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横浜よこはま競馬けいばじょう

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横浜よこはま競馬けいばじょう
横浜競馬場
きゅう横浜よこはま競馬けいばじょう一等いっとう馬見うまみしょ」をうしろから、
コースは建物たてものこうがわ位置いちしていた
施設しせつ情報じょうほう
通称つうしょう愛称あいしょう 根岸ねぎし競馬けいばじょう
所在地しょざいち 神奈川かながわけん横浜よこはまちゅう根岸台ねぎしだい
座標ざひょう 北緯ほくい3525ふん27.8びょう 東経とうけい13938ふん10.5びょう / 北緯ほくい35.424389 東経とうけい139.636250 / 35.424389; 139.636250座標ざひょう: 北緯ほくい3525ふん27.8びょう 東経とうけい13938ふん10.5びょう / 北緯ほくい35.424389 東経とうけい139.636250 / 35.424389; 139.636250
開場かいじょう 1866ねん9がつ
閉場へいじょう 1943ねん6がつ10日とおか
所有しょゆうしゃ幕府ばくふ→)
大日本帝國だいにっぽんていこく政府せいふ→)
日本にっぽん競馬けいばかい
管理かんり運用うんようしゃ 横濱よこはまレース倶樂部くらぶ
日本にっぽんレース・クラブ
日本にっぽん競馬けいばかい
収容しゅうよう能力のうりょく 一等いっとう馬見うまみしょ:4500にん[1]
とう馬見うまみしょ:6000にん増築ぞうちく12000にん[1]
コース
周回しゅうかい みぎまわ[2]
馬場ばば 1しゅう1764m(しば[2][3]
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一等いっとう馬見うまみしょ南側みなみがわ観覧席かんらんせきあと

横浜よこはま競馬けいばじょう(よこはまけいばじょう、横濱よこはま競馬けいばじょう、Yokohama Racecourse)は、かつて神奈川かながわけん横浜よこはま現在げんざいちゅう根岸台ねぎしだい)に存在そんざいした競馬けいばじょう1866ねん慶応けいおう2ねん)に日本にっぽんはつとなる常設じょうせつ洋式ようしき競馬けいばじょうとして開設かいせつされ、根岸ねぎし競馬けいばじょう(ねぎしけいばじょう)の名称めいしょうながらく定着ていちゃくしていたが、1937ねん昭和しょうわ12ねん)の秋季しゅうき競馬けいばから「日本にっぽん競馬けいばかい横浜よこはま競馬けいばじょう」に改称かいしょうされ、1943ねん昭和しょうわ18ねん)に閉場へいじょうされた[4]みぎまわりの周回しゅうかいコースやスタンドの構造こうぞうなど、のちに日本にっぽん各地かくちつくられた競馬けいばじょうにもおおきな影響えいきょうあたえた。

コース概要がいよう[編集へんしゅう]

根岸ねぎし競馬けいばじょうコース(1911-1912ねん

コース形態けいたいみぎまわりのしばコースで、1しゅう距離きょりは972あいだ(1764m)、幅員ふくいんは13あいだ(28.8m)[3]。1937ねん昭和しょうわ12ねん時点じてんの1しゅう距離きょりは1632m、幅員ふくいんは15mないし26.5m[5]とされており、現在げんざい中央ちゅうおう競馬けいば開催かいさいする競馬けいばじょうくらべても遜色そんしょくのないだい規模きぼなものであった[2]根岸ねぎし競馬けいばじょうみぎまわりを採用さいようした背景はいけいには、当時とうじ江戸えど幕府ばくふ財政ざいせい逼迫ひっぱくしていたため整地せいち費用ひようがかけられなかったことにくわえ、地形ちけい関係かんけいひだりまわりにするとゴールまえのぼざかになり、鍔迫つばぜいを演出えんしゅつすることができなかったためといわれている[6]。また、根岸ねぎし競馬けいばじょうみぎまわりコースを採用さいようしたことで、のちに全国ぜんこくつくられたおおくの競馬けいばじょう根岸ねぎし競馬けいばじょうはんをとってみぎまわりを採用さいようしたため、おおくがひだりまわりを採用さいようしている外国がいこく競馬けいばじょうとはことなる進化しんかげることとなった[2]

直線ちょくせんはスタンドがわ正面しょうめん)のみで、こう正面しょうめんゆるやかにえがいている(コース参照さんしょう)。

スタンド[編集へんしゅう]

1889ねん明治めいじ22ねん)から使用しようされたメインスタンドは1911ねん明治めいじ44ねん)に火災かさいこし、そのおおきく修復しゅうふくされ木造もくぞう3かいけんのスタンドにわったが、1923ねん大正たいしょう12ねん)に発生はっせいした関東大震災かんとうだいしんさい半壊はんかい翌年よくねんはるから仮設かせつのバラック小屋こや競馬けいば開催かいさい再開さいかいしたものの、あらたなスタンドの建設けんせつ急務きゅうむとなった。しんスタンドの建設けんせつにあたり、根岸ねぎし競馬けいばじょうちょうステーツ・アイザックス東京とうきょう丸ノ内まるのうちビルヂング建設けんせつするため1920ねん大正たいしょう9ねん)に来日らいにちした米国べいこくフラーしゃ主任しゅにん建築けんちくだったJ・H・モーガンしんスタンドの設計せっけい依頼いらい従来じゅうらいのスタンドは木造もくぞうはこがた建物たてもの前面ぜんめんにわずかな階段かいだんじょう観客かんきゃくせきもうけただけで収容しゅうよう人員じんいんかぎられていたうえ、観客かんきゃくせきはしらおおかったためレースの重要じゅうよう場面ばめんにくかったことから、アイザックスじょうちょうはモーガンに設計せっけい依頼いらいするにあたり、たか耐震たいしんせい格調かくちょうたか仕様しようくわえ、左右さゆうのコーナーをやすいような機能きのうてきすぐれた馬見うまみしょという条件じょうけん提示ていじ。モーガンは関東大震災かんとうだいしんさい経験けいけんから、屋根やね重量じゅうりょうをかけない構造こうぞう提案ていあんし、スタンドない支柱しちゅうらすことに成功せいこう。これにより、観覧席かんらんせきからコース全体ぜんたいがよく見渡みわたせるようになった[1]

日本にっぽんレース・クラブは1929ねん昭和しょうわ4ねん春季しゅんき競馬けいば終了しゅうりょうの5がつ19にちからしんスタンドの改築かいちく着手ちゃくしゅし、11月2にちには8わり程度ていど完成かんせいした一等いっとう馬見うまみしょ収容しゅうよう人数にんずう4,500にん)で競馬けいば開催かいさい翌年よくねんにはとう馬見うまみしょ収容しゅうよう人数にんずう6,000にん)が竣工しゅんこうし、1932ねん昭和しょうわ7ねん)にはガラス張がらすば天蓋てんがいひさし増設ぞうせつひさしおおきくせりすことで前面ぜんめんかべはらい、建物たてものをよりオープンな状態じょうたいにした。1934ねん昭和しょうわ9ねん)には激増げきぞうする入場にゅうじょうしゃ対応たいおうするためとう馬見うまみしょ増築ぞうちくされ、収容しゅうよう人数にんずうは2ばい(12,000にん)になった。スタンドは鉄骨てっこつ鉄筋てっきんコンクリートづくり地上ちじょう7かい地下ちか1かいけん面積めんせき7,700㎡で、当時とうじとしてはめずらしいエレベーターを3そなえたほか、馬券ばけん発売はつばい窓口まどぐち一等いっとうとうともに70まどはらえもど窓口まどぐち一等いっとう28まどとう35まど配置はいちした。一等いっとう馬見うまみしょには最上階さいじょうかい中央ちゅうおう貴賓きひんしつ設置せっち室内しつないはゆったりとした和洋わようふうで、たか格子こうし天井てんじょうにはひとひとつに格調かくちょうたか鳳凰ほうおうえがかれた。一等いっとう馬見うまみしょ正装せいそう和装わそう洋装ようそうわない)での入場にゅうじょう条件じょうけんとした。これらのスタンドはみなと富士山ふじさん見渡みわたせる眺望ちょうぼうさや設備せつび豪華ごうかさから「東洋一とよかず」ともひょうされ、のちに全国ぜんこくつくられる競馬けいばじょうのモデルにもされた[1][7][8]

歴史れきし[編集へんしゅう]

日本にっぽん開国かいこく近代きんだい競馬けいばのはじまり[編集へんしゅう]

1853ねんよしみひさし6ねん)、提督ていとくマシュー・ペリーひきいるアメリカ海軍かいぐんひがしインド艦隊かんたい日本にっぽん開国かいこくもとめて浦賀うらがげん神奈川かながわけん横須賀よこすかおき江戸えどわん来航らいこうしたことを契機けいきとして、翌年よくねん徳川とくがわ幕府ばくふとのあいだ日米にちべい和親わしん条約じょうやく締結ていけつ。その1858ねん安政あんせい5ねん)に締結ていけつされた日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやくをはじめとする安政あんせいカ国かこく条約じょうやくにより、よく1859ねん安政あんせい6ねん横浜よこはまこう開港かいこうされた。

条約じょうやく規定きていされていた開港かいこうじょう東海道とうかいどう宿場しゅくばであった神奈川かながわ現在げんざい横浜よこはま神奈川かながわ神奈川本かながわほんまちから青木あおきまち付近ふきん)だったが、当時とうじちいさな漁村ぎょそんぎなかった横浜よこはまえらばれた。その理由りゆうは、外国がいこくじん攘夷じょうい外国がいこくじん排斥はいせき)との衝突しょうとつおそれた江戸えど幕府ばくふが、代替だいたいとして往来おうらいおお東海道とうかいどうからややはなれた場所ばしょ位置いちする横浜よこはま一帯いったい整備せいびしたためとされている。こうして横浜よこはま外国がいこくじん居留きょりゅうもうけられ、関内かんない居留きょりゅう現在げんざい山下やましたまち)や横浜よこはま新田しんでん現在げんざい中華ちゅうかがい)、太田おおた新田にった現在げんざい横浜よこはま市役所しやくしょ横浜よこはまスタジアム付近ふきん)がてられて居留きょりゅうまれ、市街地しがいちとして整備せいび拡充かくじゅうされていった[9]

開港かいこう来日らいにちした外国がいこくじんによって、日本にっぽんには様々さまざま西洋せいよう文化ぶんかまれた。そのなかひとつが競馬けいばをはじめとする西洋せいようしきうま文化ぶんかであった。日常にちじょうのレクリエーションとして競馬けいば乗馬じょうばたのしんでいた[10]かれらは競馬けいばたいする情熱じょうねつたかく、日本にっぽんでも母国ぼこく同様どうよう競馬けいば乗馬じょうばたのしみたいというおもいがつよかった。また、自分じぶんたちがあいする「競馬けいば」というものを日本人にっぽんじん紹介しょうかいしたいという側面そくめんもあった[11]横浜よこはまでも西洋せいようしき競馬けいばおこなわれるようになり、最古さいこ競馬けいば横浜よこはま開港かいこうされた翌年よくねん1860ねん万延まんえん元年がんねん)9がつ1にち元町もとまちげん横浜よこはまなか元町もとまち)でおこなわれた記録きろくのこっている。その1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)に横浜よこはま新田しんでんで1しゅう1200m・はば11mの円形えんけい馬場ばば仮設かせつ横浜よこはま新田にった競馬けいばじょう)され、同年どうねんはるからここで競馬けいばおこなわれるようになる。これが、日本にっぽんにおけるはじめての近代きんだい競馬けいば洋式ようしき競馬けいば)の原型げんけいとされている[12]。しかし居留きょりゅう外国がいこくじんえるにつれて仮設かせつ競馬けいばじょう廃止はいしされ、住宅じゅうたく転用てんようされていった。その仮設かせつ施設しせつ転々てんてんとしながら競馬けいばおこなわれていたが、居留きょりゅう外国がいこくじんによって恒久こうきゅうてき競馬けいばじょう建設けんせつもとめるこえたかまっていったように、江戸えど時代じだい末期まっきから競馬けいばじょう問題もんだい外交がいこう問題もんだいになっていた[2]

生麦なまむぎ事件じけん発生はっせい根岸ねぎし競馬けいばじょう開設かいせつ[編集へんしゅう]

日本にっぽん開国かいこくにより尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう活発かっぱつするなど、幕末ばくまつ世相せそう動乱どうらんはいっていた。そんななかの1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)、薩摩さつま藩主はんしゅちち島津しまつ久光ひさみつ行列ぎょうれつまえうまりながらとおりかかったイギリスじん薩摩さつま藩士はんし殺傷さっしょうする生麦なまむぎ事件じけん発生はっせい[13]。これをきっかけとして居留きょりゅう外国がいこくじんあいだで「ひとない安全あんぜん場所ばしょ競馬けいばひらきたい」とのこえたかまっていった[6]ほか、しょ外国がいこくとの緊張きんちょうたかまり、幕府ばくふ外国がいこくじんだん交渉こうしょうつづけられ、1864ねん元治もとはる元年がんねん)にはイギリス・アメリカ・フランス・オランダの4かこく幕府ばくふあいだ横浜よこはま居留きょりゅう整備せいび改良かいりょう目的もくてきとした「横浜よこはま居留きょりゅう覚書おぼえがき」が締結ていけつされた。ところが、日本人にっぽんじんまち海岸かいがんどおりを居留きょりゅう編入へんにゅうする条項じょうこうふくまれているなど、内容ないよう幕府ばくふがわ不利ふりなものとなっていた。この覚書おぼえがきでは生麦なまむぎ事件じけん賠償ばいしょう一環いっかんとして、居留きょりゅう背後はいごにあった沼地ぬまち現在げんざいちゅう扇町おうぎまちから松影まつかげまち付近ふきん)を幕府ばくふ費用ひよう負担ふたんてて競馬けいばじょう建設けんせつし、競馬けいばじょう運営うんえい居留きょりゅう外国がいこくじんによる委員いいんかい委託いたくすることがさだめられており、幕府ばくふ改正かいせい交渉こうしょうつづけていたが、1866ねん慶応けいおう2ねん)に発生はっせいした「ぶた火事かじ」をきっかけに一気いっき進展しんてん。4かこく公使こうし幕府ばくふ費用ひよう負担ふたん東海道とうかいどうからはなれたおかうえ位置いちする「根岸ねぎし」に競馬けいばじょう建設けんせつし、借地しゃくちりょうを100つぼ10ドルとすれば、横浜よこはま居留きょりゅう覚書おぼえがきだい1じょう破棄はきすることを確約かくやく[2]。こうして1866ねん慶応けいおう2ねん)にイギリス駐屯ちゅうとんぐん将校しょうこうらの設計せっけい監督かんとくによって日本にっぽんはつ洋式ようしき競馬けいばじょう根岸ねぎし競馬けいばじょう」が開設かいせつされ、よく1867ねん慶応けいおう3ねん)から競馬けいば開催かいさいされた[14][15]

当初とうしょ居留きょりゅう外国がいこくじんおもにイギリスじん)によって結成けっせいされた「横濱よこはまレース倶樂部くらぶ」が主催しゅさいしていたが、内部ないぶ対立たいりつ外国がいこくじん居留きょりゅう経済けいざいりょくおとろえたことによる財政難ざいせいなんくわえ、日本にっぽんさん確保かくほなどで苦境くきょうたされ、1880ねん明治めいじ13ねん)には賃貸ちんたいりょう支払しはらいが不可能ふかのうになったことから賃貸ちんたい契約けいやく破棄はきし、居留きょりゅう外国がいこくじんのみだった入会にゅうかい資格しかく日本人にっぽんじんにもみとめ、日本にっぽんレース・クラブ設立せつりつされた。これは競馬けいばじょう欧化おうか政策せいさく舞台ぶたいとして利用りようしたい明治めいじ政府せいふがわと、強固きょうこ財政ざいせい基盤きばんもとめていたきゅうクラブがわ思惑おもわく一致いっちした結果けっか産物さんぶつだった。こうして結成けっせいされた「日本にっぽんレース・クラブ」の名誉めいよ会員かいいんには宮家みやけ皇室こうしつ)、正会員せいかいいんには西郷さいごう従道つぐみち松方まつかた正義まさよし伊藤いとう博文ひろぶみなどといった明治めいじ政府せいふ要人ようじんつらね、競走きょうそう所有しょゆうして競馬けいば参加さんかしていた[2][15][16]

根岸ねぎし競馬けいばじょうたした役割やくわり[編集へんしゅう]

根岸ねぎし競馬けいばじょうでの競馬けいば開催かいさい日本にっぽんレース・クラブの主催しゅさいわってからも、財政ざいせいめんでは苦境くきょうたされつづけた。世界せかいてききょうくわえ、初代しょだい大蔵おおくら大臣だいじんいた松方まつかたによる財政ざいせいなおしを目的もくてきとした『松方まつかたデフレ』とよばれる緊縮きんしゅく財政ざいせい政策せいさく国内こくない景気けいき後退こうたい。1884ねん明治めいじ17ねん)には「官営かんえい工場こうじょう払下はらいさがいそく」が制定せいてい支出ししゅつのかかる官営かんえい事業じぎょう次々つぎつぎ民間みんかんはらげられ、その一環いっかんとして共同きょうどう競馬けいば会社かいしゃたいする支援しえん停止ていしされた。この結果けっか根岸ねぎし競馬けいば1開催かいさいたいする政府せいふからの支出ししゅつがくは10ぶんの1以下いか減少げんしょうしたほか、1885ねん明治めいじ18ねん)からは陸軍りくぐんしょうのう商務省しょうむしょう外務省がいむしょう根岸ねぎし競馬けいばたいし、しょうてん寄贈きぞうなどの財政ざいせいてき支援しえん停止ていし陸軍りくぐんは1884ねん明治めいじ17ねん)にうま政局せいきょくから繁殖はんしょく除外じょがいしたほか、1886ねん明治めいじ19ねん)には軍馬ぐんばきょくもいったん廃止はいしのう商務省しょうむしょう競走きょうそうおも供給きょうきゅうもとだった下総しもうさ種畜しゅちくじょうを1885ねん明治めいじ18ねん)にみや内省ないせいげん宮内庁くないちょう)へ移管いかんした。これらの影響えいきょう陸軍りくぐんしょうのう商務省しょうむしょうから馬匹ばひつ出場しゅつじょうりやめられ、同年どうねん秋季しゅうき根岸ねぎし競馬けいばでは雑種ざっしゅ競走きょうそう激減げきげんした[2]

一方いっぽう根岸ねぎし競馬けいばじょうは「鹿しかかん外交がいこう」ともばれるように明治めいじ政府せいふ外交がいこう政策せいさくおも不平等ふびょうどう条約じょうやく改正かいせい)とも密接みっせつ関係かんけいをもっていたため、根岸ねぎし競馬けいばじょうへの明治天皇めいじてんのう行幸ぎょうこうは1881ねん明治めいじ14ねん)から1899ねん明治めいじ32ねん)まで16かいおよんだ[2]ほか、政財界せいざいかい要人ようじんつど社交しゃこうじょうとしての役割やくわりたした。1880ねん明治めいじ13ねん)には明治天皇めいじてんのうから花瓶かびん下賜かしされた競走きょうそう「Mikado's Vase(現在げんざい天皇てんのうしょうのルーツ)」がはじまり、1905ねん明治めいじ38ねん)には「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ、のちの帝室ていしつしょうてん)」へと発展はってんして天皇てんのうしょう前身ぜんしんとなった[2][17]

当時とうじ日本にっぽんでは社交しゃこうとしての競馬けいば重要じゅうようせい認識にんしきしていたが、馬匹ばひつ改良かいりょう重要じゅうようせい緊急きんきゅうせいはそれほどつよ認識にんしきされていなかった。しかし、松方まつかた財政ざいせい政策せいさく地方ちほううまさん縮小しゅくしょうし、うま不足ふそく深刻しんこくになっていた。さらにのう商務省しょうむしょう陸軍りくぐんしょうあいだうままさし方針ほうしんをめぐって対立たいりつしたことも影響えいきょうし、居留民きょりゅうみん競馬けいばへの意欲いよく後退こうたい1887ねん明治めいじ20ねん前後ぜんこうには存続そんぞくあやぶまれるような事態じたいにまでおちいった[2]

当初とうしょ目的もくてきだった不平等ふびょうどう条約じょうやく改正かいせい達成たっせいされたのち帝国ていこく主義しゅぎ時代じだいにおいて軍用ぐんようたす役割やくわりおおきく、軍用ぐんよう能力のうりょく水準すいじゅん陸軍りくぐんりょくにも直結ちょっけつしていた。日本にっぽん国土こくどせまいうえ山地さんちおおく、十分じゅうぶんかずうま確保かくほすることが困難こんなんだったうえ、馴致じゅんち調教ちょうきょう能力のうりょくひくく、兵器へいきとしてのうま性能せいのうはヨーロッパにくら大幅おおはばおとっていた。また、のうようについても小規模しょうきぼ区画くかく農地のうちまかなえる程度ていどりていたため、江戸えど時代じだいまでのうまさんたいする認識にんしき明治めいじはいってもそのままつづいていた。しかし、帝國ていこく陸海りくかいぐん近代きんだいするにつれて軍用ぐんようもとめられる役割やくわり能力のうりょくもより高度こうどしたため、馬匹ばひつ改良かいりょう兵士へいし騎乗きじょう能力のうりょく向上こうじょうもとめられるようになった。にちしん戦争せんそうにち戦争せんそう日本にっぽん軍用ぐんよう低質ていしつさが露呈ろていしたことで、競馬けいば優秀ゆうしゅううま選別せんべつする能力のうりょく検定けんていうまあやつ人間にんげん技術ぎじゅつ鍛錬たんれん目的もくてきえ、国策こくさく事業じぎょうとして奨励しょうれいされることになった。だいえい帝国ていこく王侯おうこう貴族きぞく競馬けいばそのものに価値かち見出みいだして保護ほごしてきたのにたいし、日本にっぽん競馬けいば政治せいじ権力けんりょく目的もくてき達成たっせいするための手段しゅだん(ツール)として利用りようされてきた歴史れきしがあり、このてん決定的けっていてきことなる[2]

根岸ねぎし競馬けいばじょうおこなわれた「Mikado's Vase」に系譜けいふをもち、各地かくちとし10かいおこなわれた帝室ていしつしょうてんは1937ねん昭和しょうわ12ねんあきからとし2かい開催かいさい集約しゅうやくされ、現在げんざい天皇てんのうしょうへとつづいているほか、1939ねん昭和しょうわ14ねん)には「横濱よこはま農林省のうりんしょうしょうてんよんさいよび現在げんざい皐月さつきしょう)」が創設そうせつされる[3][4]など、根岸ねぎし競馬けいばじょう現在げんざいにつながるだいレースの発祥はっしょうにもなっている[2][17]。このほか、現在げんざいじゅうしょう相当そうとうする「特殊とくしゅ競走きょうそう」として1928ねん昭和しょうわ3ねん)より横浜よこはま特別とくべつ、1938ねん昭和しょうわ13ねん)からは横浜よこはま農林省のうりんしょうしょうてんよんさいよびおこなわれた[18]

馬券ばけん発売はつばい根岸ねぎし競馬けいばじょう繁栄はんえい[編集へんしゅう]

根岸ねぎし競馬けいばじょう居留きょりゅうないにあったことから、治外法権ちがいほうけん適用てきようされていたため、当時とうじ日本にっぽん刑法けいほうでは禁止きんしされていた賭博とばく当初とうしょから公然こうぜんおこなわれていた。初期しょきしきは「ガラ」と通称つうしょうされるロッタリー方式ほうしきや、現在げんざい外国がいこくひろ採用さいようされているブックメーカー方式ほうしきおこなわれていたが、ロッタリー方式ほうしきではごくわずかな収益しゅうえき主催しゅさいしゃ支払しはらわれるだけで、大半たいはんはロッタリー主催しゅさいしゃ収益しゅうえきとなっていたため、おおくの競馬けいばじょう慢性まんせいてき赤字あかじ運営うんえいであった。競馬けいば開催かいさいするためには広大こうだい競馬けいばじょうのコース維持いじコストにくわえ、高価こうか競走きょうそうあつめるために高額こうがく賞金しょうきん用意よういしなければならないなど、多額たがく資金しきん必要ひつようとすることから、1888ねん明治めいじ21ねん)には現在げんざい中央ちゅうおう競馬けいば地方ちほう競馬けいばをはじめ日本にっぽん国内こくない公営こうえい競技きょうぎ幅広はばひろ採用さいようされているパリミュチュエル方式ほうしき馬券ばけん発売はつばい本格ほんかくてきおこなわれるようになった。パリミュチュエル方式ほうしき主催しゅさいしゃやオーナーによる不正ふせい排除はいじょ容易よういであることにくわえ、主催しゅさいしゃ収益しゅうえきがレース結果けっか左右さゆうされないため、購入こうにゅうしゃ安心あんしんして馬券ばけん購入こうにゅうできるうえ、主催しゅさいしゃにも安定あんていした多額たがく収益しゅうえきをもたらすこととなった[2]

主催しゅさいしゃ日本にっぽんレース・クラブがみずか馬券ばけんり、売上うりあげからもたらされた利益りえき貯蓄ちょちくしていくにつれて、それまで経済けいざいりょくのある内外ないがい会員かいいん明治めいじ政府せいふ援助えんじょたよっていた財政ざいせい基盤きばんみずか確立かくりつすることとなり、競馬けいばじょう解散かいさんするなかオーストラリアから洋種ようしゅごうサラ)を輸入ゆにゅうするなど、根岸ねぎし競馬けいばじょう独自どくじ発展はってんげていった。日本にっぽんレース・クラブは根岸ねぎし競馬けいばじょう周辺しゅうへん土地とち買収ばいしゅうしてゆき、1906ねん明治めいじ39ねん)には日本にっぽんで3番目ばんめ東日本ひがしにっぽんでははつとなるゴルフじょう建設けんせつ。これは日本にっぽんはつしばグリーンをゆうするゴルフじょうとなった。あわせてゴルフじょう管理かんり運営うんえい目的もくてきに「日本にっぽんレースクラブゴルフアソシエーション」を設立せつりつした[19][20]。1906ねん明治めいじ39ねん)に根岸ねぎし以外いがい競馬けいばじょうでも馬券ばけん発売はつばい黙許もっきょされたことで、翌年よくねんから全国ぜんこく競馬けいばブームがこった[2][17]

馬券ばけん発売はつばい黙許もっきょによって各地かくち競馬けいばじょうつくられたが、運営うんえいする組織そしきなかには営利えいり追求ついきゅうはし不正ふせいおこなものもあったため、1907ねん明治めいじ40ねん)10がつ5にち施行しこうされた刑法けいほう馬券ばけん発売はつばい禁止きんしされると、政府せいふからの補助ほじょきんによる競馬けいば補助ほじょきん競馬けいば)が細々こまごまつづけられた。このあいだ日本にっぽんレース・クラブは補助ほじょきんけずに独立どくりつ運営うんえいつづけ、ゴルフじょう収益しゅうえき財政ざいせいしたささえした[20]。1909ねん明治めいじ42ねん)にはロシアの競馬けいば倶楽部くらぶ日本にっぽんレース・クラブの共催きょうさいウラジオストクにておこなわれたにちだい競馬けいばかい多数たすう人馬じんば遠征えんせい、これが日本にっぽん調教ちょうきょうによるはつ海外かいがい遠征えんせいとされている[21][22]。1912ねん大正たいしょう元年がんねん)には日本にっぽんレース・クラブの会員かいいんがそれぞれ資金しきんい「コロネル・ボギー」という仮定かてい名称めいしょう競走きょうそう共同きょうどう所有しょゆうするようになり、現在げんざいの「一口ひとくち馬主ばしゅ・クラブ馬主ばしゅ」の先駆さきがけとなった[20]補助ほじょきん競馬けいばは(きゅう競馬けいばほうが1923ねん大正たいしょう12ねん)に成立せいりつし、馬券ばけん発売はつばい公認こうにんされるまでつづいた。(きゅう競馬けいばほう成立せいりつには全国ぜんこくで11の競馬けいば倶楽部くらぶ組織そしきされ、公認こうにん競馬けいばおこなうようになった。根岸ねぎし競馬けいばじょうでも日本にっぽんレース・クラブが主催しゅさいする公認こうにん競馬けいばおこなっていたが、同年どうねん発生はっせいした関東大震災かんとうだいしんさいにより秋季しゅうき根岸ねぎし競馬けいば開催かいさい見送みおくられ、翌年よくねんはる再開さいかいされた[4]関東大震災かんとうだいしんさい半壊はんかいしたスタンドは仮設かせつのバラックをて1929ねん昭和しょうわ4ねん)から新築しんちく工事こうじおこなわれ、一等いっとう馬見うまみしょとう馬見うまみしょなどのしょ施設しせつ完成かんせいした[1]

だい世界せかい大戦たいせん影響えいきょう競馬けいばじょう終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

1931ねん昭和しょうわ6ねん)に発生はっせいしたやなぎじょうみずうみ事件じけんはしはっする満州まんしゅう事変じへんから、日本にっぽん中華民国ちゅうかみんこくとのながたたかにちちゅう戦争せんそう)にすすみ、国内こくないでも戦時せんじ体制たいせいすすんだ。そんななか、1936ねん昭和しょうわ11ねん)に(きゅう競馬けいばほう改正かいせいされると、全国ぜんこく競馬けいば倶楽部くらぶ解散かいさんし、「日本にっぽん競馬けいばかい」に統合とうごうされた。日本にっぽんレース・クラブも1937ねん昭和しょうわ12ねん)10がつ吸収きゅうしゅうされ、開設かいせつ以来いらい使用しようされてきた根岸ねぎし競馬けいばじょう名称めいしょうも「日本にっぽん競馬けいばかい横浜よこはま競馬けいばじょう」にあらためられた[4]

次第しだい戦時せんじしょくくなっていく世相せそうなかでも、競馬けいば市民しみんのレジャーとしてひろ認知にんちされ、横浜よこはまをはじめとするかく競馬けいばじょう入場にゅうじょうしゃすう売上うりあげともに順調じゅんちょう成長せいちょうしていたが、一方いっぽうで1940ねん昭和しょうわ15ねん)には横浜よこはま競馬けいばじょうちょうのステーツ・アイザックスが老齢ろうれい理由りゆう更迭こうてつされるなど、外国がいこくじん排斥はいせき顕著けんちょになっていった[23]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)にだい東亜とうあ戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそうだい世界せかい大戦たいせん)が開戦かいせんすると、横浜よこはま競馬けいばじょうのクラブハウスは神奈川かながわけん警察けいさつによりてき国民こくみんあいだじん収容しゅうようしょ衣替ころもがえされた。よく1942ねん昭和しょうわ17ねん)には軍港ぐんこう一望いちぼうできる立地りっちという理由りゆう作戦さくせんじょう必要ひつよう施設しせつであるとして海軍かいぐんしょう接収せっしゅうされ、横浜よこはま競馬けいば開催かいさい中止ちゅうしまれた[3][4]横浜よこはま競馬けいばじょうは1943ねん昭和しょうわ18ねん)6がつ10日とおか閉場へいじょうし、76ねんにわたる競馬けいば開催かいさい歴史れきし終止符しゅうしふたれた[4]同年どうねん横浜よこはま競馬けいばじょう予定よていしていた競馬けいば春季しゅんき東京競馬場とうきょうけいばじょう秋季しゅうき中山なかやま競馬けいばじょう代替だいたい開催かいさいした[24][25]

閉場へいじょう帝國ていこく海軍かいぐん売却ばいきゃくされ、クラブハウスは連合れんごうこく民間みんかんじん抑留よくりゅうしょとして戦時せんじ交換こうかんせんるまで使用しようされたほか、スタンドには機密きみつ文書ぶんしょなどを手掛てがける「ぶんことぶきどう」の印刷いんさつ工場こうじょうかれた[26]

横浜よこはま競馬けいばじょう土地とち施設しせつ譲渡じょうとさいし、だい2だい日本にっぽん競馬けいばかい理事りじちょう安田やすだ左衛門さえもん大本営だいほんえい陸軍りくぐんたいし、条件じょうけんとして代替だいたい用地ようち斡旋あっせんもとめた。競馬けいばかいがわ候補こうほ検討けんとう結果けっか神奈川かながわけん高座こうざぐん相模原さがみはらまちきゅうだい野村のむらげん相模原さがみはらみなみ相模大野さがみおおのおよび上鶴間かみつるま)の東急とうきゅうげん小田急電鉄おだきゅうでんてつ小田原線おだわらせん相模大野さがみおおのえき南側みなみがわどうえきからかれる江ノ島線えのしません沿線えんせん付近ふきん移転いてん候補こうほさだめ、1しゅう2400mの馬場ばばと70むね厩舎きゅうしゃようする競馬けいばじょう建設けんせつ計画けいかくうえぐんたい土地とち斡旋あっせん資材しざい提供ていきょう要請ようせいおこなったが、すで戦争せんそう末期まっき戦局せんきょく悪化あっか一途いっとをたどっていた。こうして安田やすだ日本にっぽん競馬けいばかい要請ようせいかえ拒否きょひされたすえ終戦しゅうせん時間切じかんぎれとなってしまい、あらたな競馬けいばじょう建設けんせつかなわなかった[27]

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

日本にっぽん競馬けいばかいにとって、接収せっしゅうされ閉場へいじょうまれた横浜よこはま競馬けいばじょう復活ふっかつ問題もんだい重要じゅうよう関心事かんしんじだったため、安田やすだ終戦しゅうせん直後ちょくご1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ29にちから、政府せいふたいしてかえ横浜よこはま競馬けいばじょう返還へんかん要請ようせいしていた[28]。しかし、だい64だい外務がいむ大臣だいじん重光しげみつまもる降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんした翌日よくじつ同年どうねん9がつ3にち市内しない軍用ぐんよう施設しせつ同様どうように、進駐しんちゅうしてきた占領せんりょうぐんおもアメリカ陸軍りくぐん)に接収せっしゅうされた。その1946ねん昭和しょうわ21ねんれにふたたはらげを申請しんせいしたが、進捗しんちょくはなかった[28]

ところが1947ねん昭和しょうわ22ねん)になって、かつての日本にっぽんレース・クラブの会員かいいんで、占領せんりょうぐんともかかわりがあり、かつ神奈川かながわ県知事けんちじより、慰安いあん目的もくてき競馬けいば各種かくしゅスポーツの開催かいさい目的もくてきとした社団しゃだん法人ほうじんとして設立せつりつ認可にんかた「インターナショナル・レースクラブ」理事りじちょうのC・H・モスが、だい45だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん吉田よしだしげるたい横浜よこはま競馬けいばじょう貸付かしつけを申請しんせいした[28]。このことをって危機ききかんった安田やすだ日本にっぽん競馬けいばかいは、はら申請しんせいから使用しよう許可きょか申請しんせい変更へんこうして対抗たいこうした結果けっか同年どうねん7がつ吉田よしだのちけただい46だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん片山かたやまあきらによって競馬けいばじょうはらさききゅう所有しょゆうしゃ日本にっぽん競馬けいばかいとするむね決定けっていがなされた[29]使用しようしゃ問題もんだい決着けっちゃくたものの、スタンドはアメリカぐん印刷いんさつ工場こうじょうとしてつづぶんことぶきどう使用しようしたのち、アメリカぐん住宅じゅうたく管理かんり事務所じむしょとして使用しようされた。馬場ばば軍用ぐんようトラックなどの駐車ちゅうしゃじょう転用てんようされたほか、馬場内ばばうちゴルフじょう復活ふっかつするなど、そのままでは競馬けいばじょうとして使用しよう不可能ふかのう状況じょうきょうのうえ[30]接収せっしゅう解除かいじょ大幅おおはばおくれた[28]

1964ねん昭和しょうわ39ねん)にようやく一部いちぶ施設しせつ接収せっしゅう解除かいじょされ、その土地とちだい部分ぶぶん1969ねん昭和しょうわ44ねん)に米国べいこくから日本にっぽん政府せいふ返還へんかんされた。1973ねん昭和しょうわ48ねん)には解散かいさんした日本にっぽん競馬けいばかいから国営こくえい競馬けいばて1954ねん昭和しょうわ29ねん)に設立せつりつされた日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい(NCK。げん・JRA)に政府せいふから敷地しきちだい部分ぶぶんはらげられ[28]形式けいしきじょうはNCKが東京競馬場とうきょうけいばじょう厩舎きゅうしゃ地区ちく移設いせつする目的もくてき東京とうきょう八王子はちおうじ片倉かたくらまちげんみなみ現在げんざいJR横浜よこはません八王子はちおうじみなみえき周辺しゅうへん一帯いったい取得しゅとくしていた土地とちとの交換こうかん[31])、30ねんぶりに横浜よこはま競馬けいばじょう中央ちゅうおう競馬けいば施行しこうしゃ所有しょゆうとなった[32]。しかし、接収せっしゅうされていたあいだ周囲しゅうい住宅じゅうたくしたほか、敷地しきち一部いちぶべいぐん住宅じゅうたく根岸ねぎし住宅じゅうたく地区ちく)がのこされていたこと、さらにNCK所管しょかんほか競馬けいばじょう近代きんだい大型おおがたすすみ、くわえて普通ふつう鉄道てつどうえきからはなれた鉄道てつどう空白くうはく地帯ちたいである[ちゅう 1]うえ再開さいかいされた場合ばあい競馬けいばじょうへの唯一ゆいいつ軌道きどうけい交通こうつう手段しゅだんになると期待きたいされた横浜よこはま市電しでん廃止はいしされていた横浜よこはま競馬けいばじょうを、返還へんかん近代きんだいてき中央ちゅうおう競馬けいば開催かいさい施設しせつとして復活ふっかつさせることは現実げんじつてき選択せんたくではなくなっていた。

結局けっきょく競馬けいばじょうとして再開さいかいされることはなく、公園こうえんとして整備せいびされることになり、1977ねん昭和しょうわ52ねん)には横浜よこはま大蔵省おおくらしょう理財りざいきょくから無償むしょうけて整備せいびした「根岸ねぎし森林公園しんりんこうえん[33][34]」とNCKによって整備せいびされた「根岸ねぎし競馬けいば記念きねんこうえん」および「うま博物館はくぶつかん」がもうけられた[28][35]

1948ねん昭和しょうわ23ねん)に制定せいていされた(しん競馬けいばほうでは、横浜よこはま競馬けいばじょう同様どうよう戦時せんじちゅう開催かいさい休止きゅうしされた宮崎みやざき競馬けいばじょうとともに、返還へんかんも「開催かいさい休止きゅうしちゅう競馬けいばじょう」としてながらくあつかわれ、法律ほうりつじょうは1991ねん平成へいせい3ねん)まで存在そんざいしていた[6][36][ちゅう 2]競馬けいばほうだい2じょうで「中央ちゅうおう競馬けいば競馬けいばじょうは、12箇所かしょ以内いない」とされている[38]のは、現在げんざい中央ちゅうおう競馬けいば開催かいさいされている10かしょくわえ、横浜よこはま宮崎みやざきふくまれていた名残なごりである。なお、競馬けいばほう施行しこう規則きそくだい1じょうでは、中央ちゅうおう競馬けいば開催かいさいする競馬けいばじょうを「札幌さっぽろ函館はこだて福島ふくしま新潟にいがた中山なかやま東京とうきょう中京ちゅうきょう京都きょうと阪神はんしん小倉こくら」の10かしょさだめている[39]

遺構いこう[編集へんしゅう]

東京とうきょうきゅう丸ノ内まるのうちビルヂングの設計せっけい手掛てがけたアメリカじん建築けんちくJ・H・モーガンによって設計せっけい前述ぜんじゅつ)され、1929ねん昭和しょうわ4ねん)に竣工しゅんこうした一等いっとう馬見うまみしょとう馬見うまみしょの2つの観客かんきゃくスタンド、および下見したみしょ(パドック)は、馬場ばばよりもおくれて1981ねん昭和しょうわ56ねん)に接収せっしゅう解除かいじょされ、1987ねん昭和しょうわ62ねん)には横浜よこはまくにから馬見うまみしょ土地とち建物たてもの購入こうにゅうし、活用かつよう方法ほうほう模索もさくしたが、「べいぐん敷地しきち見渡みわたせる」として眺望ちょうぼうふたた問題もんだいされ、活用かつよう計画けいかくてられなかった[6][7]日本にっぽん建築けんちく学会がっかい同年どうねん、「貴重きちょう歴史れきしてき文化ぶんか遺産いさん」として横浜よこはま保存ほぞんもうれた[1][40]が、とう馬見うまみしょ下見したみしょは1988ねん昭和しょうわ63ねん)に老朽ろうきゅうのため解体かいたいされた[34]

横浜よこはま競馬けいばじょう遺構いこうとして根岸ねぎし森林公園しんりんこうえんうち唯一ゆいいつ現存げんそんする一等いっとう馬見うまみしょは、2009ねん平成へいせい21ねん)に経済けいざい産業さんぎょうしょうによって近代きんだい産業さんぎょう遺産いさん認定にんていされた[16][34]ものの、建物たてもの周囲しゅういかこうなど最低限さいていげん管理かんりおこなわれているのみで、建物たてもの本体ほんたい修復しゅうふく返還へんかん以来いらいほとんどほどこされておらず、立入禁止たちいりきんしとなっている[7][40]。2015ねん平成へいせい27ねん)には特定とくてい営利えいり活動かつどう法人ほうじん引退いんたい協会きょうかい」および「歴史れきしてき建造けんぞうぶつとまちづくりのかい」が共同きょうどうで、文化財ぶんかざいとして保存ほぞん活用かつようするようもとめる要望ようぼうしょ横浜よこはま提出ていしゅつ[1]横浜よこはま一等いっとう馬見うまみしょ老朽ろうきゅうすすんでいることにくわえ、隣接りんせつする「根岸ねぎし住宅じゅうたく地区ちく」の返還へんかん日米にちべいあいだ合意ごういされたこともあり、横浜よこはま建物たてもの改修かいしゅう保全ほぜんおこなったうえで、返還へんかんされた根岸ねぎし住宅じゅうたく地区ちく跡地あとち利用りようじょうきょうながら今後こんご活用かつよう方法ほうほうについて検討けんとうすることが2021ねんれい3ねん)5がつ16にちほうじられた[7]

画像がぞう[編集へんしゅう]

競馬けいばじょう当時とうじ[編集へんしゅう]

遺構いこう関連かんれん[編集へんしゅう]

横浜よこはま競馬けいばじょう記念きねんして[編集へんしゅう]

東京競馬場とうきょうけいばじょうでは、横浜よこはま根岸ねぎし競馬けいばじょうにちなんだじゅうしょう競走きょうそう根岸ねぎしステークスGIII、ダート1400m)」が施行しこうされている。この競走きょうそうは2がつ東京競馬場とうきょうけいばじょうおこなわれるフェブラリーステークスGI)の前哨ぜんしょうせんとされ、1ちゃく優先ゆうせん出走しゅっそうけん付与ふよされる[41]

なお、東京競馬場とうきょうけいばじょうのメインスタンドとなる「フジビュースタンド」には、きゅう横浜よこはま競馬けいばじょう一等いっとう馬見うまみしょのデザインが一部いちぶ採用さいようされている[1]

交通こうつう情報じょうほう[編集へんしゅう]

きゅう根岸ねぎし競馬けいばじょう一等いっとう馬見うまみしょあと神奈川かながわけん横浜よこはまちゅう簑沢みのさわ根岸ねぎし森林公園しんりんこうえんうち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • うま博物館はくぶつかん へん根岸ねぎしもり物語ものがたり : 競馬けいば横浜よこはままれそだった』神奈川新聞社かながわしんぶんしゃ〈かなしんブックス 42〉、1995ねん11月。ISBN 487645194XNCID BN13382776OCLC 708417419 
  • 日本にっぽん近代きんだい競馬けいば総合そうごう年表ねんぴょう中央ちゅうおう競馬けいば振興しんこうかい、2018ねん11月。 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ JR根岸線ねぎしせん山手やまてえきからあるけないことはないが、実際じっさい競馬けいば再開さいかいする場合ばあいは、東京競馬場とうきょうけいばじょう西門にしもんとJR南武線なんぶせん府中ふちゅう本町ほんちょうえきをつないでいるような専用せんよう歩道橋ほどうきょう整備せいび必要ひつようとなる。なお中山なかやま競馬けいばじょうも、1978ねんにJR武蔵野線むさしのせん開業かいぎょうするまえは、最寄もよりの京成けいせい本線ほんせん東中山ひがしなかやまえきまでやく2Kmはなれ、徒歩とほで20ふんようする鉄道てつどう空白くうはく地帯ちたいだった。
  2. ^ 競馬けいばほう改正かいせいねんを1994ねん平成へいせい6ねん)とする文献ぶんけんもある[37]

出典しゅってん

  1. ^ a b c d e f g h "「ハイカラケイバをはじめてこう(そうろう)」コラム2~いま現存げんそんするきゅう根岸ねぎし競馬けいばじょう一等いっとう馬見うまみしょ~". 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんごと文化ぶんか財団ざいだん. 2021ねん5がつ24にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 日本にっぽんがた収益しゅうえき事業じぎょう」の形成けいせい過程かてい : 日本にっぽん競馬けいば事業じぎょうつうじて(ちょ萩野はぎのひろしゆう、2004ねん - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんサーチ、2021ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d "近代きんだい競馬けいば発祥はっしょう 横浜よこはま根岸ねぎしたずねて". 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん電子でんしばん. 日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ. 30 September 2017. 2021ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f "横浜よこはまうま競馬けいば歴史れきし根岸ねぎし横浜よこはま競馬けいばじょう悲運ひうん幕切まくぎれ~76年間ねんかん開催かいさいにピリオド". 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんごと文化ぶんか財団ざいだん. 2021ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  5. ^ うま博物館はくぶつかん へん 1995, pp. 94–95
  6. ^ a b c d “「おかうえ」からはじまった 根岸ねぎし競馬けいばじょう数奇すうき運命うんめい. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. (2016ねん2がつ20日はつか). https://www.nikkei.com/article/DGXKZO97485450Z10C16A2L83000/ 2021ねん6がつ19にち閲覧えつらん 
  7. ^ a b c d "きゅう根岸ねぎし競馬けいばじょうの「馬見うまみしょ改修かいしゅう保全ほぜん横浜よこはま活用かつよう検討けんとう". 毎日新聞まいにちしんぶん. 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ. 16 May 2021. 2021ねん5がつ22にち閲覧えつらん
  8. ^ 日本にっぽん中央ちゅうおう競馬けいばかい日本にっぽんレース・クラブじゅうねん』1970ねんとびら写真しゃしん説明せつめい
  9. ^ "横浜よこはまうま競馬けいば歴史れきし開港かいこう前後ぜんこう横浜よこはま開港かいこうまえちいさな漁村ぎょそん開港かいこう急速きゅうそく発展はってん". 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんごと文化ぶんか財団ざいだん. 2021ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  10. ^ 立川たちかわ健治けんじ文明開化ぶんめいかいか馬券ばけんう-日本にっぽん競馬けいば誕生たんじょう-』 競馬けいば社会しゃかい叢書そうしょ(1)、書房しょぼう、2008ねん。P169
  11. ^ "関西かんさい西洋せいようしき競馬けいば 神戸こうべ発祥はっしょう(もっと関西かんさい)". 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. 日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ. 31 May 2018. 2021ねん7がつ24にち閲覧えつらん
  12. ^ "近代きんだい競馬けいば150周年しゅうねん記念きねん特設とくせつページ". 地方競馬全国協会ちほうけいばぜんこくきょうかい. 2021ねん5がつ24にち閲覧えつらん
  13. ^ "だい1かい幕末ばくまつ動乱どうらん外国がいこくじん殺傷さっしょう事件じけん生麦なまむぎ事件じけん(その2)". 横浜よこはま鶴見つるみ. 2021ねん7がつ6にち閲覧えつらん
  14. ^ "横浜よこはまうま競馬けいば歴史れきし洋式ようしき競馬けいば幕開まくあけ~幕末ばくまつ横浜よこはまにもたらされた最初さいしょのスポーツ". 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんごと文化ぶんか財団ざいだん. 2021ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  15. ^ a b "横浜よこはまうま競馬けいば歴史れきし~「根岸ねぎし競馬けいばじょう竣工しゅんこう居留きょりゅう外国がいこくじん切望せつぼうした本格ほんかくてき洋式ようしき競馬けいばじょう". 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんごと文化ぶんか財団ざいだん. 2021ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  16. ^ a b 近代きんだい産業さんぎょう遺産いさんぐん ぞく33(19.きゅう居留きょりゅうみなもととして各地かくち普及ふきゅうした近代きんだい娯楽ごらく産業さんぎょう発展はってんあゆみを物語ものがた近代きんだい産業さんぎょう遺産いさんぐん、P66 - P68) (PDF) - 経済けいざい産業さんぎょうしょう、2021ねん5がつ26にち閲覧えつらん
  17. ^ a b c "横浜よこはまうま競馬けいば歴史れきし洋式ようしき競馬けいばのモデルとして~根岸ねぎし競馬けいばじょう中心ちゅうしんに、いしずえきずかれた明治めいじ競馬けいば". 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんごと文化ぶんか財団ざいだん. 2021ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  18. ^ 日本にっぽん競馬けいば だい3かん - 各地かくち競馬けいばじょうあゆみ』(日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1972ねん
  19. ^ うま博物館はくぶつかん へん 1995, p. 62
  20. ^ a b c "「ハイカラケイバをはじめてこう(そうろう)」コラム1~クラブ馬主ばしゅ先駆さきが日本にっぽんはつ洋式ようしき競馬けいばじょう根岸ねぎし競馬けいばじょう東日本ひがしにっぽんはつのゴルフじょうもオープンしていました". 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんごと文化ぶんか財団ざいだん. 2021ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  21. ^ ゆう駿しゅん』1990ねん11がつごう、pp.65-74
  22. ^ 日本にっぽん競馬けいばだい2かん)』pp.83-87
  23. ^ うま博物館はくぶつかん へん 1995, pp. 103–106
  24. ^ "横浜よこはま根岸ねぎし競馬けいばじょう". 田内たうち昻作. 2021ねん6がつ16にち閲覧えつらん(「昭和しょうわじゅうはちねん春季しゅんき競馬けいば開催かいさい日割ひわり」の画像がぞう説明せつめい横浜よこはま競馬けいば開催かいさいされなかったと記載きさいされ、横浜よこはま競馬けいば東京競馬場とうきょうけいばじょうおこなうと記載きさいされた画像がぞうがある。また、「昭和しょうわじゅうはちねん秋季しゅうき横浜よこはま競馬けいば開催かいさい成績せいせき(於:中山なかやま競馬けいばじょう)」の画像がぞうもある。
  25. ^ 中央ちゅうおう競馬けいば振興しんこうかい 2018, p. 122
  26. ^ うま博物館はくぶつかん へん 1995, pp. 112–119
  27. ^ 日本にっぽん競馬けいばまきろく」(日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1972ねん)p540-546。p546には競馬けいばじょう平面へいめん掲載けいさいされている。
  28. ^ a b c d e f "横浜よこはまうま競馬けいば歴史れきし根岸ねぎし競馬けいばじょう跡地あとち市民しみんいこいの名所めいしょへ~戦後せんご根岸ねぎし横浜よこはま競馬けいば". 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんごと文化ぶんか財団ざいだん. 2021ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  29. ^ 日本にっぽん競馬けいばまきなな」(日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1975ねん)p423-429。
  30. ^ 横浜よこはまべいぐん基地きち CityOfYokohama
  31. ^ 中央ちゅうおう競馬けいば振興しんこうかい 2018, pp. 195–196
  32. ^ "JRAのあゆみ(JRAの概要がいよう)". 日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい. 2021ねん5がつ24にち閲覧えつらん
  33. ^ 磯子いそご歴史れきし年表ねんぴょう磯子いそご区役所くやくしょかん
  34. ^ a b c "根岸ねぎし森林公園しんりんこうえんなか)". 横浜よこはま. 2021ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  35. ^ ちゅう歴史れきし年表ねんぴょう ちゅう総務そうむせい推進すいしん
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  37. ^ うま博物館はくぶつかん へん 1995, p. 125
  38. ^ 競馬けいばほう (PDF) - 日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、2021ねん5がつ25にち閲覧えつらん
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  40. ^ a b "一等いっとう馬見うまみしょ歴史れきし遺産いさん横浜よこはまきゅう根岸ねぎし競馬けいばじょう 専門せんもんうごき". カナロコ. 神奈川新聞社かながわしんぶんしゃ. 15 October 2018. 2021ねん5がつ26にち閲覧えつらん
  41. ^ 2021年度ねんどだい1かい東京とうきょう競馬けいば特別とくべつレースめい解説かいせつ (PDF) - 日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、2021ねん5がつ23にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]