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松平まつだいらつなちか

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松平まつだいらつなちか
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん 万治まんじ2ねん9月29にち1659ねん11月13にち
死没しぼつ 宝永ほうえい6ねん11月15にち1709ねん12月15にち
改名かいめい まんすけ幼名ようみょう)、つなしゅうはつ)、つなちか
別名べつめい つなどおり
戒名かいみょう りゅうもといん殿どのもとほまれまどか真道まみちろくだい居士こじ
墓所はかしょ 島根しまねけん松江まつえ外中原そとなかばらまちつき照寺しょうじ
官位かんい したがえよん甲斐かいまもる出羽守でわのかみ侍従じじゅう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家綱いえつな綱吉つなよし
はん 出雲いずも松江まつえはんあるじ
氏族しぞく くもしゅう松平まつだいら
父母ちちはは 松平まつだいらつなたかしかめひめ松平まつだいら忠昌ただまさむすめ
兄弟きょうだい 大学だいがくべんまる小次郎こじろうつなちかよしとおるあずかゆたかひめきよし
つま 松平まつだいらやすしなおむすめけいなりいん
男子だんしぎんひめまんひめ
よしとおる
テンプレートを表示ひょうじ

松平まつだいら つなちか(まつだいら つなちか)は、江戸えど時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうきにかけての大名だいみょう別名べつめいつなどおり(つなみち)。出雲いずもこく松江まつえはん3だい藩主はんしゅ官位かんいしたがえよん出羽守でわのかみ侍従じじゅうくもしゅう松平まつだいら3だい

生涯しょうがい

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2だい藩主はんしゅ松平まつだいらつなたかしよんおとことして誕生たんじょうした。

のべたから元年がんねん1673ねん)12月21にち元服げんぷくし、ちち同様どうように4だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家綱いえつなよりへんいみなさずかりつなしゅうはつめいおなじ)を名乗なのり、したがえよん甲斐守かいのかみ叙任じょにんされる。のべたから3ねん1675ねん)4がつちち死去しきょにより同年どうねん5がつ晦日みそか家督かとくぎ、いみなつなちかあらためる。同年どうねん6がつ4にち出羽守でわのかみに遷任する。同年どうねん12がつ26にち侍従じじゅう兼任けんにんする。財政ざいせい極度きょくど悪化あっかしていたため、だいかじ七兵衛しちべえによる開拓かいたく製鉄せいてつさん奨励しょうれい倉崎くらさき権兵衛ごんべえによるらく山焼やまやき創始そうしなど様々さまざま改革かいかくおこなったが、あまり効果こうかはなかった。このため、「祖父そふ直政なおまさにはれつなるべし」と史書ししょ批判ひはんされている。

晩年ばんねんびょうわずらったうえ息子むすこ早世そうせいなどもあって、おとうときんけんよしとおる養嗣子ようししとしてむかえたうえ家督かとくゆずって宝永ほうえい元年がんねん1704ねん)5がつ29にち隠居いんきょし、だい内記ないきに遷任した。しかし、よく宝永ほうえい2ねん1705ねん)9がつ6にちよしとおる急死きゅうしし、その息子むすこであるせん藩主はんしゅとなるとその後見こうけんをした。

宝永ほうえい6ねん1709ねん)11月15にちに51さい死去しきょした。

系譜けいふ

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へんいみなけた人物じんぶつ

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つなきん時代じだい