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けいとくいん

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けいとくいん

山門さんもん
所在地しょざいち 山梨やまなしけん甲州こうしゅう大和やまとまち田野でんや389
位置いち 北緯ほくい3538ふん27.6びょう 東経とうけい13848ふん13.4びょう / 北緯ほくい35.641000 東経とうけい138.803722 / 35.641000; 138.803722座標ざひょう: 北緯ほくい3538ふん27.6びょう 東経とうけい13848ふん13.4びょう / 北緯ほくい35.641000 東経とうけい138.803722 / 35.641000; 138.803722
山号さんごう 天童てんどうさん
宗派しゅうは 曹洞宗そうとうしゅう
本尊ほんぞん 釈迦如来しゃかにょらい
創建そうけんねん 天正てんしょう10ねん1583ねん
開基かいき 徳川とくがわ家康いえやすひねはし倀因(開山かいさん
別称べっしょう 田野でんやてら
札所ふだしょとう 甲斐かいひゃくはち霊場れいじょう19ばん
文化財ぶんかざい 山門やまかどけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい
法人ほうじん番号ばんごう 6090005003926 ウィキデータを編集
景徳院の位置(山梨県内)
景徳院
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けいとくいん(けいとくいん)は、山梨やまなしけん甲州こうしゅうにある曹洞宗そうとうしゅう寺院じいん山号さんごう天童てんどうさん本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらい地名ちめいから田野でんやてらともばれる(『甲斐かいこくこころざし』による)。武田たけだ勝頼かつより父子ふしおよび家臣かしん慰霊いれいのため、徳川とくがわ家康いえやすいのちにより創建そうけんされた[1]

立地りっち

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けん東部とうぶ甲州こうしゅう南東なんとう位置いちする。日川にっかわ渓谷けいこく上流じょうりゅう左岸さがんにあたり、西にしには甲州こうしゅう街道かいどうとおる。日川にっかわ渓谷けいこくのさらに上流じょうりゅう木賊とくさには臨済宗りんざいしゅう寺院じいん天目山てんもくざん栖雲てらがある。

歴史れきし

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天正てんしょう10ねん1582ねん)3がつ甲斐かいこく国主こくしゅ武田たけだ勝頼かつより織田おだ信長のぶなが徳川とくがわ家康いえやす連合れんごうぐん侵攻しんこうにより、甲府こうふから移転いてんした本拠ほんきょであったしんじょう韮崎にらさき中田なかだまち中條ちゅうじょう)を放棄ほうきし、ぐんない領主りょうしゅ小山田おやまだしんしげるたよちのびるが、途中とちゅうしんじしげる離反りはんし、天目山てんもくざんにおいて滅亡めつぼうした。

同年どうねん6がつ本能寺ほんのうじへんにより発生はっせいした天正てんしょうみずのえうまらんて、甲斐かい三河みかわこく徳川とくがわ家康いえやすりょうする。天正てんしょうみずのえうまらんにおいて武田たけだ遺臣いしん一部いちぶ家康いえやす臣従しんじゅうし、同年どうねん7がつ勝頼かつせ家臣かしん殉死じゅんしもの菩提ぼだいとむらうため、田野でんやきょういちえん寺領じりょうとして寄進きしんし、けいとくいん創建そうけんした。

こうげんいん笛吹ふえふき)から武田たけだ家臣かしん小宮山こみやま内膳ないぜんおとうとである7せいひねはし倀因[2]まねき、天正てんしょう16ねん1589ねん)には伽藍がらん完成かんせいした(『くにこころざし』、「けいとくいん文書ぶんしょ」による)。家康いえやすはこのほかにも武田たけだ遺臣いしん保護ほごしているが、無主むしゅとなり緊張きんちょう状態じょうたいにあった甲斐かいこくにおける領民りょうみん懐柔かいじゅう政策せいさくでもあったとも指摘してきされる。

江戸えど時代じだいには住職じゅうしょく不在ふざい状態じょうたいとなり衰退すいたいし、寛永かんえい年間ねんかん1624ねん - 1644ねん)にこうげんいんから住職じゅうしょくまねかれ再興さいこうされているが、きゅう武田たけだ家臣かしん幕臣ばくしん要求ようきゅうにより、下総しもうさこくそうやすしてら末寺まつじとされたという。

天保てんぽう年間ねんかん1830ねん - 1844ねん)には火災かさいしょうじて主要しゅよう伽藍がらん焼失しょうしつし、ひろし年間ねんかん1844ねん - 1848ねん)や明治めいじ時代じだいにも火災かさいしょうじている。

文化財ぶんかざい

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かえされた火災かさいから類焼るいしょうのがれた山門さんもんけん指定してい文化財ぶんかざい建造けんぞうぶつ)、武田たけだ勝頼かつよりはかおよび境内けいだいけん指定してい文化財ぶんかざい史跡しせき)となっている[3]。また、境内けいだいさくら甲州こうしゅう天然記念物てんねんきねんぶつ指定していされている。山野さんやおお甲州こうしゅうでは「武田たけだ終焉しゅうえん」であることをかした観光かんこうぎょう重要じゅうよう産業さんぎょうであり、けいとくいんはその中心ちゅうしんてき観光かんこうとしても位置付いちづけられている。

勝頼かつせはかは、現存げんそんするたから篋印とう銘文めいぶんによれば、ひゃく周忌しゅうきにあたる江戸えど時代じだい安永やすなが4ねん1775ねん)に11せい住職じゅうしょくにより造立ぞうりゅうされた供養くようとうで、勝頼かつせ中心ちゅうしん信勝のぶかつ北条ほうじょう夫人ふじんのものがりょうわきはいされている。

けいせき発見はっけん

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2006ねんけん指定してい史跡しせき武田たけだ勝頼かつよりはか保存ほぞん修復しゅうふくちゅうに、勝頼かつせ戒名かいみょうなどをしるした大量たいりょうけいせき発見はっけんされ[1]江戸えど時代じだい中期ちゅうき供養くようおこなわれたことが判明はんめいした。地下ちかには埋納まいのう施設しせつ存在そんざいする可能かのうせい指摘してきされ、本格ほんかくてき発掘はっくつ調査ちょうさ予定よていされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 武田たけだ勝頼かつよりはか調査ちょうさ報告ほうこくについて”. 甲州こうしゅう (2017ねん5がつ16にち). 2023ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  2. ^ ひねはし倀因』 - コトバンク
  3. ^ 大和やまと地区ちく くにけん指定してい文化財ぶんかざい”. 甲州こうしゅう (2020ねん5がつ27にち). 2023ねん4がつ18にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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