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板橋いたばし競馬けいばじょう

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出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
板橋いたばし競馬けいばじょう
施設しせつ情報じょうほう
通称つうしょう愛称あいしょう 板橋いたばし競馬けいばじょう
所在地しょざいち 東京とうきょうきた豊島としまぐん板橋いたばしまち
座標ざひょう 北緯ほくい3545ふん12びょう 東経とうけい13942ふん11びょう / 北緯ほくい35.75333 東経とうけい139.70306 / 35.75333; 139.70306座標ざひょう: 北緯ほくい3545ふん12びょう 東経とうけい13942ふん11びょう / 北緯ほくい35.75333 東経とうけい139.70306 / 35.75333; 139.70306
開場かいじょう 1908ねん (明治めいじ41ねん) 3がつ28にち
閉場へいじょう 1910ねん (明治めいじ43ねん)
所有しょゆうしゃ 日本にっぽんさん株式会社かぶしきがいしゃ
管理かんり運用うんようしゃ 東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶ[1]
収容しゅうよう能力のうりょく  
コース
周回しゅうかい みぎまわ[2] 1マイル[3]
馬場ばば ダート[2]
テンプレートを表示ひょうじ
板橋いたばし競馬けいばじょう開業かいぎょう広告こうこく競馬けいば世界せかい1ごう(1907ねん 明治めいじ40ねん)巻末かんまつ。ただし広告こうこくした予定よていには開業かいぎょうできず翌年よくねん3がつになる
明治めいじ44ねん東京とうきょう郵政ゆうせい管理かんりきょく作成さくせいより。前年ぜんねん競馬けいばじょうはいされたが競馬けいばじょうかたちのこっている。

板橋いたばし競馬けいばじょう(いたばしけいばじょう Itabashi Racecourse)は、馬券ばけん黙許もっきょ時代じだい1908ねん明治めいじ41ねん)から1910ねん明治めいじ43ねん)まで東京とうきょうきた豊島としまぐん板橋いたばしまちにあった競馬けいばじょう(2015ねん現在げんざい板橋いたばしさかえまち中心ちゅうしんひがし氷川ひかわまち西にし仲町なかまちのあたり)。馬券ばけん黙許もっきょ企画きかくされ、競馬けいば主催しゅさいしゃ尾崎おざき行雄ゆきお会頭かいとうつとめる東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶ板橋いたばし競馬けいばじょう競馬けいばおこなわれたのは実際じっさいには1908ねん明治めいじ41ねん)の1ねんのみである(板橋いたばし競馬けいばじょうだいいちかい競馬けいば明治めいじ40ねん秋季しゅうき開催かいさいとしておこなわれたが実際じっさい開催かいさい日時にちじは1908ねん明治めいじ41ねん〉3がつ)。板橋いたばし競馬けいばじょうでの競馬けいば開催かいさい合計ごうけいで3かいけい11日間にちかん開催かいさいされたのみである。

1910ねん明治めいじ43ねん馬券ばけんさい禁止きんしけて東京とうきょう近郊きんこうの4つの競馬けいばじょう池上いけがみ川崎かわさき目黒めぐろ板橋いたばし)の運営うんえい組織そしきは1つに合同ごうどうして東京とうきょう競馬けいば倶楽部くらぶ発足ほっそくし、東京とうきょう競馬けいば倶楽部くらぶ目黒めぐろ競馬けいばじょう使用しよう決定けっていしたと同時どうじ廃止はいしされた。

競馬けいばかい作成さくせいした資料しりょうだい部分ぶぶん焼失しょうしつしているため、現代げんだいでは詳細しょうさい不明ふめいであることがおおいが、八百長やおちょう横行おうこう運営うんえい会社かいしゃ内紛ないふん馬場ばば施設しせつ劣悪れつあくさなどの悪評あくひょうおおつたわっている。

前史ぜんし

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明治めいじまつまでの日本にっぽんでは、馬券ばけん発売はつばいともな競馬けいば外国がいこくじん経営けいえいする横浜よこはま競馬けいばじょうでのみおこなわれていたが(横浜よこはま競馬けいばじょう例外れいがいとして、明治めいじ時代じだいには賭博とばく一切いっさい禁止きんしされている)、軍馬ぐんば使つかった日本にっぽん劣悪れつあくさになやんだぐん政府せいふ馬匹ばひつ改良かいりょうもとめるこえたかまるなか馬匹ばひつ改良かいりょう手段しゅだんとして馬券ばけん発売はつばいともなった競馬けいば開催かいさいみとめる機運きうんたかまっていった。この機運きうんじゅくするなか認可にんか東京とうきょう競馬けいばかいは1906ねん (明治めいじ39ねん)11月池上いけがみ競馬けいばじょう開場かいじょうさせる。馬券ばけん黙許もっきょ時代じだいはじまりである。だいいちかい池上いけがみ競馬けいばだい成功せいこうおさめ、東京とうきょう競馬けいばかい多大ただい利益りえきにする。池上いけがみ競馬けいば多大ただい利益りえきげたのを全国ぜんこく各地かくち競馬けいばじょう建設けんせつ企画きかくされ、1908ねん (明治めいじ41ねん)には全国ぜんこくで15かしょ競馬けいばじょう馬券ばけん競馬けいばおこなわれた。賭博とばくというものに免疫めんえきのなかった明治めいじ日本人にっぽんじん賭博とばく魅力みりょくりつかれ、馬券ばけん黙許もっきょ時代じだい日本にっぽん競馬けいばのなかで「競馬けいば狂乱きょうらん時代じだい」ともわれる混乱こんらんちた競馬けいばブームをこした[4]

認可にんか

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東京とうきょう市長しちょう尾崎おざき行雄ゆきお会頭かいとうとする東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶは1907ねん (明治めいじ40ねん)8がつ29にち認可にんかた。競馬けいばじょう日本にっぽんさん株式会社かぶしきがいしゃ建設けんせつする予定よてい板橋いたばし競馬けいばじょうである[5]。(馬券ばけん黙許もっきょ時代じだい横浜よこはま池上いけがみ以外いがい全国ぜんこく競馬けいばじょうでは競馬けいば実施じっしする競馬けいばかい競馬けいばじょう所有しょゆう会社かいしゃけた。公益こうえき法人ほうじんである競馬けいばかい利益りえき自由じゆう処分しょぶんできないので、競馬けいばじょう所有しょゆう会社かいしゃはなはだしく高額こうがく使用しようりょうはらかたち自由じゆう処分しょぶんできる利益りえきにしたのである。もちろん競馬けいばじょう所有しょゆう会社かいしゃ競馬けいばかいのトンネル会社かいしゃである[6]。)

東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶだいいちかい競馬けいばを1907ねん (明治めいじ40ねん)におこな予定よていでいた。しかし、すでにおこなわれていたほか競馬けいば賭博とばく弊害へいがいていたため政府せいふ当局とうきょく認可にんかしぶる。交渉こうしょうすえ認可にんかはされたが、東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶは1907ねん (明治めいじ40ねん)におこな予定よてい明治めいじ40ねん秋季しゅうき競馬けいば工事こうじおくれたとしてよく3がつおこなう。明治めいじ41ねん3がつおこなわれた競馬けいば明治めいじ40ねん秋季しゅうき名目めいもくにしたのは競馬けいば開催かいさいとし2かいはるあきかく4日間にちかん)までとめられていたからである。よく3がつおこなわれた競馬けいば明治めいじ40ねん秋季しゅうき開催かいさいだという名目めいもくにすれば、明治めいじ41ねんないに3かい開催かいさいできる[5]

競馬けいばじょう経営けいえい会社かいしゃ設立せつりつにも横領おうりょう不正ふせいからんでいる。馬券ばけん発売はつばい見込みこんで創立そうりつされた帝国ていこく競馬けいば会社かいしゃ設立せつりつ発起人ほっきにん資金しきん横領おうりょう事務じむいんなどにも使つかみがあったとして紛争ふんそうになった(本来ほんらい板橋いたばし競馬けいばじょう無関係むかんけい)。これの処理しょりこまったうま政局せいきょくおりから認可にんかもとめてきたしん会社かいしゃ日本にっぽんさん株式会社かぶしきがいしゃにこれをけさせ吸収きゅうしゅう合併がっぺいさせる。このあたりの経緯けいい不明ふめいてんおおいが当初とうしょ帝国ていこく競馬けいば会社かいしゃれることをいやがっていた東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶ結局けっきょくうま政局せいきょく指示しじれる。横領おうりょうなど不正ふせいかかわったとされる帝国ていこく競馬けいば会社かいしゃがわからもおおくの人間にんげん日本にっぽんさん株式会社かぶしきがいしゃ参加さんかしている。横領おうりょう被害ひがいしゃがわしん会社かいしゃ設立せつりつ無効むこうとして訴訟そしょうおよぶ。板橋いたばし競馬けいばじょう所有しょゆう会社かいしゃ東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶのトンネル会社かいしゃ)である日本にっぽんさん株式会社かぶしきがいしゃ発足ほっそくから訴訟そしょうこされていたわけである[7]当時とうじ競馬けいば雑誌ざっし馬匹ばひつ世界せかい』では東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶ幹部かんぶたちを前科ぜんかしゃだのさる衣裳いしょうだのと罵倒ばとうしている[8]

施設しせつ

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競馬けいばかい作成さくせいした資料しりょうだい部分ぶぶん現存げんそんしていないため、詳細しょうさい不明ふめいであることがおおいが、当時とうじ競馬けいば雑誌ざっし報道ほうどうでは競馬けいばじょう板橋いたばし停車ていしゃじょう現在げんざい板橋いたばしえき)から11ちょうやく1.2キロメートル)さきにあるとされていたが、実際じっさい距離きょりは11ちょうよりとお距離きょりにあったとされる。馬場ばば長円ちょうえんがたで1しゅう1マイルで北側きたがわ馬見うまみしょ(メインスタンド)があり、傾斜けいしゃが2かしょある。馬場ばば傾斜けいしゃがあることから、競走きょうそうちからためすのにてきした馬場ばばだとされている。馬見うまみしょは1号館ごうかんと2号館ごうかんがあり、900つぼあまり、厩舎きゅうしゃは600つぼでおよそ200とう収容しゅうよう[9]馬見うまみしょきゅうごしらえになっていたため、粗末そまつ荒木あらきづくりでせきすわると、きしつくりだったといわれている。また、馬券ばけん掲示板けいじばんるい販売はんばいされていた弁当べんとうまでもが粗末そまつだったと当時とうじ競馬けいば雑誌ざっし酷評こくひょうされている。馬場ばば粘土ねんどしつになっていたため、降雨こううにあっただいいちかい競馬けいばでは泥濘でいねいになった[10]。スタートはスタートラインじょうったロープをげる方式ほうしき[11]、この方式ほうしきによる不正ふせいおこなわれた。現代げんだいのスターティングゲートとことなり、すべてのうままえいてならんでいるわけではないため、競馬けいばかいがわたせたくないうまうしろやよこいたタイミングでスタートさせることができるためとされている[8]

だいいちかい開催かいさい

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板橋いたばし競馬けいばだいいちかいは1908ねん (明治めいじ41ねん) 3がつ28にち・29にち、4がつ4にち・5にちおこなわれた。いずれも土曜どよう日曜にちようである。4日間にちかんとも1にちあたり11レースがおこなわれている。競馬けいば内国ないこくさん豪州ごうしゅうさんではちからことなるため、内国ないこくさん限定げんていレースと豪州ごうしゅうさん限定げんていレースをけておこなわれている[12]天候てんこうは2にち曇天どんてん以外いがいあめ一帯いったい地盤じばん粘土ねんどしつため競馬けいばじょう内外ないがい泥濘でいねいひざぼっするという状態じょうたいとなり観客かんきゃくどろにまみれ、うま泥濘でいねいあしられ落馬らくば続出ぞくしゅつしたという。交通こうつうあしとなる人力車じんりきしゃ高額こうがく料金りょうきんけたが、車夫しゃふがいうには雨中うちゅうこのすべりやすい泥濘でいねいなかくるまいてはしるのはいのちがけなので危険きけん手当てあてもあるとのことで、これをほうじる競馬けいば雑誌ざっし一理いちりあるといている[8]

記念きねんすべき初日しょにちだい1レースは内国ないこくさん抽籤ちゅうせん勝利しょうりせんで5とうて、距離きょりは3/4マイル1ちゃく賞金しょうきんは400えん、2ちゃく賞金しょうきん100えんおこなわれた。は6さい牡馬ぼばのコクブごう、タイムは1ふん35びょう4。

だい2レースは豪州ごうしゅうさんのレースで6とう距離きょりは3/4マイル、1ちゃく賞金しょうきんは500えん、2ちゃく賞金しょうきん125えん、3ちゃく賞金しょうきんは75えん勝利しょうりしたちょうよわい牝馬ひんばのカウンテスごうのタイムは1ふん27びょう2。

だい3レースは内国ないこくさん12とうて、3/4マイル、1ちゃく賞金しょうきんは600えん、2ちゃく賞金しょうきん150えん、3ちゃく賞金しょうきんは75えん勝利しょうりした6さい牡馬ぼばのホクモンごうのタイムは1ふん33びょう

という具合ぐあいおこなわれ、内国ないこくさんのレースと豪州ごうしゅうさんのレースが交互こうごおこなわれ、距離きょりも1マイルや1.5マイルなどさまざまである[12]

観客かんきゃく

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競馬けいばかい作成さくせいした資料しりょうだい部分ぶぶん焼失しょうしつしているため、入場にゅうじょうしゃすうなどのデータは不明ふめいである。ただし、あめ泥沼どろぬまになっているにもかかわらず、おおくの観客かんきゃくせ、競馬けいば熱狂ねっきょうしていたという。

当時とうじ新聞しんぶんでは婦人ふじんきゃくおおかったとしている(数字すうじはあげられていないが、婦人ふじんきゃくおおさにはかんしては複数ふくすう報道ほうどうがされている)[13]政府せいふ賭博とばく弊害へいがいおさえるため観客かんきゃく選別せんべつおこなう。うま政局せいきょく口達こうたつでは入場にゅうじょうできるのは紳士しんし淑女しゅくじょかぎるとし、入場にゅうじょうりょう高価こうかにし、みだれた服装ふくそうものれない方策ほうさくがどの競馬けいばじょうにも義務付ぎむづけられている。入場にゅうじょうりょうは1とう5えん、2とう3えん馬券ばけんは1まい10えんである(1909ねん(明治めいじ42ねん)の映画えいがかん入場にゅうじょうりょうが15ぜに時代じだいである)[14]。しかしながら、服装ふくそうととの小金こがねさえっていれば入場にゅうじょうできたため、競馬けいばじょう政府せいふ思惑おもわくどおりには上品じょうひんとはならず、いかがわしい空間くうかん変貌へんぼうした。ただし、板橋いたばし競馬けいばじょうだけでなく、当時とうじ競馬けいばじょうおな状況じょうきょうになっていた[15]

八百長やおちょう疑惑ぎわく

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馬券ばけん黙許もっきょ時代じだいかく競馬けいばじょう八百長やおちょうはらもどしの不正ふせいなどの疑惑ぎわくがわいたが、板橋いたばし競馬けいばじょうでは初日しょにちから連日れんじつ露骨ろこつ八百長やおちょうおこなわれたと指弾しだんまとになっている。

当時とうじ競馬けいば雑誌ざっし馬匹ばひつ世界せかい』(雑誌ざっし競馬けいば世界せかい』の改題かいだい)では1908ねん明治めいじ41ねん発刊はっかん毎号まいごう東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶ幹部かんぶ馬主ばしゅ槙田まきたよし一郎いちろう八百長やおちょうおこなったとしてはげしく非難ひなんし、槙田まきたよし一郎いちろうを(八百長やおちょうにかけて)はちひゃくきち東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶ東京とうきょう詐欺さぎ倶楽部くらぶ口汚くちぎたなののしっている。

競馬けいば雑誌ざっし馬匹ばひつ世界せかい』によると槙田まきたよし一郎いちろううまアームルースとハツネ(名義めいぎ他人たにん名義めいぎにしているが実際じっさい馬主ばしゅ槙田まきた)を板橋いたばし競馬けいば初日しょにちおなじレースに出場しゅつじょうさせた。アームルースはつようまなので人気にんき集中しゅうちゅうする。ハツネはよわいので人気にんきうすだったが、槙田まきたはハツネの馬券ばけん大量たいりょうったうえで、レースではアームルースにわざとけさせ、ハツネが勝利しょうりしたとしている(アームルースとハツネ以外いがいにはよわうましかていない)。2にちから4にちにかけてもおなじ2とう連日れんじつおなじレースにし、槙田まきたのなかでったほう馬券ばけんだけをいつも大量たいりょう購入こうにゅうしていたという[† 1][17]

槙田まきたよし一郎いちろうばかりではなく、東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶ会員かいいんうま会員かいいんうまがきわどい勝負しょうぶになると判定はんていかなら東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶ会員かいいんちになったという。また、当時とうじのスタートはスタートラインじょうったロープをげる方式ほうしきだったので、東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶ会員かいいん有力ゆうりょくうまうしろやよこいたタイミングでスタートさせることもおこなわれたという。不正ふせい騎手きしゅ同士どうしでもおこなわれ、よわうまをわざとたせていたという。騎手きしゅ自身じしんきんすことが出来できたからだという(現代げんだい競馬けいばでは関係かんけいしゃ馬券ばけんうことはきんじられている)[17]

はつがかり検定けんていがかりつとめていた外国がいこくじん板橋いたばし競馬けいばじょう不正ふせいがあまりにひどいので憤慨ふんがいして辞任じにんしたという[18]

これらの不正ふせい真実しんじつとしておこなわれたかどうかは現代げんだいではわからないものの、不正ふせい疑惑ぎわく板橋いたばしだけではなくすべての競馬けいばじょううわさされ、この時代じだい競馬けいばでは不正ふせい横行おうこうしているということは共通きょうつう認識にんしきになり、競馬けいば雑誌ざっしばかりではなく新聞しんぶん各紙かくしふくめて競馬けいば指弾しだんまとになっている。マスコミ各紙かくし競馬けいば不正ふせいはげしく非難ひなんするとともに馬券ばけん廃止はいし運動うんどうひろげていく[19]

開催かいさい

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規則きそく競馬けいばとしはるあきの2開催かいさいかく4日間にちかんまでとめられていた。1908ねん (明治めいじ41ねん)東京とうきょう近郊きんこうには6つの競馬けいばじょう松戸まつど板橋いたばし目黒めぐろ池上いけがみ川崎かわさき横浜よこはま)があったのでこれらは日程にっていかさならないように調整ちょうせいしていた。 1908ねんはるシーズンは板橋いたばしはじまり、ただし板橋いたばし初回しょかい前年度ぜんねんどしとしたので、板橋いたばし(3/28,29,4/4,5)→目黒めぐろ(4/12,13,18,19)→川崎かわさき(4/25,26,5/2,3)→横浜よこはま(5/8,9,15,16)→池上いけがみ(5/23,24,30,31)→松戸まつど(6/6,7,13,14)→板橋いたばし(7/11,12,18,19)の日程にってい開催かいさいされた。板橋いたばし競馬けいばの1908ねんはるは7/4からの予定よていだったが降雨こううために1週間しゅうかん順延じゅんえんしている。このように馬券ばけん黙許もっきょ時代じだいかく競馬けいばじょうは2しゅう連続れんぞくにち開催かいさいされている[† 2][20]

だいかい開催かいさい

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板橋いたばし競馬けいばじょうだいかい開催かいさい明治めいじ41ねん春季しゅんき競馬けいばは1908ねん7がつ4にちから予定よていされていたが、降雨こううため順延じゅんえん、1908ねん7がつ11にちからになる。開催かいさいは7がつ11,12,18,19の4にちである。だい一回いっかいおなじく土曜どよう日曜にちよう開催かいさいいちにちごとに11レースずつおこなわれた。だいかい板橋いたばし競馬けいば好天こうてんめぐまれたが、ぎゃくあつく、よけや冷水れいすい配置はいちなどがおこなわれている。大阪おおさかからもうま参加さんか京阪神けいはんしん競馬けいばファンもおおおとずれたという。大阪おおさかから参加さんかした豪州ごうしゅうセッツは板橋いたばし競馬けいばじょうの2400メートルのコースレコードをしている(といっても開場かいじょうしたばかりの競馬けいばじょうではあるが)。

初日しょにちだい1レースは抽籤ちゅうせんない国産こくさん18とうてのレースで距離きょりは1マイル。賞金しょうきんは1ちゃく700えん、2ちゃく200えん、3ちゃく100えんで4さい牡馬ぼばだいろくサワごうち、タイムは2ふん3びょう35.などがおこなわれている[21]

馬券ばけん禁止きんし

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明治めいじ日本にっぽんでは一切いっさい賭博とばく禁止きんしされ、わずかに横浜よこはまでのみ例外れいがいてき馬券ばけんられている状況じょうきょうで、一気いっき全国ぜんこく制限せいげん馬券ばけんともな競馬けいば開催かいさいされしたのである。賭博とばくというものに免疫めんえきのなかった日本人にっぽんじん一気いっき賭博とばくの「興奮こうふん熱狂ねっきょう」につつまれていった。仕事しごとほうりだして競馬けいばじょうかよめるもの続出ぞくしゅつし、たけえて多額たがく馬券ばけんって破産はさんむすめものみせかねけるもの泥棒どろぼうおよもの競馬けいば財産ざいさんうしなってくびものあらわれた。競馬けいばじょうがわ金儲かねもうけにはしり、粗雑そざつ運営うんえいでクレームが続出ぞくしゅつ観客かんきゃくあばれる騒動そうどう頻発ひんぱつする。審判しんぱんはつなども不手際ふてぎわおお観客かんきゃくさわぎになることもあり、競走きょうそう八百長やおちょうすらおこなわれ、それをった観客かんきゃくがやはりあばれる、といったさわぎが続出ぞくしゅつした。とく営利えいり目的もくてき露骨ろこつ粗末そまつ設備せつび運営うんえいおこなわれた松戸まつど競馬けいばじょうでは競馬けいばじょうがわ配当はいとうをごまかすなどの不正ふせい行為こういおこない、抗議こうぎする観客かんきゃくのクレームをやくざをやとって封殺ふうさつするなどということにまでおよんだ。鳴尾なるおでは競馬けいばかい内紛ないふん詐欺さぎなどが発覚はっかくした。そもそも競馬けいばじょう許可きょか自体じたいにも贈収賄ぞうしゅうわいうわさすらった[22][23][24]政府せいふ場当ばあたりてき様々さまざま規制きせいおこなうが効果こうかなく[25][26]大手おおて新聞しんぶんはじめマスコミは一斉いっせい競馬けいば攻撃こうげきし、マスコミの攻撃こうげき競馬けいばじょうのみならず馬券ばけん黙許もっきょした政府せいふにもおよんだ[27]馬券ばけんへの世論せろん風当かぜあたりはつよく、1908ねん(明治めいじ41ねん)10がつ政府せいふ馬券ばけん禁止きんしする[28]

この馬券ばけん禁止きんし通達つうたつされた時点じてん東京とうきょう近郊きんこう競馬けいばじょう松戸まつど秋季しゅうき開催かいさいわり、横浜よこはま場所ばしょ移動いどうするところだった[29]馬券ばけん禁止きんしかく競馬けいばじょうはうろたえ、予定よてい競馬けいば開催かいさい延期えんきする。

だいさんかい競馬けいば

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馬券ばけん禁止きんしけて、結果けっかとして最後さいごになる板橋いたばし競馬けいばだいさんかいは1908ねん12月22,23,24の3日間にちかんおこなわれた[† 3]入場にゅうじょうしゃ激減げきげんし、『馬匹ばひつ世界せかい14ごうによると入場にゅうじょうけん値段ねだんを1とう1えん、2とう50ぜに大幅おおはば値下ねさげしたにもかかわらず、初日しょにちは2とうが4まいしかれず、2にちにも2とうが4まい、3にちには1とうが1まい、2とうが3まいしかれなかった。有料ゆうりょう入場にゅうじょうしゃのほかに招待客しょうたいきゃくもいたが競馬けいばじょう閑古鳥かんこどり[30]新聞しんぶんも『さくにち板橋いたばし競馬けいば初日しょにちにもしたるさびしさただいたずら馬主ばしゅ刑事けいじのみウヨウヨと場内じょうない彷徨ほうこうするのみ、ただし此に特筆とくひつするべきはいずれも上品じょうひんな(?)奥様おくさまたちおよじゅうにんえた一事いちじだ、これあるい競馬けいばかいいち進歩しんぽかもれぬー読売新聞よみうりしんぶん明治めいじ41ねん12月23にち朝刊ちょうかん』と様子ようすつたえている[13]。レースは3日間にちかんとも1にちに13レースおこなわれるが賞金しょうきんがくおおきくげられている[30]

だいいちレースは東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶ豪州ごうしゅうさんしんうまのレースで7とうて3/4マイル、賞金しょうきんは1ちゃくが100えん、2ちゃくが40えん、3ちゃくが25えんおこなわれ、は5さい牝馬ひんばのツイデン、タイムは1ふん24びょう

だいレースは内国ないこくさん抽籤ちゅうせん4とうてで距離きょりは1マイル。賞金しょうきんは1ちゃくが100えん、2ちゃくが30えん、3ちゃくが20えんは4さい牡馬ぼばのカチクモ、タイムは2ふん4びょう41。

以下いかさん日間にちかんとも賞金しょうきんがく大幅おおはばらしながらも13レースずつおこなわれている[30]

板橋いたばし競馬けいばじょう閉鎖へいさ

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1908ねん (明治めいじ41ねん)10がつ馬券ばけん禁止きんしけて、全国ぜんこく競馬けいば関係かんけいしゃ馬券ばけん復活ふっかつ運動うんどうこすがみとめられず、狂乱きょうらん競馬けいばブームをこした馬券ばけん黙許もっきょ時代じだい実質じっしつ2ねんたらずでわりになる。日本にっぽん競馬けいば政府せいふ補助ほじょきん運営うんえいされる補助ほじょきん競馬けいば時代じだいうつる。

1909ねん (明治めいじ42ねん)はる政府せいふ東京とうきょう競馬けいばかい池上いけがみ)、日本にっぽん競馬けいばかい目黒めぐろ)、京浜けいひん競馬けいば倶楽部くらぶ川崎かわさき)、東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶ板橋いたばし)、総武そうぶ競馬けいばかい松戸まつど)の5しゃ合同ごうどううながす。総武そうぶ競馬けいばかい(松戸まつど)のみはこれにしたがわなかったが、の4つは1909ねん (明治めいじ42ねん)に合同ごうどうするかり契約けいやくむすんだ。合同ごうどうして新設しんせつされる東京とうきょう競馬けいば倶楽部くらぶかく競馬けいばかい資産しさん総額そうがく160まんえんあまりで購入こうにゅうし、政府せいふ東京とうきょう競馬けいば倶楽部くらぶに20年間ねんかん毎年まいとし8まんえんあまりの補助ほじょきん交付こうふすることにめた[31]

東京とうきょう競馬けいばかい池上いけがみ)、日本にっぽん競馬けいばかい目黒めぐろ)、京浜けいひん競馬けいば倶楽部くらぶ川崎かわさき)、東京とうきょうジョッケー倶楽部くらぶ板橋いたばし)の4つが合同ごうどうして出来でき東京とうきょう競馬けいば倶楽部くらぶは、1910ねん (明治めいじ43ねん)6がつ地形ちけい交通こうつう便びんから目黒めぐろ競馬けいばじょう使用しようすることにめ、板橋いたばし競馬けいばじょう廃止はいしされた[32]

1913ねん大正たいしょう2ねん)、跡地あとち巣鴨すがも愛光あいこうしゃ牧場ぼくじょう移転いてんした[13]が、都市としなみまれ、牧場ぼくじょう閉鎖へいさされた。

板橋いたばし競馬けいばじょうのデータ

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板橋いたばし競馬けいばじょうデータ[33]
年度ねんど  場所ばしょ 開催かいさい日数にっすう 開催かいさい そうレースすう 競走きょうそうすう 賞金しょうきん総額そうがく 馬券ばけん発売はつばい
内国ないこく抽籤ちゅうせん(しんうま)  内国ないこくさん抽籤ちゅうせん  内国ないこくさんうま  豪州ごうしゅうさん抽籤ちゅうせんしんうま 豪州ごうしゅうさん抽籤ちゅうせん 合計ごうけい 
明治めいじ40ねん[† 4] あき 4 明治めいじ41ねん3がつ28,29にち 4がつ 4,5にち 44 26 37 39 0 38 140 33,425
明治めいじ41ねん はる 4 明治めいじ41ねん7がつ11,12,18,19にち 44 0 39 47 0 43 129 39,125
あき 3 明治めいじ41ねん12月22,23,24にち 39 0 63 28 19 42 134 6,320 ×
板橋いたばし競馬けいばじょうのコースレコード(明治めいじ41ねん春場所はるばしょまで)[21]
距離きょり  内国ないこくさんうま  豪州ごうしゅう
うまめい 斤量きんりょう タイム  うまめい 斤量きんりょう タイム
3/4マイル パイカさんせい 133 1ふん27びょう27 ミツビキ 147 1ふん23びょう29
7/8マイル ハヤセ 129 1ふん51びょう 記録きろくなし
1マイル カツヒラ 135 1ふん59びょう03 アームルース 147 1ふん56びょう37
1+1/8マイル タマノオ 140 2ふん14びょう32 シューティングスター 141 2ふん8びょう39
1+1/4マイル ハナゾノ 160 2ふん27びょう16 バーモントセコンド 118 2ふん22びょう38
1+1/2マイル タンチョウ 133 3ふん6びょう30 セッツ 160 2ふん52びょう28

斤量きんりょう単位たんいはポンド※内国ないこくさん7/8マイル以外いがいは41ねん春場所はるばしょ(7がつ)にコースレコードがている。3月の板橋いたばし初回しょかい開催かいさいでは降雨こうう見舞みまわれたため全般ぜんぱんにタイムはおそくなっている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 大江おおえ2005によると当時とうじ新聞しんぶん報道ほうどうではこの八百長やおちょう疑惑ぎわく役員やくいん槙田まきたぼうつたえているとし槙田まきたよし一郎いちろう推定すいていであるとしているが、大江おおえつたえるところでも大筋おおすじおなじである[16]競馬けいば雑誌ざっし馬匹ばひつ世界せかい』では槙田まきたよし一郎いちろう名指なざしで罵倒ばとうしている。
  2. ^ 目黒めぐろの4/11(土)予定よていあめ順延じゅんえん、4/12(日)にち4/13(月)げつ開催かいさいになっている。
  3. ^ シーズン序盤じょばん松戸まつど横浜よこはま予定よていどお開催かいさいしたが、馬券ばけん禁止きんし目黒めぐろは12/11,12,13、池上いけがみは12/18,19,20、板橋いたばしは12/22,23,24、川崎かわさきは12/25,26,27に開催かいさいしている。
  4. ^ 前述ぜんじゅつしたように、実際じっさい開催かいさいは1908ねん (明治めいじ41ねん)3がつ-4がつだが、名目めいもくは、工事こうじおくれたため、おくれて開催かいさいされた「明治めいじ40ねん秋季しゅうき開催かいさい」としている。

出典しゅってん

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  1. ^ 日本にっぽん中央ちゅうおう競馬けいばかい1968、56-65ぺーじ
  2. ^ a b にちだか1998、76-77ぺーじ
  3. ^ 競馬けいば世界せかい2ごう、1907ねん
  4. ^ 立川たちかわ1991、38-71ぺーじ
  5. ^ a b 日本にっぽん中央ちゅうおう競馬けいばかい1968、56-60ぺーじ
  6. ^ 帝国ていこく1928、580-581ぺーじ
  7. ^ 大江おおえ2005、121-122ぺーじ
  8. ^ a b c 馬匹ばひつ世界せかい6ごう、1908ねん
  9. ^ 日本にっぽん中央ちゅうおう競馬けいばかい1968、60ぺーじ
  10. ^ 馬匹ばひつ世界せかい6ごう、1908ねん。34-39ぺーじ
  11. ^ にちだか1998、83ぺーじ
  12. ^ a b 牧畜ぼくちく雑誌ざっし270ごう板橋いたばし初期しょき競馬けいばかい景況けいきょう、1908ねん
  13. ^ a b c 齋藤さいとう2014104ぺーじ
  14. ^ にちだか1998、63ぺーじ
  15. ^ 立川たちかわ1991、64-69ぺーじ
  16. ^ 大江おおえ2005、123-124ぺーじ
  17. ^ a b 馬匹ばひつ世界せかい1908ねん毎号まいごう
  18. ^ 馬匹ばひつ世界せかい6ごう、1908ねん、38ぺーじ
  19. ^ 大江おおえ2005、108-144ぺーじ
  20. ^ 馬匹ばひつ世界せかい1908ねん各号かくごう競馬けいば結果けっか
  21. ^ a b 牧畜ぼくちく雑誌ざっし274ごう板橋いたばし春期しゅんき競馬けいばかい景況けいきょう、1908ねん
  22. ^ 大江おおえ2005、116-143ぺーじ
  23. ^ 日本にっぽん中央ちゅうおう競馬けいばかい1969、3-7ぺーじ
  24. ^ 立川たちかわ1991、60-63ぺーじ
  25. ^ 倶楽部くらぶ1941-1
  26. ^ 尾形おがた1967、50-52ぺーじ
  27. ^ 立川たちかわ1991、60-67ぺーじ
  28. ^ 大江おおえ2005、142-143ぺーじ
  29. ^ 馬匹ばひつ世界せかい13ごう、1908ねん
  30. ^ a b c 馬匹ばひつ世界せかい14ごう、1908ねん
  31. ^ かみおきな1963、740-741ぺーじ
  32. ^ 日本にっぽん中央ちゅうおう競馬けいばかい1968、66-83ぺーじ
  33. ^ 齋藤さいとう2014103ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 立川たちかわ 健治けんじ日本にっぽん競馬けいばかん(1)」『富山大学とやまだいがく教養きょうよう紀要きよう』 24かん1ごう富山大学とやまだいがく、1991ねん、62ぺーじ 
  • 日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい 編集へんしゅう日本にっぽん競馬けいばだい2かん日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1967ねん 
  • 日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい 編集へんしゅう日本にっぽん競馬けいばだい3かん日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1968ねん 
  • 日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい 編集へんしゅう日本にっぽん競馬けいばだい4かん日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1969ねん 
  • 日高ひだか よしみつぎ浮世絵うきよえ 明治めいじ競馬けいば』、小学館しょうがくかん、1998ねん、36-37ぺーじ 
  • 大江おおえ志乃しのおっと明治めいじ馬券ばけん始末しまつ』 、紀伊国屋きのくにや書店しょてん、2005ねん 
  • 帝国ていこく競馬けいば協会きょうかい日本にっぽんせい だい4かん』 明治めいじひゃくねん叢書そうしょはら書房しょぼう(1928ねん発行はっこう原典げんてん帝国ていこく競馬けいば協会きょうかい)、1982 (1928ねん発行はっこうほん復刻ふっこく刊行かんこう)。 
  • かみおう顕彰あきらかいぞく日本にっぽんせい だい2かん』 、かみおう顕彰あきらかい、1963ねん 
  • 競馬けいば世界せかいしゃ 編集へんしゅう競馬けいば世界せかい』 、競馬けいば世界せかいしゃ、1907ねん 
  • 帝国ていこく馬匹ばひつ研究けんきゅうかい馬匹ばひつ世界せかい』 (競馬けいば世界せかい改題かいだい)、帝国ていこく馬匹ばひつ研究けんきゅうかい、1908ねん 
  • 牧畜ぼくちく雑誌ざっししゃ 編集へんしゅう牧畜ぼくちく雑誌ざっし』 270、牧畜ぼくちく雑誌ざっししゃ、1908ねん 
  • 牧畜ぼくちく雑誌ざっししゃ 編集へんしゅう牧畜ぼくちく雑誌ざっし』 274、牧畜ぼくちく雑誌ざっししゃ、1908ねん 
  • 齋藤さいとう千秋ちあき板橋いたばし競馬けいばじょう」『特別とくべつてん 板橋いたばし競馬けいば』 、板橋いたばし区立くりつ郷土きょうど博物館はくぶつかん、2014ねん、102-104ぺーじ