春陽しゅんようかい油彩ゆさい出品しゅっぴんしたこともあるが、1958ねんから翌年よくねんにかけてフランス滞在たいざいし、浜口はまぐち陽三ようぞう紹介しょうかいパリにあったイギリスの銅版どうはん画家がかS.W.ヘイター英語えいごばんの「アトリエ17」(Atelier 17)[注釈ちゅうしゃく 1]き、技術ぎじゅつまなんだ[1][2]

帰国きこくの1960ねんはつ個展こてんひら[1]。1963ねん画風がふう確立かくりつしたとされる[2]

1971ねん和光大学わこうだいがく人文学部じんぶんがくぶ助教授じょきょうじゅとなり、1976ねん教授きょうじゅ昇進しょうしんした[1]。このあいだ彫刻ちょうこくいし木彫きぼり)もまなび、1972ねんには「立体りったい絵画かいがてん」に作品さくひん出展しゅってんしている[1]

生涯しょうがい、アトリエを川崎かわさきいていた[2]

1992ねん12月31にち呼吸こきゅう不全ふぜんのため死去しきょした[6][1]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 『「銅版どうはん技法ぎほう」~スライドによる』美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ、1966ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 「アトリエ17」がただしい名称めいしょう[5]三重みえ県立けんりつ美術館びじゅつかんサイトの「アトエ17」は誤記ごき

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f 斎藤さいとう寿一ひさいち”. 三重みえ県立けんりつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうひん検索けんさく. 2024ねん3がつ16にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d 斎藤さいとう寿一ひさいちてん -あおふうちゅう版画はんが-」 - アイエム(川崎かわさき市民しみんミュージアム展覧てんらんかい紹介しょうかい、2007ねん)2024ねん3がつ17にち閲覧えつらん
  3. ^ 斎藤さいとう寿一ひさいちばん画展がてん”. アトリエスズキ. 2024ねん3がつ16にち閲覧えつらん
  4. ^ 斎藤さいとう 寿一ひさいち作者さくしゃめいデータ&作品さくひん一覧いちらん | 所蔵しょぞう作品さくひん検索けんさくシステム | 茨城いばらきけん近代きんだい美術館びじゅつかん”. 茨城いばらきけん近代きんだい美術館びじゅつかん - 所蔵しょぞう作品さくひん検索けんさくシステム. 2024ねん3がつ19にち閲覧えつらん
  5. ^ アトリエ17 - 現代げんだい美術びじゅつ用語ようご辞典じてん 1.0(artscape)
  6. ^ 斎藤さいとう寿一ひさいち作家さっか”. 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん. 2024ねん3がつ19にち閲覧えつらん