李元りげんめい

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元名もとな(り げんめい、生年せいねんしょう - 689ねん)は、中国ちゅうごくとう高祖こうそふかしじゅうはちなんははしょう楊嬪。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

元名もとなが10さいのとき、高祖こうそ大安だいあんみや幽閉ゆうへいされていて、ふとしむね朝夕あさゆうなおみやつかわして起居ききょわせ、食事しょくじおくっていた。元名もとなでんが「なおみやかんひん秩禄がたかく、拝礼はいれいされるべきです」と元名もとなった。元名もとなは「これはわが次兄じけいふとしむね)のいえの婢ではないか。どうして拝礼はいれいすることがあるか」とった。ふとしむねはこれをいて元気げんきがよいのによろこび、「しんにわがおとうとなり」とった。

さだかん5ねん631ねん)、譙王にふうぜられた。さだかん11ねん637ねん)、舒王にあらためふうされ、じつふう800けた。寿ことぶきしゅう刺史ししにんぜられた。のちになめらしゅうもとしゅうていしゅう刺史しし歴任れきにんした。さだかん23ねん649ねん)、じつふうせんまで加増かぞうされ、いししゅう刺史ししてんじた。

元名もとな性格せいかく高潔こうけつほこたかく、財産ざいさん管理かんりはおろそかで、家人かじん生業せいぎょううことはめったになかった。あきらおう亶は、しゅう刺史ししとして治績ちせきがあり、こうはじめ元名もとな教育きょういくすぐれているのを賞賛しょうさんして、褒美ほうびあたえた。また元名もとな大州おおず統治とうちまかせようとしたが、元名もとな固辞こじした。いししゅう統治とうちすること20ねん幾度いくど山林さんりんあそび、俗世ぞくせはなれた境地きょうちにあった。たれ年間ねんかんていしゅう刺史ししてんじた。諸王しょおうくん戚でかんにあるもの百姓ひゃくしょう財産ざいさんおかせだつしているところを、元名もとながこぞって免職めんしょくにして、弊風へいふうあらためた。なめらしゅう刺史ししてんじたが、元名もとなのやりかたていしゅうのときとおなじだった。まもなくつかさそらくわえられた。

永昌えいしょう元年がんねん(689ねん)、亶がおかしん勣におとしいれられて獄死ごくしすると、元名もとなとぎしゅうながされたのち、まもなくころされた。かみりゅう初年しょねんつかさ追贈ついぞうされて、官爵かんしゃくふくされ、諸侯しょこうれい改葬かいそうされた。ときに末子まっしの鄅国こうあきらがすでにくなっていたので、亶のこうぎ、ひらきもと年間ねんかんひだりたけしまもる将軍しょうぐんとなった。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]