柳家やなぎやつばめ (5代目だいめ)

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代目だいめ 柳家やなぎややなぎや つばめ
本名ほんみょう 木村きむらきむら 栄次郎えいじろうえいじろう
生年月日せいねんがっぴ 1928ねん4がつ30にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1974-09-30) 1974ねん9月30にち(46さいぼつ
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん宮城みやぎけん石巻いしのまき
師匠ししょう 代目だいめ柳家やなぎやさん
弟子でし 柳家やなぎやとんぼ
柳家やなぎやほたる
柳家やなぎやゆきすすむ
名跡みょうせき 1. 柳家やなぎやしょうしん
(1952ねん - 1954ねん
2. 代目だいめ柳家やなぎや小山三こさんざ
(1954ねん - 1960ねん
3. ゆめ月亭つきてい歌麿うたまろ
(1960ねん - 1963ねん
4. 代目だいめ柳家やなぎやつばめ
(1963ねん - 1974ねん
囃子ばやし そとざる
活動かつどう期間きかん 1952ねん - 1974ねん
活動かつどう内容ないよう 新作しんさく落語らくご
所属しょぞく 落語らくご協会きょうかい

代目だいめ柳家やなぎや つばめ(やなぎや つばめ、1928ねん4がつ30にち - 1974ねん9月30にち)は、落語らくご本名ほんみょう木村きむら 栄次郎えいじろう囃子ばやしは『そとざる』。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

宮城みやぎけん石巻いしのまき出身しゅっしん大学だいがくそつ落語らくごだいいちごう國學院大學こくがくいんだいがく卒業そつぎょう神奈川かながわけん藤沢ふじさわ中学校ちゅうがっこう教師きょうし1952ねん4がつ代目だいめ柳家やなぎやさん入門にゅうもんしてしょうしん名乗なのる。

1954ねん3がつ昇進しょうしん代目だいめ柳家やなぎや小山三こさんざ襲名しゅうめい1960ねん2がつゆめ月亭つきてい歌麿うたまろ改名かいめいする。

1963ねん3月、なな代目だいめ立川談志たてかわだんしとも真打しんうち昇進しょうしん代目だいめ柳家やなぎやつばめ襲名しゅうめい

1974ねん肝硬変かんこうへんにより死去しきょ享年きょうねん46。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

しん絵心えごころもあって楽屋がくや楽屋がくやちょうもビラ文字もじ寄席よせ文字もじ)で丁寧ていねいいていた。高座こうざでは似顔絵にがおええが演出えんしゅつこころみ、漫画まんが清水しみずこんにも入門にゅうもん雑誌ざっしとう文章ぶんしょう掲載けいさいされるほどの腕前うでまえであった。高座こうざえがいたこともあった。

落語らくご前座ぜんざ時代じだい古典こてん落語らくごえんじたがのち新作しんさく落語らくご中心ちゅうしんで、『はらぺこ太平たいへい』『歯科しか恐怖きょうふ』『トイレット部長ぶちょう』『わらいの研究けんきゅう』『佐藤さとう栄作えいさく正体しょうたい』など才気さいきあふれるものであった。当時とうじ政治せいじ社会しゃかい風刺ふうしした『つばめ政談せいだん』は、単行本たんこうぼんにもなっている。とく当時とうじ首相しゅしょう題材だいざいにした『佐藤さとう栄作えいさく正体しょうたい』はNETテレビえんじたさい政府せいふからクレームが放送ほうそう禁止きんしになっている[1]

もんは「髑髏しゃれこうべ」。

おおらかな性格せいかくで、内弟子うちでし時代じだい師匠ししょうちいさんよりもおそきたことをしかられても「わたしじゅう時間じかんないとあたまがはっきりしません。」とってのけたことがあった。そんなところがかえってさんにられ、将来しょうらい一門いちもんひきいる逸材いつざいされていた。それだけに、かれはやぎるさんにおおきな衝撃しょうげきあたえ、告別こくべつしきではあえて自身じしんだし囃子ばやしじょまい』をながし、あいさつでは男泣おとこなきにいて言葉ことばないほどであった。

芸歴げいれき[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

弟子でし[編集へんしゅう]

つばめ死後しご全員ぜんいん代目だいめ柳家やなぎやさん門下もんか

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 放送ほうそうできないテレビの内幕うちまく自由じゆう国民こくみんしゃ、1968ねん10がつ30にち、138ぺーじ 
  2. ^ 落語らくご世界せかい河出かわで文庫ぶんこ解説かいせつ大友おおともひろし

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • しょげい懇話こんわかい大阪おおさか芸能げいのう懇話こんわかい共編きょうへん)『古今ここん東西とうざい落語らくご事典じてん平凡社へいぼんしゃISBN 458212612X