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きゅう代目だいめ市川いちかわだん十郎じゅうろう鎌倉権五郎かまくらのごんごろう景政かげまさ
代目だいめだん十郎じゅうろう鎌倉権五郎かまくらのごんごろう
暫の衣装いしょう時代じだいくだるにつれて重厚じゅうこうなものになる。代目だいめだんじゅうろう活躍かつやくした元禄げんろく年間ねんかんにはまだ簡略かんりゃくなものだったことがうかがえる。
初代しょだい尾上おがみ松助まつすけのウケ。寛政かんせい6ねん(1794ねん)11月、河原崎かわらざきの『まつさだ婦女ふじょくすのき』(まつはみさおおんなくすのき)より。写楽しゃらく
よん代目だいめ瀬川せかわ菊之丞きくのじょうともえ御前ごぜん
おんな暫』、寛政かんせい12ねん (1800)。
きゅう代目だいめだんじゅうろうの暫(鎌倉権五郎かまくらのごんごろうぞう浅草寺せんそうじ境内けいだい

』(しばらく)は、歌舞伎かぶき演目えんもく歌舞伎かぶきじゅうはちばんひとつ。時代物じだいもの荒事あらごと代表だいひょうてき演目えんもくである。

あらすじ

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皇位こういそくこうと目論もくろ悪党あくとう清原武衡きよはらのたけひらが、みずからに反対はんたいする加茂かも次郎じろうつな多人数たにんずう善良ぜんりょうなる男女だんじょらえる。清原武衡きよはらのたけひら成田なりた五郎ごろう家来けらいめいじて、加茂かも次郎じろうつならをくびにしようとするとき、鎌倉権五郎かまくらのごんごろう景政かげまさが「しばらく~」の一声いっせいで、さっそうとあらわれてたすける。

解説かいせつ

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元禄げんろく10ねん(1697ねん)1がつ江戸えど中村なかむらで『参会さんかい名護屋なごや』のなかいち場面ばめんとして初代しょだい市川いちかわだん十郎じゅうろう初演しょえん中村なかむら明石あかし清三郎せいさぶろう初代しょだいだんじゅうろうによる合作がっさくである。この大詰おおづめがこののち『暫』としてられるようになる演目えんもく原型げんけいとなったといわれる。また一説いっせつには、元禄げんろく5ねん (1692ねん) 江戸えど森田もりた上演じょうえんされた『大福帳だいふくちょう朝比奈あさひな百物語ひゃくものがたり』のいち場面ばめん原型げんけいとなったともいわれる。以後いご江戸えどでは毎年まいとし11がつ顔見世かおみせ興行こうぎょう上演じょうえんされた。代目だいめ市川いちかわ海老蔵えびぞうにより歌舞伎かぶきじゅうはちばんのひとつにかぞえられ、以後いご通称つうしょうだった『暫』が外題げだいとしてあつかわれることとなった。またかつては上演じょうえんのたびに登場とうじょう人物じんぶつわっていたが、明治めいじ28ねん(1895ねん)、福地桜痴ふくちおうちによって改訂かいていされたものを基本きほんとし、きゅう代目だいめ市川いちかわだん十郎じゅうろう上演じょうえんしてから一幕ひとまくぶつとして独立どくりつ、そのとき脚本きゃくほん固定こていされて現在げんざいいたる。

『暫』は筋書すじがきが簡単かんたん明瞭めいりょうなだけにつね人気にんき演目えんもく上位じょういにあげられる演目えんもくとなっている。歌舞伎かぶき作者さくしゃ劇評げきひょうおか鬼太郎おにたろうは「ナンセンスな芝居しばい理屈りくつをいわずにだまってごらんなさい」とひょうしていた。また本来ほんらい毎年まいとし顔見世かおみせ興行こうぎょう演目えんもくひとつにされる「吉例きちれい」というかたちの演目えんもくだったため、筋書すじがきや内容ないようよりもむしろその体裁ていさいほう重要じゅうよう演目えんもくだった。

なお荒事あらごと代表だいひょうさくとして『暫』しばしば海外かいがいでも上演じょうえんされるが、えいだい文字通もじどおり『Just A Moment』(ちょっとった)となっている。

登場とうじょう人物じんぶつ

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江戸えど時代じだいには登場とうじょう人物じんぶつ一定いっていせず、興行こうぎょうごとにことなったもちいられてきた。ただしそれではいかにもまぎらわしいので、歌舞伎かぶき関係かんけいしゃ歌舞伎かぶきつうじた江戸えどたちは、それぞれのやくどころを、主役しゅやく善玉ぜんだまが「暫」、たいする悪玉あくだまが「ウケ」、その家来けらいが「はらし」といった具合ぐあいに、通称つうしょうんでいた。役名やくめい現在げんざいのものに固定こていするのは明治めいじ28ねんきゅう代目だいめだんじゅうろうによって『暫』が独立どくりつした一幕ひとまくぶつとして上演じょうえんされて以後いごのことである。

  • 鎌倉権五郎かまくらのごんごろう景政かげまさ(かまくらごんごろうかげまさ) 
「暫」: 賀茂かも次郎じろうつな家来けらい史実しじつ鎌倉かまくら景正かげまさ相当そうとう
  • 清原武衡きよはらのたけひら(きよはらのたけひら)
「ウケ」: 史実しじつ清原武衡きよはらのたけひら相当そうとう
  • 賀茂かも次郎じろうつな(かもじろうよしつな) 
太刀たち」: 史実しじつみなもとよしつな相当そうとう
  • かつらまえ(かつらのまえ)
賀茂かも次郎じろうつな許嫁いいなずけ
  • 宝木たからぎ蔵人くろうど貞利さだとし(ほうぎくろうどさだとし)
賀茂かも家老がろう
  • 成田なりた五郎ごろう(なりたごろう)
はらし」: 清原武衡きよはらのたけひら家来けらい
  • 鹿島かしま入道にゅうどうふるえとき(かしまにゅうどうしんさい)
なまず」:
  • あきら(てるは)
おんななまず」:

主人公しゅじんこうの「暫」は悪霊あくりょうはら霊力れいりょく前髪まえがみ姿すがた少年しょうねんである。その霊力れいりょくを、代々だいだいだん十郎じゅうろう相伝そうでんの「にらみ」で表現ひょうげんしてきた。かつては、よけのためと楽屋裏がくやうらにまでしかけた贔屓ひいきに暫の隈取くまどりのままにらむといったことまであったという。よん代目だいめ岩井いわい半四郎はんしろう女形おんながたでありながらかおすじくまった市川いちかわりゅう荒事あらごとで「暫」をつとめたが、山場やまばむかえたところでおんな変身へんしんしてむというめずらしい演出えんしゅつせた。「ウケ」をつとめる役者やくしゃは、金冠きんかんぎん束帯そくたい王子おうじかずら公家くげあらばれる魁偉かいいあお隈取くまどりをとる。貫禄かんろく品位ひんい要求ようきゅうされるやくどころで、江戸えど時代じだい初代しょだい中島なかじまさんはじめみぎ衛門えもんが、明治めいじ以後いご代目だいめ中村なかむら歌右衛門うたえもん戦後せんご代目だいめ尾上おがみ松緑しょうろくじゅうさん代目だいめ片岡かたおか仁左衛門にざえもんなどがあたやくとした。

おんな

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ぐみによっては暫を立女形たておやまえんじる『おんな』(おんなしばらく)という諧謔かいぎゃくばんになることがあった。ただし暫が鎌倉権五郎かまくらのごんごろうにようやくいたのが明治めいじになってからのことだったのにたいし、おんな暫のほうふるくからともえ御前ごぜん相場そうばまっていた。だい太刀たちをさげて花道かどう早足はやあしで「しばらくぅ〜」と登場とうじょうしてようになるようなれた女性じょせいが、日本にっぽんうえではこの「ともえいたがく」ぐらいしかいなかったためである。 なお1987ねん1がつ歌舞伎座かぶきざ江戸えど歌舞伎かぶきさんひゃくろくじゅうねん ざるわかさい初春しょしゅんだい歌舞伎かぶきひるりにいて、昭和しょうわ代表だいひょうする立女形たておやま一人ひとりなな代目だいめ尾上おがみ梅幸ばいこうが、みなもと頼朝よりとも勲功くんこうあつい「和田わだ左衛門さえもん(じょう)いもうと舞鶴まいづる」を主役しゅやくとするめずらしいバージョンをえんじている[1]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 歌舞伎座かぶきざ宣伝せんでん へん|(昭和しょうわ62)1987ねん1がつ2にち 松竹しょうちく発行はっこう江戸えど歌舞伎かぶきさんひゃくろくじゅうねん ざるわかさい初春しょしゅんだい歌舞伎かぶき 筋書すじがき』P.38-42より

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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