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松平 定頼(まつだいら さだより)は、江戸時代前期の大名。伊予国松山藩の第2代藩主。定勝系久松松平宗家3代。官位は従四位下・隠岐守。
初代藩主・松平定行の長男として誕生した。母は島津忠恒の養女(島津朝久の娘)・長寿院殿。万治元年(1658年)2月28日(2月27日とも)、父の隠居により家督および長崎探題職を継承する。翌万治2年(1659年)、従五位下から四品に昇叙し、寛文元年(1661年)に河内守から隠岐守に転任する。
翌寛文2年(1662年)正月22日、江戸松山藩邸三田中屋敷にて落馬、そのまま危篤に陥り死去した。享年56。松山入りはわずか3回であった。院殿号は乾光院殿前四品最巌阿尊道英大居士。遺骸は江戸三田済海寺で荼毘に付され、遺骨が松山古町大林寺、分骨が高野山に葬られた。
- 正室:養仙院 - 京極高広の娘
- 生母諸説あり
- 生母不明の子女
- 四女(早世)[3]
- 五女(早世)[3]
- 養子
- ^ 寛政譜などには「母は高広女(養仙院)」と記載、松山叢書には「本藩譜云御母側室某氏」と記載されている。
- ^ 寛政譜などには「母は高広女(養仙院)」と記載、松山叢書には「御産母某氏」と記載されている。
- ^ a b 秋山久敬編纂「松山叢談」
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