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李賀 - Wikipedia コンテンツにスキップ

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(り が、791ねん貞元さだもと7ねん) - 817ねん元和がんわ12ねん))は、中国ちゅうごくとうだい中期ちゅうき詩人しじん長吉ちょうきち官職かんしょくめいからたてまつれい出身しゅっしんからあきらたにともばれる。河南かなんぶくあきらけんあきらたにげん河南かなんしょう洛陽らくようむべけん三郷みさと[1])のひと。その伝統でんとうにとらわれず、はなはだ幻想げんそうてきで、鬼才きさいひょうされた。

・『ばんわらいどう竹荘たけしょうでん』より

略歴りゃくれき

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すすむ粛の長男ちょうなんとしてまれる。そのとう高祖こうそふかし叔父おじていたかしおうあきらであるという。その長男ちょうなんの淮安やすしおう寿ひさし神通じんずう)、さらにそのじゅういちなんくれこくおおやけえきしゅうだいとくたかしいっから3だいあとの子孫しそんすすむ粛であるという。はその出自しゅつじおおいにほこり、出身しゅっしんから帝室ていしつおなじく隴西ぐん成紀しげのりけん現在げんざい甘粛かんせいしょう天水てんすいはたやすしけん)としょうしていたものの、まれたころには中産ちゅうさん階級かいきゅう没落ぼつらくしていた。ちちすすむ粛はまたもりはじめ親族しんぞくで、陝県県令けんれいなど地方ちほうかんをもっぱらとする中堅ちゅうけん官僚かんりょうだった。陝県は洛陽らくよう長安ながやすりょうむす途上とじょう位置いちする要地ようちで、帝室ていしつものをそのれいてるのがもっぱらであった。ははてい王族おうぞくとついだあねおとうとなお?)がいたことがわかっている。

早熟そうじゅく文学ぶんがくしゃで、14さいにして数々かずかずらくあらわして名声めいせいていた。また17さいころ、自作じさくたずさえて当時とうじ文壇ぶんだん指導しどうしゃてき存在そんざいであったかんいよいよたずね、激賞げきしょうとその庇護ひごけた。810ねん進士しんし目指めざして長安ながやす上京じょうきょう科挙かきょおうじるが、おもいもよらず受験じゅけんこばまれる。ちちいみないちである「すすむ(シン)」と進士しんしの「すすむ(シン)」が同音どうおんであることから、いみなけて進士しんしになるべきではない、というのがその理由りゆうであった。もちろんこじつけにすぎず、ただちにかんいよいよが『いみなべん』をあらわして反論はんろんおこなうがとおらなかった。当時とうじ、およそ知識ちしきじん階級かいきゅう進士しんしとなって科挙かきょとおり、官僚かんりょう政治せいじとなることを唯一ゆいいつ目的もくてきとした。そのみちざされたは、失意しついのうちにひとたび長安ながやすはなれてあきらたにもどるが、翌年よくねんたてまつれいろう官職かんしょくふたた上京じょうきょうする。しかし科挙かきょずしてあたえられたこの官職かんしょくしなかいしたがえきゅうひんじょう祭礼さいれいさい席次せきじ管轄かんかつするはししょくにすぎず、自負じふしんつよには到底とうていえられるはずもなく、813ねんはる、「たてまつれい かんいやしくふくなんえきらん」の詩句しくのこし、しょくして帰郷ききょうするにいたる。ちなみにこのたてまつれいろうという官職かんしょく帝室ていしつ血縁けつえんしゃてるのが通例つうれいであった。その翌年よくねんべつしょくもとめ、友人ゆうじんちょうとおるたよって潞州おもむくもかなわず、あきらたにもどった翌年よくねんの817ねん、にわかにはっしたやまいにより、はは看取みとられながらみじか生涯しょうがいじた。享年きょうねん27。

小伝しょうでん』をあらわしたばんとう詩人しじんしょうかくれによれば、風貌ふうぼうせてぼそく、眉毛まゆげ左右さゆうがつながり、つめ異様いようながかったという。またおよそ円満えんまんとは程遠ほどとお性格せいかくで、しばしば他人たにんから攻撃こうげき排撃はいげきけた。科挙かきょはばまれたのもその性格せいかく一因いちいんであろう。文壇ぶんだん大家たいかで、官僚かんりょうとしても宰相さいしょうとなったもと確執かくしつがあったゆえ、との逸話いつわもあるが、年代ねんだいてきあやしい。ぼっしたさいうら従兄弟いとこ遺稿いこう便所べんじょ投棄とうきされたため、現存げんそんさくすくないとの逸話いつわもまたある。

特徴とくちょう

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詩人しじんとしてはあまりにみじか生涯しょうがいであり、わずか240しゅ現存げんそんするのみながら、不朽ふきゅうかがやきをって現代げんだいつたわる理由りゆうは、だれとも類似るいじ見出みだせない独特どくとくふうゆえである。およそ「写実しゃじつをもってしとする」中国ちゅうごく文学ぶんがく世界せかいにあって、作品さくひんはそのまったくぎゃく幻想げんそう志向しこうする。ばんとう詩人しじんもりまきは「創作そうさくにあってみならされた道筋みちすじをことごとく無視むしした」とひょうした。以下いか著名ちょめいさく

しょう小歌こうた しょうしょううた
原文げんぶん くだぶん つうしゃく
かそけあららぎ かそけらん ほのかにかおらん
如啼 けるごと なみだかべた彼女かのじょのよう
ものゆい同心どうしん ものとして同心どうしんむす あいあかしとしてむすぶべきなにたず
けむりはな不堪ふかん けむりはなは翦るにこたえず 夕闇ゆうやみかすはなは、おくりたくてもることができない
くさ如茵 くさしとねごと くさはしとね
まつ如蓋 まつぶたごと まつほろ
ふうため ふう ふうはもすそのような衣擦きぬずれのおと
みずため みずは珮と みずたまかざりのおとひびかせる
あぶらかべしゃ あぶらかべくるま あぶらかべしゃった彼女かのじょ
ひさしょうまち ひさしくあい いつまでもいつまでもっているが
ひやみどりしょく ややかなるみどりしょく みどりえる鬼火おにび
ろう光彩こうさい 光彩こうさいろう いつかえゆき
西陵せいりょう 西陵せいりょうした 西陵せいりょうきょうのたもと
風雨ふうう 風雨ふうう 暗闇くらやみなか風雨ふううれる

うたわれるしょうしょう南朝なんちょうひとし有名ゆうめいうたであった。ここに登場とうじょうするしょうしょうは、んでもなおおもじんつづけるあわれな亡霊ぼうれいとなってえがされている。自体じたいはあくまでうつくしく幻想げんそうてきだが、昏くおもい。この幻想げんそう怪奇かいき耽美たんびこそがが昏い情熱じょうねつかたむけたテーマであった。なお、だいを『しょうしょうはか』とするテキストもある。

にはしばしばおに日本にっぽんにおけるおにではなく、死者ししゃたましい、すなわち亡霊ぼうれいをいう)やかいもの妖怪ようかいちょうつね現象げんしょうえがかれる。それらは以外いがいにもまったくられないわけではない。たとえばとうふかしあきらは『山海さんかいけいじゅうさんしゅ』にて古代こだい神話しんわ登場とうじょうする妖怪ようかいのことをんでいるが、その本意ほんい百鬼夜行ひゃっきやこうのごとき人間にんげん社会しゃかい風刺ふうし批判ひはんにあるがごとく、一種いっしゅたとえであったり、にインパクトをあたえるテクニックにすぎない。たいする場合ばあい、その亡霊ぼうれい妖怪ようかいるいちゅう必然ひつぜんって頻々ひんぴん登場とうじょうしたり、往々おうおうにして怪異かいいきわまる現象げんしょうそのものがのテーマとすらなる。前途ぜんと洋洋ようようたるたいし、いがかりというまったき悪意あくいってその栄達えいたつはばんだ人々ひとびと魑魅魍魎ちみもうりょうそのものであり、そのおこないは理解りかいしがたき怪異かいいである。にとって亡霊ぼうれい怪異かいいは、現実げんじつ大差たいさないリアルな存在そんざいであったのだ。いやむしろ、なか幻想げんそう世界せかいきたにとって、現実げんじつよりもしたしいものであったのかもしれない。

またそのをよりくらくしているのは、かえされる絶望ぜつぼう描写びょうしゃである。その詩句しくよりれいをとれば、「長安ながやす男児だんじじゅうにしてこころすでちたり」(『ひねしょうおくる』)。官僚かんりょうへのみち理不尽りふじんざされた意識いしきは、ふか絶望ぜつぼうおおわれる。もとより漢詩かんし悲哀ひあいうたうことをこばまないが、のそれは悲哀ひあいとおして絶望ぜつぼういきたっし、こののすべてが悪意あくいちているという、ペシミズム極地きょくちいたる。周囲しゅうい魑魅魍魎ちみもうりょうのごときやからかこまれた絶望ぜつぼう世界せかいすには、ぬしかない。かえし「」がうたわれるのは必然ひつぜんであった。

また、ひとを「おにじん」とぶ。これはそうせんのぞみしろが『南部なんぶ新書しんしょ』に、「しろ天才てんさいぜっし、しろきょえき人才じんさいぜっし、鬼才きさいぜっす。」とひょうしていることからもはっきりしている。また、そういむはねは『滄浪詩話しわ』で、「太白たいはくせんざい長吉ちょうきち鬼才きさい。」とあることから、「せんざいぜっ」ともひょうされていたかもしれない[2]

このようにはなはだ悲観ひかんてき内容ないようであり、あいだ地獄じごくのごときそこなしの絶望ぜつぼうかんじさせながら、しかし同時どうじ絢爛けんらん豪華ごうかである。それは独特どくとく色彩しきさい感覚かんかくにある。おなじく、「瑠璃るりかね 琥珀こはくしょうふねしゅしたたって真珠しんじゅべに」(『はたすすむしゅ』)。漢詩かんし意外いがいにも色彩しきさいあふれている。韻文いんぶん表現ひょうげんしようとするのだから当然とうぜんのことなのだが、場合ばあいとく濃厚のうこう色彩しきさい描写びょうしゃ執心しゅうしんした。ときとして、あざやかさをとおしてかえってくらかんじるほど、そのちゅうあふれる色彩しきさい人工じんこうてきなまでにく、ゆえに健康けんこううつくしいのである。

技巧ぎこうめんでもられない特色とくしょくいくつかある。たとえば詩句しく断絶だんぜつさせること~ひとつの部分ぶぶん部分ぶぶん、あるいはひとひとつの意味いみてき連続れんぞくせず、まるでおもいついたフレーズをつらねたようにいち構成こうせいさせる。あるいは独特どくとく比喩ひゆ使用しようすること~かつてもちいられたことがなく、かつ一般いっぱんてき連想れんそうしがたい比喩ひゆ多用たようする。また新語しんご造語ぞうご多用たようすることなどである。これらの技巧ぎこうたしかに独特どくとく世界せかい構築こうちくしながら、鑑賞かんしょうしゃ理解りかいはば要因よういんともなっている。古来こらいちゅうしではめない」とひょうされる所以ゆえんである。

後世こうせいへの影響えいきょう

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は、生前せいぜんからすでにたか評価ひょうかていた。まず怪異かいいなるものへのあこがれをふかいていたかんいよいよが、理解りかいしゃであり、力強ちからづよ庇護ひごしゃであった。ばんとうでは、同族どうぞくとされる唯美ゆいびしょうかくれと、それに対照たいしょうてき革命かくめいてき社会しゃかいかわきゅう傾倒けいとうした。時代じだいて、みなみそうすえもとはつ民族みんぞく主義しゅぎしゃたちもあいしたが、とりわけしゃ翺のにはその影響えいきょう顕著けんちょである。
きよしだいになると、その名声めいせいたかまり、批評ひひょう 沈徳せんをして「天地てんちあいだに、このたね文筆ぶんぴつなかるべからず」とわしめる。近代きんだいはいり、清末きよすえ革命かくめい たん嗣同中国ちゅうごく近代きんだい文学ぶんがくである魯迅ろじん、さらに毛沢東もうたくとうおお詩作しさくした)が愛好あいこうしゃであったという。

近代きんだい日本にっぽん作家さっかでは、愛読あいどくしゃたちにいずみ鏡花きょうか芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ日夏ひなつ耿之介こうのすけほり辰雄たつお三島みしま由紀夫ゆきおひとしがいる。
昭和しょうわ後期こうき平成へいせい作家さっかでは、歌人かじん塚本つかもと邦雄くにお[3]車谷くるまだに長吉ちょうきち長吉ちょうきちならって筆名ひつめいをつけ、くさもりしんいち伝記でんき下記かき)をあらわした。

訳書やくしょ一覧いちらん

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研究けんきゅう論考ろんこう

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  • 原田はらだ憲雄のりお論考ろんこう朋友ほうゆう書店しょてん朋友ほうゆう学術がくじゅつ叢書そうしょ〉、1980
  • くわだてあきら そのひと文学ぶんがく山田やまだ侑平わけにちちゅう出版しゅっぱん中国ちゅうごく古典こてん入門にゅうもん叢書そうしょ」、1994 
  • くさもりしんいち たれ翅のきゃく芸術げいじゅつ新聞しんぶんしゃ、2013
  • 小田おだ健太けんた詩論しろん早稲田大学わせだだいがく出版しゅっぱん〈エウプラクシス叢書そうしょ〉、2023

著名ちょめい作品さくひん

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あきらい あき
原文げんぶん くだぶん つうしゃく
きりふうおどろきしん壯士そうし きりふう しんおどろきろかせ 壮士そうしくるしむ きりえだらすかぜおとが、丈夫じょうぶであるわたしおどろかせる
おとろえとうからまぬき啼寒もと おとろえとう からまぬき かんもと えかけた灯火ともしびした、キリギリスがるようなこえ
だれあおいちへんしょ だれあおいちへんしょ だれか、わたしあらわしたこのしょんでくれるのだろうか
はなちゅうこなそら はなちゅうをして こなとしてむなしく蠹ましめざる 紙魚しみによってむなしく粉々こなごなにされることなしに
おもえ今夜こんやちょうおうじき おもいはかる 今夜こんや ちょうおうじきなるべし それがになり、今夜こんやわたしちょう真直まっすぐになるような苦痛くつうかんじる
あめひやたましいちょうしょきゃく あめややかにして こうたましい しょきゃくとむら つめたいあめがそぼなかかぐわしき乙女おとめ幽霊ゆうれいわたしとむらっておとずれる
あきふんおに唱鮑 あきふん おには唱とうあわび わたしに)あき墓場はかばに、亡霊ぼうれいあわびあきらんだ挽歌ばんかとなえる
恨血せんねん土中どちゅうあお 恨血せんねん 土中どちゅうあお うらみをんでんだものは、エメラルドとして永遠えいえんのこるのだ

白玉楼はくぎょくろうちゅうひととなる

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かんする故事こじ成語せいご有名ゆうめいなのが、「白玉楼はくぎょくろうちゅうひととなる」である。これは臨終りんじゅうさい、そのもと天帝てんてい使者ししゃあらわれ、天帝てんてい白玉楼はくぎょくろうなる宮殿きゅうでん完成かんせいさせたので、そのかせるべくしたとげる。このことから、文人もんと墨客ぼっかく死後しごくという楼閣ろうかくを「白玉楼はくぎょくろう」といわれる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ あきらたにてき 河南かなん日報にっぽう
  2. ^ 横山よこやま伊勢雄いせおそうだい文人ぶんじん詩論しろんそうぶんしゃ、2009ねん6がつ27にち、626ぺーじ 
  3. ^ 詩人しじんによる現代げんだいやくに『詩集ししゅう 中国ちゅうごく詩集ししゅう カラーばん比留間ひるま一成いっせいへんやく角川書店かどかわしょてん、1972ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 横山よこやま伊勢雄いせおそうだい文人ぶんじん詩論しろんそうぶんしゃ、2009ねん6がつ27にち 
  • ちん舜臣しゅんしんほうつぼえん新版しんぱん・ちくま文庫ぶんこ、2018ねん11月