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栃本とちもと関所せきしょ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
栃本とちもと関所せきしょ(新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう. まき264 秩父ちちぶぐん19に[1]。)。
栃本関所の位置(日本内)
栃本関所
栃本とちもと関所せきしょ位置いち
秩父ちちぶ往還おうかん設置せっちされた栃本とちもと関所せきしょ位置いち[✝ 1]

栃本とちもと関所せきしょ(とちもとせきしょ)は、武蔵むさしこく甲斐かいこくあいだ雁坂峠かりさかとうげしてつうじる秩父ちちぶ往還おうかん別称べっしょう甲州こうしゅう裏街道うらかいどう)にあった関所せきしょのひとつ[2]

別称べっしょう菅平すがだいらせきがある[3]栃本とちもと関所せきしょ廃止はいし、その跡地あとちは、「とち本関ほんせきあと」としてくに史跡しせき指定していされた[4]現在げんざい埼玉さいたまけん秩父ちちぶ大滝おおたきむら栃本とちもと相当そうとうする[2]

概要がいよう[編集へんしゅう]

栃本とちもと関所せきしょは、武蔵むさし甲斐かいあいだつうじる雁坂峠かりさかとうげ秩父ちちぶ往還おうかんたけしゅうかれた山間さんかん関所せきしょである。現在げんざい埼玉さいたまけん秩父ちちぶ大滝おおたきむら栃本とちもと相当そうとうする[5]菅平すがだいら宿やどせっしていることから、別称べっしょう菅平すがだいらせきがある[3][✝ 2]

栃本とちもと関所せきしょ番頭ばんがしら大村おおむらつとめていた。

戦国せんごく時代じだいは、てき侵攻しんこうたいする要衝ようしょうとされていたが、江戸えど時代じだいには警備けいびとなっていた[6]栃本とちもと関所せきしょは、江戸えど時代じだい成立せいりつ以前いぜん軍事ぐんじてき警備けいび目的もくてきとしたが、江戸えど時代じだいには、「にゅう鉄炮てっぽうおんな」の監視かんし役割やくわりたした。また、栃本とちもとおくにあったしんさわまたさわ小荒川こあらかわ金山かなやま監視かんし重要じゅうよう役割やくわりであった。

寛永かんえい8ねん1631ねん栃本とちもと関所せきしょ警備けいび強化きょうかのため、たけしゅう麻生あそうむら甲州こうしゅう河本かわもとむら番所ばんしょ設置せっちされ、麻生あそう番所ばんしょ川浦かわうら番所ばんしょ[✝ 3]とされた。関守せきもりは、栃本とちもと上中かみなかしもおさめ大久保おおくぼよんくみ栃本とちもと関所せきしょ麻生あそう番所ばんしょ警備けいびつとめた[6]

栃本とちもと麻生あそうあつかいは、関所せきしょ番所ばんしょくちとめ番所ばんしょなどがみられ、統一とういつされていない。また、『諸国しょこく関所せきしょ覚書おぼえがき』には、栃本とちもと関所せきしょ記載きさいはない。

関所せきしょ廃止はいしは、慶応けいおう4ねん1868ねん)8がつ通達つうたつがあるが、くちとめ番所ばんしょ廃止はいし通達つうたつがない。そのため、よく明治めいじ2ねん1869ねん)に岩鼻いわはなけんうかがいの上番じょうばんしょ廃止はいし関門かんもんはらっている。その関所せきしょあとは、1970ねん昭和しょうわ45ねん)に「とち本関ほんせきあと」としてくに史跡しせき指定していされている。

栃本とちもと関所せきしょ位置いち[編集へんしゅう]

栃本とちもと位置いち(「元禄げんろく年中ねんじゅう改定かいてい」(秩父ちちぶぐん新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう[7]。)

栃本とちもと関所せきしょ位置いちは、秩父ちちぶぐんふる大滝おおたきむら栃本とちもとかれていた[3]荒川あらかわきざんだふかいV渓谷けいこくきゅう勾配こうばいじょう要害ようがい堅固けんご立地りっちする[4]栃本とちもとは、江戸えどから中山道なかせんどうて35川越かわごえ街道かいどうて31さとはん青梅おうめ街道かいどうより27さとあり[3]栃本とちもとから雁坂峠かりさかとうげえる甲州こうしゅうへとつうじ、三国峠みくにとうげ十文字峠じゅうもんじとうげなどで信州しんしゅううえしゅうにもつうじていた[4]

栃本とちもと関所せきしょ設置せっち管理かんり[編集へんしゅう]

関所せきしょ設置せっち[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだい

栃本とちもと関所せきしょ設置せっちは、『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』によると戦国せんごく時代じだい武田たけだ信玄しんげん秩父ちちぶ浸入しんにゅうさいもうけられたとされ[4]ばん家臣かしん山中さんちゅうみぎうままこととし、たけしゅうからの侵攻しんこうそなえたといわれている[6][1]

江戸えど時代じだい

慶長けいちょう19ねん1614ねん山中さんちゅうすすむ追放ついほうされ[8]関東かんとう代官だいかん伊奈いな忠治ただはる忠治ただはる大村おおむら関所せきしょばんとし、関所せきしょ廃止はいしまで大村おおむら関所せきしょばんとなっていた[3][6]寛永かんえい8ねん1631ねん)には、警備けいび強化きょうかのため、たけしゅう麻生あそうむら甲州こうしゅう河本かわもとむら番所ばんしょ指定していされた[6]江戸えどより西方せいほう秩父ちちぶぐん三峯みつみね神社じんじゃちかくにかれ、甲斐かいとの往来おうらいまった[9]

別称べっしょうについて

栃本とちもと関所せきしょ別称べっしょうには、菅平すがだいら宿やどせっしていたことから、菅平すがだいらせきがあったとする意見いけんがあるが[3][10]栃本とちもと菅平すがだいら集落しゅうらくことなり、むしろ両者りょうしゃ別々べつべつのもので、最初さいしょ菅平すがだいらせきがあって、のち栃本とちもと移転いてんしたものとする意見いけんもある [11]

関所せきしょばん[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい栃本とちもと関所せきしょ関東かんとう代官だいかん伊奈いな忠治ただはる忠治ただはる大村おおむら関所せきしょばんとし[6]、「大村おおむら累代るいだい大村おおむら文書ぶんしょによると大村おおむら関所せきしょ廃止はいしまで番頭ばんがしら世襲せしゅうしていた[12]

のべとおる元年がんねんには関守せきもり二人ふたり扶持ふちあたえられるようになった[13]天明てんめい8ねん1788ねん)の明細めいさいむらかんじょうちょう山中さんちゅう文書ぶんしょ)には、そうめい番組ばんぐみしょうされた栃本とちもと上中かみなかしもおさめ大久保おおくぼよんくみ栃本とちもと関所せきしょ麻生あそう番所ばんしょ警備けいびつとめた[14]

番所ばんしょ[編集へんしゅう]

麻生あそう番所ばんしょ
寛永かんえい8ねん1631ねん)には、大岡おおおか忠左衛門ちゅうざえもん黒川くろかわはち左衛門さえもん巡見じゅんけんし、栃本とちもと関所せきしょ警備けいび強化きょうかのため、雁坂かりさかどおりの麻生あそうむら甲州こうしゅうがわ河本かわもとむら栃本とちもと関所せきしょ番所ばんしょ指定してい[6]麻生あそうむら番所ばんしょでは名主なぬしせんとう六郎ろくろう左衛門さえもんあたまとし、小西こにし大久保おおくぼ梅久保うめのくぼ井上いのうえ牛尾うしお百姓ひゃくしょう24にんを5人組にんぐみとし番所ばんしょ勤務きんむめいじたとするものや[3]麻生あそう番所ばんしょは、大滝おおたきむら名主なぬし六郎兵衛ろくろうべえあたまとし、しもおさめぐみ上中かみなかぐみ大久保おおくぼぐみ百姓ひゃくしょう24にんとされているものがある[4]のべとおる元年がんねん栃本とちもと関所せきしょでは関守せきもり二人ふたり扶持ふちとなり、麻生あそう番所ばんしょでも同様どうようねがしたがみとめられず、百姓ひゃくしょう負担ふたんとなった[13]
川浦かわうら番所ばんしょ
川浦かわうら番所ばんしょは、甲州こうしゅうよんぐんくちとめ番所ばんしょひとつ。『くにこころざし』には「たけしゅう秩父ちちぶこう河浦かわうらむらうちてんニアリ」という[10]ばんやくにんで、川浦かわうら上下じょうか釜口かまぐち上下じょうか柚木ゆうぎ下荻原しもおぎはら徳和とくわのいわゆる上郷かみさと7かそん共同きょうどう負担ふたんし、そのわりだかかけさんやく免除めんじょされた[10]

関所せきしょ関所せきしょ道具どうぐるい[編集へんしゅう]

栃本とちもと関所せきしょは、『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』によると、秩父ちちぶ甲州こうしゅう往還おうかん関門かんもんかれた[1]もん北側きたがわ名主なぬしたくをかねた番所ばんしょがあった[12][1]関所せきしょ大村おおむら家宅かたく)は書類しょるい消失しょうしつにより設置せっち時期じき関所せきしょ規模きぼ構造こうぞう不明ふめい関所せきしょ江戸えど時代じだいちゅうすうかい火災かさい焼失しょうしつし、なおされた。当初とうしょ現存げんそん大村おおむら旧宅きゅうたくよりおおきかったという[15]。「「東西とうざい通路つうろ」には「関門かんもんばんもん」があり、もんもんあいだしがらみ矢来やらいかこまれていた。もん内側うちがわには「つうかた高札こうさつ」がかかげられていた」[16]鉄炮てっぽうあらための高札こうさつかかげられていた[17]

関所せきしょ道具どうぐるいは、さん道具どうぐじゅう捕縄とりなわ[12]長道ながみちももとうなどを最初さいしょしもされたのみだった[13]

麻生あそう番所ばんしょは、『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』によると、関門かんもんはなく、番所ばんしょ間口まぐちあいだ奥行おくゆき1・5あいだはこ番所ばんしょで、番人ばんにん昼夜ちゅうやいちにん交替こうたいであった[12][18]

天明てんめい8ねん(1788ねん)の大滝おおたきむら明細めいさいちょう山中さんちゅう文書ぶんしょ)によると、関所せきしょ造営ぞうえい修理しゅうりではしょ道具どうぐ関門かんもん修復しゅうふくなどは番頭ばんがしら自分じぶん入用いりようでおこなわれていた。へいしがらみ関所せきしょかこえは、栃本とちもと上中かみなかしもおさめ大久保おおくぼよんくみから人足ひとあし修理しゅうりされていた[12]

栃本とちもと麻生あそう呼称こしょうあつか[編集へんしゅう]

栃本とちもと麻生あそう記載きさいは、正保しょうほうこく絵図えず元禄げんろく年中ねんじゅう改定かいてい新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう[7])などでは、関所せきしょ記載きさいされているが、その史料しりょうでは関所せきしょ番所ばんしょくちとめ番所ばんしょ統一とういつしていない[12]。また、のべとおる2ねん(1745ねん)『諸国しょこく関所せきしょ覚書おぼえがき[12]および『諸国しょこく関所せきしょ書付かきつけ』(えき便覧びんらん)には、栃本とちもと関所せきしょ記載きさいはない[19]

呼称こしょうおよびあつかいについて、文化ぶんか11ねん1814ねん麻生あそうがわから訴訟そしょうがあり、文政ぶんせい3ねん1820ねん)に幕府ばくふ裁決さいけつくだした[17]。それによると、①栃本とちもとではこれ以後いご関所せきしょ」という名称めいしょうめ「くちとめ番所ばんしょ」、麻生あそうは「番所ばんしょ」とし、②ばんもんはらうが、通行つうこう手形てがたあつかいはこれまでとおりとする、③番人ばんにんやくがたなとして帯刀たいとうすることはゆるすが、宗門しゅうもん人別にんべつちょうなどのおおやけ帳簿ちょうぼ苗字みょうじ名乗なのることを禁止きんし、④番所ばんしょ施設しせつ大破たいはしたときには、一村いちむら全体ぜんたい百姓ひゃくしょうやくとして普請ふしんたることがめいじられた[17]以後いご公文書こうぶんしょでは、この使つかけが定着ていちゃくした[17]

栃本とちもと関所せきしょあらた[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだいは、てき侵攻しんこうたいする要衝ようしょうとされていたが、江戸えど時代じだいには警備けいびとなっていた[6]寛永かんえい8ねん(1631ねん)にたけしゅう麻生あそうむら甲州こうしゅう河本かわもとむら番所ばんしょがつけられた[6]栃本とちもと関所せきしょは、江戸えど時代じだい成立せいりつ以前いぜん軍事ぐんじてき警備けいび目的もくてきとしたが、江戸えど時代じだいには、「いれ鉄炮てっぽうおんな」の監視かんし役割やくわりたした。また、栃本とちもとおくにあったしんさわまたさわ小荒川こあらかわ金山かなやま監視かんし重要じゅうよう役割やくわりであった[4]

たけしゅう甲州こうしゅうあいだ通行つうこう

関所せきしょ通行つうこう公用こうようのぞき、明六あけむつより暮六くれむつまでとした。女性じょせい通行つうこう原則げんそく禁止きんしであったが、大滝おおたきむらおよ近村ちかむら善光寺ぜんこうじ甲州こうしゅう身延山みのぶさんまい甲州こうしゅうからの秩父ちちぶ巡礼じゅんれいについてはゆるされていた[12]

この場所ばしょ通過つうかは、たけしゅうから甲州こうしゅうへは、麻生あそう番所ばんしょ千島ちしまろく左衛門さえもんのによる手形てがたけ、栃本とちもと関所せきしょ提出ていしゅつあらたな手形てがたけ、甲州こうしゅう川村かわむら番所ばんしょ提出ていしゅつするものであった[20]一方いっぽう甲州こうしゅうからたけしゅうへは、河村かわむら番所ばんしょ川浦かわうら番所ばんしょ)の手形てがた栃本とちもと関所せきしょ提出ていしゅつのみだった[20][✝ 4]

金山かなやま監視かんし
万治まんじ2ねん1659ねん)には、栃本とちもと関所せきしょおくの「あか金山かなやま」の発掘はっくつ願出ねがいで江戸えど幕府ばくふされると、幕府ばくふから関所せきしょばんかね荷物にもつ荷札にふだ手形てがた検閲けんえつ強化きょうかもうわたされた[6]
荷駄にだるい監視かんし
関所せきしょは、国境こっきょうえて流通りゅうつうする荷駄にだるい検閲けんえつ役割やくわりひとつであった[21]。「唐物とうぶつ抜荷ぬけに」を監視かんしし、あらたみの荷駄にだ番所ばんしょ発行はっこうするあらため手形てがたえられた[21]
川浦かわうら番所ばんしょ
番所ばんしょ通行つうこうは、明六あけむつから暮六くれむつまであり[10]三峯みつみねこう秩父ちちぶ巡礼じゅんれいときには通行つうこう手形てがたをみせ、番所ばんしょ通行つうこう手形てがた栃本とちもとわた通行つうこうしていた[10]遠国おんごく女性じょせい通行つうこう禁止きんしされていた[10]

関所せきしょ廃止はいし史跡しせき指定してい[編集へんしゅう]

関所せきしょ廃止はいし

さる上書うわがきづけ」(大村おおむら文書ぶんしょ)によると、慶応けいおう4ねん(1868ねん)5がつ飯能はんのう戦争せんそうとき甲府こうふ警衛けいえい総督そうとく管理かんりとなり、豊前ぶぜん中津なかつ藩主はんしゅ奥平おくだいら大膳だいぜん大夫たいふ番所ばんしょ警備けいび慶応けいおう4ねん(1868ねん)8がつ関所せきしょ廃止はいし通達つうたつがあるが、くちとめ番所ばんしょ廃止はいし通達つうたつがないため、よく明治めいじ2ねん(1869ねん)に岩鼻いわはなけんうかがいの上番じょうばんしょ廃止はいし関門かんもんはらっている[12]

くに史跡しせき指定してい

栃本とちもとは、東海道とうかいどう箱根はこね中山道なかせんどう横川よこかわりょう関所せきしょ中間ちゅうかんにあり、江戸えどから甲州こうしゅう信州しんしゅうへの交通こうつう要所ようしょ位置いち」し、「建物たてもの木造もくぞう瓦葺かわらぶき切妻きりづまづく一部いちぶ2かいてであるが、かつては平屋ひらやいろりあいだ台所だいどころ私宅したく部分ぶぶんは、江戸えど時代じだい関守せきもり屋敷やしき様相ようそう」をのこし、「ばんもん矢来やらいしがらみとう位置いち絵図えずによってわか」り[✝ 5]現在げんざい役宅やくたく江戸えど時代じだい後期こうき建造けんぞうであるが、関所せきしょ当時とうじ形態けいたいつたえるものとして[22]、その重要じゅうようせいから1970ねん昭和しょうわ45ねん)11月12にちくに史跡しせき指定していされた[✝ 5]

その麻生あそう番所ばんしょは、番頭ばんがしら役宅やくたく現存げんそんするが、番人ばんにん詰所つめしょこわされている[17]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん11埼玉さいたま を参考さんこう作成さくせい
  2. ^ 栃本とちもと菅平すがだいら集落しゅうらくことなり、むしろ両者りょうしゃ別々べつべつのもので、最初さいしょ菅平すがだいらせきがあって、のち栃本とちもと移転いてんしたものとする意見いけんもある(太田おおた(1988)、92ぺーじ。)
  3. ^ 伊古田いこたづちめぐみ(1979)『秩父ちちぶ地方ちほう研究けんきゅう必携ひっけい埼玉新聞社さいたましんぶんしゃでは、河本かわもと番所ばんしょ記載きさいされている。
  4. ^ 千島ちしま(1998)、有限ゆうげん会社かいしゃ 平凡社へいぼんしゃ地方ちほう資料しりょうセンターへん(1993)には、川浦かわうら番所ばんしょまたは川浦かわうら番所ばんしょとの説明せつめいがある。
  5. ^ a b とち本関ほんせきあとくに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース文化庁ぶんかちょう、(更新こうしん2017ねん2がつ5にち)、閲覧えつらん2017ねん2がつ5にち

出典しゅってん

  1. ^ a b c d 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう大滝おおたきむら関所せきしょ.
  2. ^ a b 本間ほんま(1988)、642-644。
  3. ^ a b c d e f g 伊古田いこた(1979)、198ぺーじ
  4. ^ a b c d e f 有限ゆうげん会社かいしゃ平凡社へいぼんしゃ地方ちほう資料しりょうセンター(1993)、667ぺーじ
  5. ^ 本間ほんま(1988)、643ぺーじ
  6. ^ a b c d e f g h i j 本間ほんま(1988)、644ぺーじ
  7. ^ a b 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう秩父ちちぶぐん元禄げんろく年中ねんじゅう改定かいてい.
  8. ^ 埼玉さいたまけん教育きょういく委員いいんかい埼玉さいたま県立けんりつ博物館はくぶつかん(1990)、14ぺーじ
  9. ^ 大島おおしま(1995)、222ぺーじ
  10. ^ a b c d e f 山梨やまなしけん教育きょういく委員いいんかい(1984)、8ぺーじ
  11. ^ 太田おおた(1988)、92ぺーじ
  12. ^ a b c d e f g h i 有限ゆうげん会社かいしゃ平凡社へいぼんしゃ地方ちほう資料しりょうセンター(1993)、668ぺーじ
  13. ^ a b c 伊古田いこた(1979)、199ぺーじ
  14. ^ 有限ゆうげん会社かいしゃ平凡社へいぼんしゃ地方ちほう資料しりょうセンター(1993)、666ぺーじ
  15. ^ 秩父ちちぶ大滝おおたきむらへんさん委員いいんかい(2011)、343ぺーじ
  16. ^ 秩父ちちぶ大滝おおたきむらへんさん委員いいんかい(2011)、344ぺーじ
  17. ^ a b c d e 埼玉さいたまけん教育きょういく委員いいんかい埼玉さいたま県立けんりつ博物館はくぶつかん(1990)、16ぺーじ
  18. ^ 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう大滝おおたきむら番所ばんしょ.
  19. ^ 大島おおしま(1995)、67-72ぺーじ
  20. ^ a b 伊古田いこた(1979)、198-199ぺーじ
  21. ^ a b 秩父ちちぶ大滝おおたきむらへんさん委員いいんかいへん(2011)、345ぺーじ
  22. ^ かじ(1975)、18ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

書籍しょせき
  • 伊古田いこたづちめぐみだいきゅうしょう 交通こうつう発達はったつ」『秩父ちちぶ地方ちほう研究けんきゅう必携ひっけい埼玉新聞社さいたましんぶんしゃ、1979ねん、196-207ぺーじ
  • 大島おおしま延次郎のぶじろう上恩方かみおんがた檜原ひばるうえ椚田くぬぎだ関所せきしょ」『関所せきしょ』、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1995ねん、220-224ぺーじ
  • 太田おおたいわお「(いちなな栃本とちもとせきあと」『秩父ちちぶ往還おうかん武田たけだ外伝がいでん―』、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1988ねん、90-99ぺーじ
  • かじたくへん栃本とちもと関所せきしょ」、『埼玉大さいたまだい百科ひゃっか事典じてん だい4かん』、埼玉新聞社さいたましんぶんしゃ、1975ねん、17-18ぺーじ
  • 埼玉さいたまけん教育きょういく委員いいんかい埼玉さいたま県立けんりつ博物館はくぶつかん 「栃本とちもと関所せきしょ麻生あそう番所ばんしょ」、『歴史れきしみち調査ちょうさ報告ほうこくしょ だいじゅういちしゅう 秩父ちちぶ甲州こうしゅう往還おうかん』、埼玉さいたまけん県政けんせい情報じょうほう資料しりょうしつ、1990ねん、14-16ぺーじ
  • 千島ちしまことぶき大滝おおたきむらそして雁坂峠かりさかとうげへ… よみがえ秩父ちちぶ往還おうかん 埼玉さいたまけんがわから秩父ちちぶ往還おうかん」、『雁坂かりさかトンネルと秩父ちちぶ往還おうかん』、山梨やまなしけん道路どうろ公社こうしゃ、1998ねん、91-182ぺーじ
  • 秩父ちちぶ大滝おおたきむらへんさん委員いいんかいだいしょう交通こうつう通信つうしん交易こうえき観光かんこう だいいちせつ 交通こうつう」『大滝おおたきむら 上巻じょうかん』、秩父ちちぶ、2011ねん、334-358ぺーじ
  • 福島ふくしま正義まさよし監修かんしゅう中山道なかせんどう日光にっこう街道かいどう」『史跡しせき人物じんぶつでつづる埼玉さいたまけん歴史れきし埼玉さいたまけん郷土きょうど研究けんきゅうかいへん 1983ねん、99-101ぺーじ
  • 本間ほんま清利きよとしだい5しょう 交通こうつう流通りゅうつう」、『新編しんぺん 埼玉さいたまけん 通史つうしへん3 近世きんせいⅠ』、埼玉さいたまけん、1988ねん、591-704ぺーじ
  • 山梨やまなしけん教育きょういく委員いいんかい文化ぶんかへん山梨やまなしけん歴史れきしみち調査ちょうさ報告ほうこくしょだいしゅう 秩父ちちぶ街道かいどう山梨やまなしけん教育きょういく委員いいんかい、1984ねん
  • 有限ゆうげん会社かいしゃ 平凡社へいぼんしゃ地方ちほう資料しりょうセンターへん大滝おおたきむら」『日本にっぽん歴史れきし地名ちめい体系たいけい11かん 埼玉さいたまけん地名ちめい初版しょはん、1993ねん、664-673ぺーじ
  • ぐん 元禄げんろく年中ねんじゅう改定かいてい」『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こうまきノ246秩父ちちぶぐんノ1、内務省ないむしょう地理ちりきょく、1884ねん6がつNDLJP:764013/9 
  • 大滝おおたきむら関所せきしょ」『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こうまきノ264秩父ちちぶぐんノ19、内務省ないむしょう地理ちりきょく、1884ねん6がつNDLJP:764014/98 
  • 大滝おおたきむら番所ばんしょ」『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こうまきノ264秩父ちちぶぐんノ19、内務省ないむしょう地理ちりきょく、1884ねん6がつNDLJP:764014/99 
ウェブサイト
  • とち本関ほんせきあとくに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース文化庁ぶんかちょう、(更新こうしん2017ねん2がつ5にち)、閲覧えつらん2017ねん2がつ5にち

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

座標ざひょう: 北緯ほくい3556ふん41.3びょう 東経とうけい13851ふん46.4びょう / 北緯ほくい35.944806 東経とうけい138.862889 / 35.944806; 138.862889