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飯能はんのう戦争せんそう

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飯能はんのう戦争せんそう

たけぐん本陣ほんじんかれたのうじんてら
戦争せんそう戊辰戦争ぼしんせんそう
年月日ねんがっぴ慶応けいおう4ねん5月23にち1868ねん7がつ12にち
場所ばしょ武蔵むさしこく高麗こうらいぐん
結果けっかしん政府せいふぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
しん政府せいふぐん きゅう幕府ばくふぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
渡辺わたなべ清左衛門せいざえもん 渋沢しぶさわ成一郎せいいちろう
戦力せんりょく
2,000 - 3,000[2] 400 - 500[2]
戊辰戦争ぼしんせんそう

飯能はんのう戦争せんそう(はんのうせんそう)は、慶応けいおう4ねん5月23にち1868ねん7がつ12にち)に武蔵むさしこく高麗こうらいぐん飯能はんのうむら周辺しゅうへんげん埼玉さいたまけん飯能はんのう[ちゅう 1]においてたけぐん中心ちゅうしんとしたきゅう幕府ばくふぐんしん政府せいふぐんとのあいだおこなわれたたたかいである[1]

しん政府せいふたい恭順きょうじゅんしめ徳川とくがわ慶喜よしのぶ名誉めいよ挽回ばんかい目的もくてき結成けっせいされたあきらたい[5][6][7]当初とうしょいちきょうゆかりの幕臣ばくしん中心ちゅうしんとしていたが、急進きゅうしん幕臣ばくしんらが多数たすう合流ごうりゅうしたことで方針ほうしん名誉めいよ挽回ばんかいから主戦しゅせんへとかたむいた[6]。やがてこの方針ほうしんめぐ組織そしきない対立たいりつ表面ひょうめんすると[7]渋沢しぶさわ成一郎せいいちろう[ちゅう 2]尾高おだかあつしただし[ちゅう 2]らは慶喜よしのぶ処分しょぶん決定けってい急進きゅうしんたもとけてあらたにたけぐん結成けっせい[5]上野うえの戦争せんそう敗残はいざんへいふく[1]400から500めいあまりのへいひき飯能はんのうてんじんすると、これを追撃ついげきするしん政府せいふぐんとのあいだ戦闘せんとうとなった[5]

どう時期じき関東かんとう地方ちほうでは慶喜よしのぶ恭順きょうじゅん姿勢しせい反発はんぱつする幕臣ばくしんたちによる脱走だっそう局地きょくちせん相次あいついでいた[9]。『新編しんぺん埼玉さいたまけん』は、関東かんとう地方ちほうにおいては上野うえの戦争せんそうやこのたたかいを最後さいごしん政府せいふぐん抵抗ていこうするうごきが一掃いっそうされ、静観せいかんしていたかくはん恭順きょうじゅん意思いししめしたとひょうしている[5]

背景はいけい

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あきらたい結成けっせい

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慶応けいおう4ねん1がつ3にちから6にちにかけておこなわれた鳥羽とば伏見ふしみたたかにおける幕府ばくふぐん敗戦はいせん徳川とくがわ慶喜よしのぶだい坂城さかき脱出だっしゅつ海路かいろ江戸えどもどると[10]しん政府せいふぐんへの反抗はんこう企図きとしていた幕府ばくふ陸軍りくぐん江戸えどへと退却たいきゃくした[11]しん政府せいふがわ有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう東征とうせいだい総督そうとくにんじ、2がつ10日とおかに「慶喜よしのぶ追討ついとうれい」を発布はっぷ東征とうせいかまえをせたが[10]まくかくしん政府せいふたい恭順きょうじゅんすることで意見いけん一致いっちし、慶喜よしのぶは2がつ12にち警護けいごへい[ちゅう 3]ともなって上野うえの寛永寺かんえいじ謹慎きんしんした[12][13]江戸えどもどったへい敗戦はいせんにより士気しきみだれ、陸軍りくぐん旗下きかかくたいでは徳川とくがわ前途ぜんと失職しっしょく不安ふあんかんから、集団しゅうだん脱走だっそう相次あいついだ[14]

こうしたなか幕府ばくふ陸軍りくぐん調ちょうやくなみ本多ほんださとし三郎さぶろうどうばんかど五郎ごろう調しらべやくなみつとむかた須永すなが於菟おと若手わかて幕臣ばくしんは、朝敵ちょうてきとなった慶喜よしのぶ潔白けっぱくしめすための行動こうどうはじめた[10]本多ほんだらは同年どうねん1がつ初頭しょとうからまくかくたいして徳川とくがわ中心ちゅうしんとしたあらたな政権せいけん構想こうそうについての建白けんぱくおこなっており[15]時流じりゅう悪化あっかともなほか有志ゆうしとともに集結しゅうけつしたものだった[13]

2がつ11にち、「はし随従ずいじゅう有志ゆうし名義めいぎ檄文げきぶん作成さくせいされ、幕府ばくふ陸軍りくぐん撤兵てっぺいかた騎兵きへいかた砲兵ほうへいかた歩兵ほへいかたあておくとどけられた[16]。この檄文げきぶん発起人ほっきにん須永すなが起草きそうぶん須永すなが縁者えんじゃにあたる尾高おだかあつしただし[ちゅう 4]手掛てがけ、前半ぜんはん部分ぶぶん本多ほんだ後半こうはん部分ぶぶんとも執筆しっぴつ担当たんとう[16]。「尊皇そんのうこころざしたか慶喜よしのぶおおやけ薩長さっちょういつわりはかりごとにより窮地きゅうちにあるのは、徳川とくがわおんをこうむったものとしてしずかすることはできない」といった趣旨しゅしとともに、2がつ12にち雑司ヶ谷ぞうしがや茗荷みょうがにおいて「一廉いっかど御用ごよう」について相談そうだんしたいむねしるされていた[16][21]

わがおおやけ元来がんらい尊王そんのうため誠忠せいちゅうつくさせられ、且昨ふゆ宇内うだい形勢けいせい洞察どうさつうえひゃく年来ねんらい祖業そぎょう一朝いっちょうにして朝廷ちょうていあそばされこう公明こうめい至誠しせい英断えいだん天人てんにんところしかるに奸徒どもいつわりはかりごとって、今日きょうの危窮にいたりこうだんきりこらえゆべからずこうくんはじらるればしんするのときこと同様どうようきょう以来いらい随従ずいじゅうにて、如何いか傍観ぼうかん相成あいなるべき哉。しかればかくともりょく同心どうしんして、一廉ひとかど御用ごようあい備、多年たねん鴻恩こうおんむくいんは此時也[16] — きょう随従ずいじゅう有志ゆうし

2がつ12にち会合かいごう当日とうじつ茗荷みょうがには本多ほんだともなえ須永すながをはじめ17にん有志ゆうし出席しゅっせきしたが、名前なまえあきらかとなっている13にんとものぞきすべていちきょうかかわりのあるものだった[22][ちゅう 5]

2がつ17にち四谷よつや円応寺えんのうじでの会合かいごうでは旗本はたもと名乗なの天野あまの八郎はちろう[ちゅう 6]をはじめ30にんほどの有志ゆうしあつまったが、2がつ12にち会合かいごう同様どうよう意見いけんがまとまるまでにはいたらなかった[24]おなじころ、幕臣ばくしん渋沢しぶさわ成一郎せいいちろう江戸えど浅草あさくさほり田原たはらにある屋敷やしきこもっていた[25]成一郎せいいちろう鳥羽とば伏見ふしみたたかいのさいには慶喜よしのぶともなってだいさかにあり、ぐんづけとして薩長さっちょうぐんとの戦闘せんとうかく陣営じんえいとの折衝せっしょうかかわった[25]せんのち海路かいろ陸路りくろ使つかって2がつ4にち江戸えどもどっていた[25]。2月19にち[25]尾高おだかいのした本多ほんだともなえ須永すなが勧誘かんゆうけて有志ゆうし会合かいごうくわわった[13][25]尾高おだかおとうと渋沢しぶさわ栄一えいいちわたりおうのため見立みたて養子ようしとなっていた渋沢しぶさわたいら九郎くろう尾高おだかたいら九郎くろう)も勧誘かんゆう居合いあわせていたとみられている[26]

2がつ21にち四谷よつや円応寺えんのうじでの会合かいごうでは67にん有志ゆうしあつまり、「尊王そんのう恭順きょうじゅん有志ゆうしかい」を結成けっせいした[13]。この会合かいごう作成さくせいした誓書せいしょでは目的もくてき慶喜よしのぶ窮地きゅうちすくうことから「薩賊らを打倒だとうし、徳川とくがわ雪辱せつじょくたす」ことへと変化へんかしている[16]誓書せいしょ大目おおめづけ梅沢うめざわ孫太郎まごたろう提出ていしゅつしたが、梅原うめはらは「慶喜よしのぶ恭順きょうじゅん姿勢しせい沿わない不穏ふおんなもの」としてりを拒否きょひした[16]

2がつ23にちにはたいめいあきらたいとし、浅草あさくさ本願寺ほんがんじ屯所とんしょさだめた[13]あきらたい頭取とうどりには成一郎せいいちろうふく頭取とうどりには天野あまの幹事かんじには本多ほんだともなえ須永すなが就任しゅうにんするなど[27]役員やくいん天野あまののぞ幕臣ばくしんいちきょうえんのあるものかためられた[27]。また、あきらたい結成けっせいさいして、成一郎せいいちろうから参謀さんぼうかくとしてむかえられたあつしちゅうは、幕臣ばくしんではないてん考慮こうりょして役員やくいん辞退じたいした[27]同日どうじつ、5にん役員やくいん名義めいぎ作成さくせいした建白けんぱくしょでは当初とうしょ目的もくてきもどり、「慶喜よしのぶおおやけ功績こうせき雪冤せつえん朝廷ちょうていうったえる」趣旨しゅししる徳川とくがわ提出ていしゅつしたが、徳川とくがわ幹部かんぶは「時機じきいっしたものであり、事態じたい好転こうてんさせる効果こうかはない」として懐疑かいぎてき見方みかたしめした[28]

こうしたうごきにたい徳川とくがわ宗家そうけ後見人こうけんにんつとめる松平まつだいらひとしみんは、若年寄わかどしより川勝かわかつひろうんつうじて成一郎せいいちろう江戸えどじょうへの登城とじょうめいじた[29]成一郎せいいちろうは100にんほどのたいとともに登城とじょうすると、ひとしみんから「粗暴そぼう挙動きょどう」にることのないようにうながされ、これにおうじた[29]。3月10にち使番つかいばんかく目付めつけ支配しはい書役かきやく小田井おだいぞうふとあきらたいあたま任命にんめいされると、成一郎せいいちろうあきらたい頭取とうどり立場たちばみとめられ、有志ゆうし集団しゅうだんぎなかったあきらたい幕府ばくふ公認こうにん集団しゅうだんとなった[29]。これにより寛永寺かんえいじ謹慎きんしんする慶喜よしのぶ警護けいご可能かのうとなり3がつ中旬ちゅうじゅん上野うえの山中さんちゅうへと移動いどうすると[30]先任せんにん警備けいび衝突しょうとつする事態じたい懸念けねんし、江戸えどちゅうまりを担当たんとうすることになった[30]

渋沢しぶさわ天野あまの対立たいりつ

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あきらたい屯所とんしょとした寛永寺かんえいじ
幕末ばくまつ寛永寺かんえいじ付近ふきん地図ちず

東征とうせいぐん東海道とうかいどう東山ひがしやまみち北陸ほくりくどうさん方面ほうめんから進軍しんぐん開始かいし[30]。3月6にちには東山ひがしやまみちぐん支隊したい甲斐かいこく山梨やまなしぐん勝沼かつぬま甲州こうしゅう勝沼かつぬまたたか)で、3月9にちには東山ひがしやまみちぐん本隊ほんたい下野げやこく足利あしかがぐん梁田やなだ梁田やなだたたか)できゅう幕府ばくふぐんやぶり、3月13にち板橋いたばし到達とうたつした[30]ときおなじくして幕府ばくふがわ慶喜よしのぶ警護けいごにんについていた山岡やまおか鉄舟てっしゅう東海道とうかいどうぐん布陣ふじんする駿河するがこく駿府すんぷ派遣はけんし、慶喜よしのぶ処遇しょぐう江戸えど開城かいじょうけた予備よび交渉こうしょうおこなわれていた[31]。3月13にち東征とうせいぐん参謀さんぼう西郷さいごう隆盛たかもり幕府ばくふ陸軍りくぐん総裁そうさいかつ海舟かいしゅうとの会談かいだんにより、幕府ばくふがわ武装ぶそう解除かいじょ江戸城えどじょうわたしを条件じょうけんに3がつ15にち予定よていされていた江戸えどそう攻撃こうげき回避かいひされた[31]

4がつ4にちしん政府せいふ慶喜よしのぶつみ一等いっとうげんじて水戸みとでの謹慎きんしんめい[32]、4がつ11にち慶喜よしのぶ寛永寺かんえいじ水戸みとへとかった[32]尾高おだかが4がつ9にちづけわたりおうちゅうさかえいちにあてた書簡しょかんによれば、成一郎せいいちろう須永すながたいら九郎くろう竹沢たけざわ兄弟きょうだい[ちゅう 7]とともに慶喜よしのぶしたが水戸みとかう予定よていだった[37][38]。ただし、あきらたいには水戸みとまでの慶喜よしのぶ警護けいご許可きょかりず[32]いちぎょう千住せんじゅ到着とうちゃくした時点じてん江戸えどかえすようにめいぜられた[32]

一方いっぽう慶喜よしのぶ処分しょぶん決定けってい前後ぜんごしてあきらたいでは渋沢しぶさわ天野あまの対立たいりつ表面ひょうめんした[39]慶喜よしのぶ徳川とくがわ名誉めいよ挽回ばんかい第一義だいいちぎとし幕臣ばくしん限定げんていした集団しゅうだん目指めざ成一郎せいいちろうと、しん政府せいふぐんとの対決たいけつ姿勢しせいつよ身分みぶんわず兵員へいいん拡充かくじゅうさせようとする天野あまのとで立場たちばちがいがあった[30]。『あいかおりおう』によれば成一郎せいいちろうは、上野うえのではいちせんまじえるうえがなく、市中しちゅう戦渦せんかみかねないてん理由りゆう郊外こうがいへの撤退てったい提案ていあんした[40]。この提案ていあん天野あまのにはききいれられず、その議論ぎろんつづけたものの進展しんてんせずにわった[40]たいないにはあきらたい江戸えど幕府ばくふからりょうばん[ちゅう 8]役目やくめにんじられるとの風説ふうせつながれ、幕府ばくふ期待きたいするものもあったといい、江戸えどちゅうからの撤退てったいあんたい反対はんたいする理由りゆうとなった[39][43]。『あきらたい戦史せんし』では、こうした風評ふうひょうしんじるものあいだ天野あまの支持しじされたとしるしている[43]

成一郎せいいちろう郊外こうがいへの撤退てったいにあたり豪商ごうしょうたちから軍資金ぐんしきん兵糧ひょうろう調達ちょうたつしようとしており[39]、その使途しとめぐ対立たいりつがあったとの見方みかたもある[39][44]。『あきらたい戦史せんし』によれば軍資金ぐんしきん調達ちょうたつ機会きかい天野あまの成一郎せいいちろう名指なざしして「むさぼ濫無耻のいなり」と糾弾きゅうだんし、これがきっかけで両派りょうは口論こうろんとなり反目はんもくするにいたったとしるしている[45]山田やまだりゅう八郎はちろうのこした『つちのえたつわたしじょう』では、天野あまのがかねてから成一郎せいいちろう叛意はんいいだき、反抗はんこう機会きかいをうかがっていたところ軍資金ぐんしきんはなしきつけ、このじょうじて相手あいて主張しゅちょうしだしたとしるしている[46]

高岡たかおかやり太郎たろうつちのえたつ日誌にっし』(以下いか、『高岡たかおかやり太郎たろう日誌にっし』または『高岡たかおか日誌にっし』)によれば、たいないでは乱暴らんぼう狼藉ろうぜきはたらものや、しん政府せいふぐんへい故意こい挑発ちょうはつするものあらわれるなど規律きりつみだはじめていたといい、それを成一郎せいいちろう叱責しっせきしたためいのちねらわれる事態じたいとなったとしるしている[39]。なお、天野あまの捕縛ほばくのこした『斃休ろく』では、自身じしん組織そしき再編さいへん頭取とうどり抜擢ばってきされたことにかんしてれる一方いっぽうで、りょう派閥はばつ対立たいりつについてれられていない[47]

こうしたなか成一郎せいいちろうらはあきらたい脱退だったいした[48]脱退だったい状況じょうきょうについて『あきらたい戦史せんし』では成一郎せいいちろうから本多ほんだ邦之くにゆき輔への頭取とうどり交代こうたいげきおこなわれたのち慶喜よしのぶ見送みおくりからもどるとすぐに「ちかいて官軍かんぐんとならざることちかいて降伏ごうぶくせざること」を約束やくそくしたうえ同志どうしらと脱退だったいしたとしるしている[45]。『あいかおりおう収録しゅうろく成一郎せいいちろう談話だんわではりょう派閥はばつ議論ぎろんわしたものの、天野あまのが「せきはちしゅうかたまもってみこたえていれば、いずれひゃくせきさんひゃくせき旗本はたもとてられるにちがいない」と息巻いきま上野うえのうご気配けはいがないことに失望しつぼうし、尾高おだかとともに脱退だったいしたとしるしている[49]

あきらたい分裂ぶんれつ動静どうせい

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成一郎せいいちろうらの脱退だったいあきらたい組織そしき再編さいへんされ、池田いけだ大隅おおすみまもるあきらたいあたま就任しゅうにん[50]小田井おだいとのとう体制たいせいとなり、天野あまのふく頭取とうどりからあたまなみ昇格しょうかくした[50]。また、慶喜よしのぶ水戸みと謹慎きんしんはなわ王寺おうじみやこうげん入道にゅうどう親王しんのう盟主めいしゅむかえると、はなわ王寺おうじみやとうさとしおういんかん竹林たけばやしぼうこううつたいへの影響えいきょうりょく拡大かくだいさせ[51]抗戦こうせん気分きぶんあおった[52]。その小田井おだい奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいとの連携れんけいはかるべく江戸えど出立しゅったつしたため不在ふざいとなり[53]池田いけだ王寺おうじみや警護けいごかりりとなったため、天野あまのあきらたい実権じっけん掌握しょうあくした[54]

しん政府せいふ王寺おうじみやあきらたい分離ぶんりさせその士気しきごうと、伏見ふしみみや邦家ほうか親王しんのうかいして王寺おうじみや京都きょうと帰還きかんさせようとこころみたが、はなわ王寺おうじみやうるう4がつ12にちにこれを拒否きょひ[55]うるう4がつ26にちには、薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはん土佐とさはん広島ひろしまはん凶賊きょうぞくとして非難ひなんするげきはっするにいたった[55]

しん政府せいふうるう4がつ29にち田安たやす徳川とくがわ亀之助かめのすけ徳川とくがわ家達いえさと)に徳川とくがわ宗家そうけ相続そうぞくさせるものとし、5月1にちには亀之助かめのすけちち慶頼よしよりらがになっていた江戸えど鎮撫ちんぶ取締とりしまりにんき、東征とうせいぐんぐことを通告つうこくした[55]。これにより役目やくめわれたあきらたい一部いちぶは5月7にちに、薩摩さつま藩士はんし根岸ねぎし付近ふきんで、佐賀さが藩士はんし上野うえの北大門きただいもんまちかこ殺傷さっしょうする事件じけんこすなど、行動こうどう先鋭せんえいさせた[56]

こうしたなか、「尊王そんのう恭順きょうじゅん有志ゆうしかい以来いらいあきらたい役員やくいん幕臣ばくしんしん政府せいふがわ戦争せんそう回避かいひのためあきらたい主戦しゅせん個別こべつ説得せっとくしようとするうごきがみられた[57]幕臣ばくしんかち両者りょうしゃ武力ぶりょく衝突しょうとつ徳川とくがわ存続そんぞくあやうくするものと懸念けねんし、山岡やまおかかんした派遣はけん[57]本多ほんだとも慶喜よしのぶ意向いこうはんした事態じたい鎮静ちんせいつとめた[58]。また、しん政府せいふがわ福岡ふくおか藩士はんし太田おおた広正ひろまさ東征とうせいぐん参謀さんぼう西にし四辻よつつじ大夫たいふ派遣はけん王寺おうじみやらの召喚しょうかんこころみるなど説得せっとくこころみるも、かん竹林ちくりんぼうらが拒絶きょぜつわなかった[52][57]

5月13にち東征とうせいだい総督そうとくあきらたい討伐とうばつ布告ふこく[59]大村おおむら益次郎えきじろうひきいる2,000にんへいあきらたいたむろしゅうする上野うえの包囲ほういするにいたった[60]

りょう陣営じんえい動静どうせい

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きゅう幕府ばくふぐん

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たけぐん結成けっせい

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あきらたい脱退だったいした成一郎せいいちろう旗本はたもと奥野おくの左京さきょうたくに(『つちのえたつわたしじょう』)[61]、あるいは大塚おおつか自宅じたくとどまっていた(『あいかおりおう』)[62]。『つちのえたつわたしじょう』によれば、成一郎せいいちろうした山田やまだりゅう八郎はちろう野村のむら良造りょうぞうおとずれ、あらたに一軍いちぐん組織そしきしその隊長たいちょうとなるように説得せっとく[61]。さらに二人ふたり尾高おだかはかりごとぬしとして仲間なかまれ、同志どうしげきはっしたところ30にんあまりがあつまったとしるしている[61]高岡たかおかやり太郎たろうのこした『高岡たかおかやり太郎たろう日誌にっし』によれば、高岡たかおか成一郎せいいちろうからしん組織そしき結成けっせい意思いしつたえられるとこれに同意どういし、うるう4がつ11にち夜半やはん河原かわはら彦太郎ひこたろう山田やまだ野村のむら山中やまなかのぼる瀧村たきむらしょうきちら20にんとともに上野うえのて、本郷ほんごうにある野村のむらたく集結しゅうけつした[63]

野村のむらたくでは「会津あいづ加勢かせいする」か「江戸えど郊外こうがい移転いてんして同志どうしつのり、しん政府せいふぐん抵抗ていこうする」かで議論ぎろんわされたのち堀之内ほりのうちむらげん東京とうきょう杉並すぎなみ堀之内ほりのうち)の茶屋ちゃや信楽しがらき」を拠点きょてん同志どうしあつめることになった[63][64]。こののち水戸みと中納言ちゅうなごん家臣かしん渡辺わたなべとおら70にん高岡たかおか勧誘かんゆうした酒井さかい雅楽ががくあたま家臣かしん3にん神奈川かながわ方面ほうめん組織そしきされた菜葉なっぱたいらがくわわった(『高岡たかおかやり太郎たろう日誌にっし』)[63]。『あいかおりおう』に収録しゅうろくされた成一郎せいいちろう談話だんわでは、大塚おおつか成一郎せいいちろうたくあつまった同志どうしを200にん[65]、「信楽しがらき」にあつまった同志どうしを80から90にんとしている[65]

あいかおりおう』によれば、この時点じてん成一郎せいいちろうらは武器ぶき弾薬だんやく所持しょじしていなかったため、尾高おだかはかり20にんあまりのたいひきいて三番さんばんまちにある幕府ばくふ伝習でんしゅうたい屯所とんしょからミニエーじゅう300ちょう弾丸だんがん奪取だっしゅした[64]一方いっぽう、『つちのえたつわたしじょう』によれば、尾高おだか成一郎せいいちろうから伝習でんしゅうたい屯所とんしょじゅうかくされているとの情報じょうほうると、しん政府せいふぐんふんして屯所とんしょはいり250ちょうじゅう奪取だっしゅから商人しょうにんから弾丸だんがんとどけられたとしるしている[66]

高岡たかおかやり太郎たろう日誌にっし』によればうるう4がつ19にち[63]いちぎょう青梅おうめ街道かいどう田無たなしげん東京とうきょう西東京にしとうきょう)にはいり、同地どうちにある西光寺さいこうじみつぞういん観音寺かんおんじ[ちゅう 9]などに宿営しゅくえいし、西光寺さいこうじ本陣ほんじんとした[68]当地とうちたいめいを「たけぐん」とさだめ、役員やくいん選出せんしゅつされた[64]一方いっぽう当地とうちおさめる江川えがわ太郎左衛門たろうざえもん元締もとじめ手代てだい根本ねもとまことぞう東征とうせいぐん総督そうとくてた『たけしゅう田無たなしむら脱走だっそうへいたむろつかまつこうとどけしょ』では、成一郎せいいちろうらの田無たなしたむろしゅうを5月1にちとし、5月8にちころまでに250にん集結しゅうけつしたと報告ほうこくしている[64][69]

高岡たかおかやり太郎たろう日誌にっし』、『小川おがわむら 用向ようむきひかえちょう』(以下いか、『用向ようむきひかえちょう』)、『蔵敷くらしきむら さとせい日誌にっし』(以下いか、『さとせい日誌にっし』)によれば、おも役職やくしょく以下いかとおりとなっており、なりいちろうは「大寄おおより隼人はやと」、尾高おだかは「はしばみさわ新六郎しんろくろう」の変名へんめいもちいている[8]。なお、役員やくいんなかなりいちろうらと行動こうどうをともにした須永すなが於菟おとがないが、『あたらしあきらたい戦史せんし』では「たけぐん募兵ぼへい水戸みと江戸えど往復おうふくしているうちに開戦かいせんとなり、参戦さんせんしていない」としている[70]

# 氏名しめい 役職やくしょく
高岡たかおか日誌にっし[63] つちのえたつわたしじょう[71][72] 用向ようむきひかえちょう[73] さとせい日誌にっし[74]
1 渋沢しぶさわ成一郎せいいちろう[ちゅう 10] あたま あたま そう隊長たいちょう
2 久保くぼ喜三郎きさぶろう ぐん ぐん ぐんちょう ぐん目付めつけ
3 尾高おだかあつしただし[ちゅう 11] 会計かいけい頭取とうどり あたまなみちゅうぐん頭取とうどりけん ぐんかんぐん ちゅう軍隊ぐんたい長目ながめづけやくけん
4 渋沢しぶさわたいら九郎くろう ちゅうぐん組頭くみがしら みぎぐん頭取とうどり 中隊ちゅうたい大長おおちょうかんけん
5 野村のむら良造りょうぞう[ちゅう 12] ぜんぐん頭取とうどり ぜんぐん頭取とうどり 中隊ちゅうたい伍長ごちょう ぜん軍隊ぐんたいちょう
6 瀧村たきむらしょうきち ちゅうぐん頭取とうどり ひだりぐん頭取とうどり
7 山中やまなかのぼる ぜんぐん組頭くみがしら ぜんぐん組頭くみがしら ぜんたい大長おおちょう
8 渡辺わたなべすすむ[ちゅう 13] 物見ものみ こう軍隊ぐんたいちょう
9 与良よら伝蔵でんぞう こう隊長たいちょう
10 山田やまだりゅう八郎はちろう[ちゅう 14] 会計かいけい下役したやく 会計かいけい頭取とうどり機械きかいかけけん 機械きかいかけ
11 渡辺わたなべとお[ちゅう 13][ちゅう 15] こうぐん頭取とうどり こうぐん頭取とうどり
12 川崎かわさきろくすすむ こうぐん組頭くみがしら
13 鈴木すずきみつる五郎ごろう ぜんぐんふく組頭くみがしら伍長ごちょうけん ぜんぐんふく組頭くみがしら
14 河原かわはら彦太郎ひこたろう ぜんぐんふく組頭くみがしら伍長ごちょうけん 伍長ごちょう
15 高岡たかおかやり太郎たろう ぜんぐんぐん下役したやく伍長ごちょうけん 伍長ごちょう
16 窪田くぼた吉之丞きちのじょう[ちゅう 16] ぜんぐん歩兵ほへいやく伍長ごちょうけん 歩兵ほへい頭取とうどり
17 飯島いいじまきよし次郎じろう ぜんぐん歩兵ほへいやく 使番つかいばん下役したやく
18 熊谷くまがい小一郎こいちろう 使番つかいばん頭取とうどり

成一郎せいいちろうらは同志どうしれる一方いっぽうで、田無たなし所沢ところざわ扇町屋おうぎまちやげん埼玉さいたまけん入間いるま)、日野ひの府中ふちゅうなど周辺しゅうへんむら々の名主なぬしあつめ、軍用ぐんようきん供出きょうしゅつするように通達つうたつし3,700りょうほどを[77]たむろしゅうから20にちほどたった5月12にち田無たなしから5さとほど西にしにある箱根ヶ崎はこねがさきむらげん東京とうきょう西多摩にしたまぐん瑞穂みずほまち)にてんじんした[78]当地とうち村役人むらやくにんたいし「代金だいきん用意よういするのでてら、または広大こうだいたくを4かしょ用意よういすべし」とのれをし、旅館りょかん関屋せきや」を本陣ほんじん円福寺えんぷくじたいたちの宿舎しゅくしゃとした[78]てんじん理由りゆうについて、田無たなしでは江戸えど中心ちゅうしん距離きょりちかく、しん政府せいふぐん攻撃こうげきけやすいため、としている[68]。その一方いっぽうで、成一郎せいいちろうらは田無たなし淀橋よどばし新宿しんじゅく四谷よつやばんまち斥候せっこうき、しん政府せいふぐんあきらたいとのあいだ戦端せんたんひらかれたさいには、早馬はやうま使つかって逸早いちはや本陣ほんじん報告ほうこくし、これに加勢かせいするものとした[69]

しょたい合流ごうりゅう飯能はんのうてんじん

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5月15にち斥候せっこうから上野うえの戦争せんそう勃発ぼっぱつしたとのらせがとどくと、たけぐんは5月16にち0箱根ヶ崎はこねがさき出立しゅったつした[79]青梅おうめ街道かいどう東進とうしんして上野うえの目指めざしたものの、同日どうじつあさいちぎょう高円寺こうえんじ付近ふきん到着とうちゃくしたさい斥候せっこうからあきらたい壊滅かいめつしたとのほうとどいた[79]いちぎょう上野うえのへの進軍しんぐんあきらめて田無たなしかえすと、上野うえの戦争せんそうやぶれたあきらたい臥龍がりょうたい[ちゅう 17]兵士へいし続々ぞくぞくあつまりだした(『まわ新田にった御用ごようとどけ』)[82][83]

いちぎょう田無たなし一泊いっぱくしたのち、5月17にちかれて出立しゅったつ[84]いちたい秩父ちちぶ往還おうかんとお所沢ところざわ経由けいゆして、もういちたい青梅おうめ街道かいどう日光にっこうわき往還おうかんとおり、箱根ヶ崎はこねがさき扇町屋おうぎまちや経由けいゆして飯能はんのうかった[84][ちゅう 18]たけぐん行動こうどうともにしたものにはあきらたい比留間ひるま良八りょうはち[86][ちゅう 19]芝崎しばさきかく次郎じろう[87]竹沢たけざわ市五郎いちごろう渋沢しぶさわ市五郎いちごろう[36]土肥どい庄次郎しょうじろう[58]水橋みずはし右京うきょう水橋みずはし右京うきょうあきら[88][89]瀧川たきがわわたる[88]臥龍がりょうたい新藤しんどう左右さゆうすけ[90]純忠じゅんちゅうたい友成ともなり安良やすら[91]らがいる。

飯能はんのう周辺しゅうへんには幕府ばくふりょうはた本領ほんりょう清水しみず久留里くるりはん領地りょうちとともにいちきょう領地りょうちがあり[ちゅう 20]栄一えいいち成一郎せいいちろう元治もとはる元年がんねん(1864ねん)に人選じんせん御用ごようのため関東かんとう出張しゅっちょうしたさいいちきょうりょうおとずれ、農兵のうへい募集ぼしゅうおこなっていた[93]土地とちかんがあり領民りょうみんとの関係かんけいから、屯所とんしょ兵糧ひょうろう確保かくほ容易よういであること、甲州こうしゅう信州しんしゅう秩父ちちぶへとつうじる交通こうつう要衝ようしょうであったこともてんじん理由りゆうとなったとみられる[94]

たけぐんらは5月18にちひるごろ、飯能はんのう到着とうちゃくするとのうじんてら成一郎せいいちろうをはじめ150にんほど、さとしかんてらに100にんほど、観音寺かんのんじに60にんほど、広渡ひろわたりてら野村のむらら40にんほど、こころおうてらたまたからてらにそれぞれ25にんほどが分宿ぶんしゅくした(『乍恐以書づけ訴奏さるじょうこう』)[95]のうじんてら本陣ほんじんとし、しん政府せいふぐんむかつため要所ようしょ要所ようしょかべきずき、まち出入でいぐち見張みはりをてて警戒けいかいにあたった[71]。また、すうひゃくにん人夫にんぷやとい、かわりょう使つかおもりなまりかして弾丸だんがん製造せいぞうにあたらせた(『つちのえたつわたしじょう』)[71]村人むらびとたちは家業かぎょうやすみ、昼夜ちゅうやわずせん準備じゅんび奔走ほんそうするなど緊迫きんぱくした様相ようそうていした[96]村役人むらやくにんたけぐんから武器ぶき食料しょくりょう旗指物はたさしもの用意よういするように依頼いらいされており、食料しょくりょう雨天うてんつづきで品薄しなうす状態じょうたいだったため方々かたがたたよってぞろえ、旗指物はたさしものきゅうごしらえで仕上しあげた(『「だい炮玉ばこ箱書はこがき[ちゅう 21][96]

やがてしん政府せいふぐん江戸えど出立しゅったつしたとのらせがとどくと[98]のうじんてらではぐんひらかれた[99]。『つちのえたつわたしじょう』によれば、あるものは「ここは要害ようがいではあるが手狭てぜまなため、5から6さとほどそとしん政府せいふぐんむかつべし」と主張しゅちょうし、またあるものは「いたずらにへいうしなうべきではなく、すみやかに奥羽おうう連合れんごう合流ごうりゅうすべし」と主張しゅちょうしたが、成一郎せいいちろうは「せんってたのち、へいげて奥羽おううぐん合流ごうりゅうすべし。一矢いっしはなたずして退しりぞいては、天下てんかわらいものになる」と主張しゅちょうし、飯能はんのうたたかうことに決定けってい[98][100]せんやぶれた場合ばあいおく秩父ちちぶ三峰山みうねやまさい集結しゅうけつ場所ばしょさだめた[98][100]

こうしたなか江戸えどから飯能はんのういたりながら、たけぐんらとはべつ行動こうどうった共同きょうどうたいのような部隊ぶたいもあった[101]共同きょうどうたい隊長たいちょう以下いか300にんあめりしきるなか、5月22にちあさ飯能はんのう出立しゅったつし、毛呂けろ越生おごせ到着とうちゃくし、ほうおんてら宿やどじん[102]松山まつやま陣屋じんや隊長たいちょうかいして川越かわごえ藩主はんしゅ降伏ごうぶくねがている(『飯能はんのう騒擾そうじょう日記にっき』)[102][ちゅう 22]

5月22にち8時半じはん成一郎せいいちろうら100にんあまりが「美麗びれい支度したく」にととのえたのち野田のだ笹井ささい方面ほうめんげん入間いるま野田のだ狭山さやま笹井ささい)へ出陣しゅつじんした(『「だい炮玉ばこ箱書はこがき』)[96]同日どうじつ成一郎せいいちろうたけぐん名義めいぎ近隣きんりんむら々に廻状かいじょうし、かくむらからはなしかるものをひとりずつ、飯能はんのう見張みは番所ばんしょまで出頭しゅっとうするようにめいじた[103]。この廻状かいじょう出頭しゅっとう用件ようけんれられておらず、成一郎せいいちろうらの目的もくてき軍資金ぐんしきん調達ちょうたつなのか、武器ぶき調達ちょうたつなのかはさだかではないが、途中とちゅうむらにまでとどいた時点じてん開戦かいせんとなった[103]

しん政府せいふぐん

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しん政府せいふ上野うえの戦争せんそう勝利しょうりすると、まもなく敗残はいざんへい掃討そうとうした[104]だい総督そうとく府下ふか参謀さんぼう大村おおむら益次郎えきじろう青梅おうめに350にん扇町屋おうぎまちやに400にんほどのきゅう幕府ばくふぐん残党ざんとうたむろしゅうしているとの情報じょうほうると、5月15にち岡山おかやまはんたいぐんかんとともに川越かわごえ経由けいゆして扇町屋おうぎまちや出張しゅっちょうするようにめいじた[104]同時どうじ大村おおむらはん渡辺わたなべ清左衛門せいざえもんだい総督そうとく府下ふか参謀さんぼうにんじ、大村おおむらはん佐土原さどわらはん福岡ふくおかはん久留くるべいはんの4はんたいしては青梅あおうめ出張しゅっちょう残党ざんとう掃討そうとうするようにめいじた[104]。そのさいかくはん連絡れんらくいながら作戦さくせん遂行すいこうするように指示しじした[104]

5月21にちあさ渡辺わたなべらの主力しゅりょく部隊ぶたい江戸えど出立しゅったつ[104]。そのさい、4はん面々めんめんはいずれも西国さいごく出身しゅっしん地理ちりうといため川越かわごしはんへい道案内みちあんないをした[104]青梅おうめ街道かいどう西進せいしん田無たなし到着とうちゃくすると、岡山おかやまはん斥候せっこうからきゅう幕府ばくふぐん残党ざんとう2,000にんあまりが青梅あおうめではなく、飯能はんのうたむろしゅうしているとの情報じょうほうとどいた[104]いちぎょう田無たなし一泊いっぱくしたのちよく5がつ22にち扇町屋おうぎまちやかった[104]

岡山おかやまはんは5月20にち夕方ゆうがた水野みずの三郎兵衛さぶろべえたい江戸えど出立しゅったつすると、あきらたい退路たいろ支援しえん勢力せいりょく加勢かせい目的もくてき戸田とだわた付近ふきん駐屯ちゅうとんしていた[105]みなみせきふじ三郎さぶろうたい合流ごうりゅう[104]南畑みなみはたむらげんふじみ)で金品きんぴん食料しょくりょう要求ようきゅうしていた郎党ろうとう4にん斬首ざんしゅ、9にん小銃しょうじゅう射殺しゃさつしたのち、5月21にち川越かわごし到着とうちゃくした[104]。ここできゅう幕府ばくふぐん残党ざんとう飯能はんのうたむろしゅうしているとの情報じょうほうると、福岡ふくおかはんから派遣はけんされたぐんかん尾上おがみ四郎しろう左衛門さえもん川越かわごえはんとともにぐんひらき、岡山おかやまはん川越かわごえはんほうたい黒須くろすげん入間いるま黒須くろす)、福岡ふくおかはん川越かわごえはん鹿山しかやまげん日高ひだか鹿山しかやま方面ほうめんかうことになった[104]

東征とうせいぐんくわわっていた広島ひろしまはんかみたいは、岡山おかやまはんみなみせきたい同様どうよう目的もくてき[105]で、さんばんたいばんたいにんじょうした行田ぎょうだ駐留ちゅうりゅうした[106]。そのさんばんたいにん警衛けいえいにあたり、ばんたいにんはんへい100にんとともに鴻巣こうのす宿やどかい、ばんたい28にん鴻巣こうのすよりさきにある桶川おけがわ宿やど本陣ほんじん番兵ばんぺい任務にんむにあたった[106]。5月21にち、「上野うえの戦争せんそう残党ざんとう飯能はんのう多数たすう集結しゅうけつし、川越かわごえしろおそうごきがある」として川越かわごえはん援軍えんぐんねがてきたため、ぐんかん許可きょかうえ[107]同日どうじつ夕方ゆうがたにんはんへい100にんとともに鴻巣こうのす出立しゅったつ[106]よく5がつ22にちあさ川越かわごしはいり、越生こしおに300にんあまりの残党ざんとうたむろしゅうしているとの情報じょうほうると、その掃討そうとうのため坂戸さかど越生おごせへとかった[106][ちゅう 22]

5月22にち午後ごご主力しゅりょく部隊ぶたい扇町屋おうぎまちや到着とうちゃくすると、岡山おかやまはんまじえてぐんひらき、秩父ちちぶ甲州こうしゅう往還おうかん西進せいしんして飯能はんのう正面しょうめん先鋒せんぽうたい大村おおむらはん佐土原さどわらはん[104]。その後援こうえん岡山おかやまはん[104]先鋒せんぽうたいかれて双柳なみやなぎ中山なかやま方面ほうめんから飯能はんのう側面そくめん役目やくめ福岡ふくおかはん久留くるべいはんとすることなどがまった[104]

扇町屋おうぎまちやから飯能はんのう方面ほうめん出張しゅっちょう
# はん 部隊ぶたいめい 兵員へいいんすう 指揮しきかん 備考びこう
1 大村おおむらはん 渡辺わたなべ清左衛門せいざえもん[a] 先鋒せんぽうとして野田のだから飯能はんのう正面しょうめんかう[a]
2 佐土原さどわらはん 一番いちばんほうたい一番いちばんじゅうたい[b] 樺山かばやま舎人とねり[108]
3 福岡ふくおかはん 100[a] ぐんみぎうままこと[c] いちたい双柳なみやなぎから飯能はんのう側面そくめんかう[a]
いちたいちょくたけそな八王寺はちおうじこうの遁路を遮断しゃだん[a]
50[109] 尾上おがみ四郎しろう左衛門さえもん[109] 鹿山しかやまくちの遁路を遮断しゃだん[a]
4 久留くるべいはん 日新にっしんたい[d] 100[a] 村上むらかみ四郎しろうみぎ衛門えもん[d] 双柳なみやなぎから飯能はんのう側面そくめんかう[a]
川越かわごえから飯能はんのう方面ほうめん出張しゅっちょう
5 岡山おかやまはん 150[d] 水野みずの三郎兵衛さぶろべえ
みなみせきふじ三郎さぶろう
後援こうえんとして野田のだから飯能はんのう正面しょうめんかう[a]
6 川越かわごえはん 100[f] 谷口たにぐちしゅみず[h] いちたい秩父ちちぶ街道かいどうそな日光にっこうこうの遁路を遮断しゃだん[a]
いちたい福岡ふくおかはん合同ごうどうたけしゅう高麗こうらいぐん鹿山かやまむら出兵しゅっぺい[e]
川越かわごえから越生おごせ方面ほうめん出張しゅっちょう
7 広島ひろしまはん かみたい 60[f] 川合かわい三十郎さんじゅうろう[f]
藤田ふじた次郎じろう[f]
8 にんはん 新撰しんせんたい、聚合たい[g] 100[f]

出典しゅってん[a]大村おおむらはん東征とうせい日誌にっし さん[110][b]島津しまつ忠寛ただひろ 日向ひなた佐土原さどわら[111][c]黒田くろだちょう 筑前ちくぜん福岡ふくおか ろく[112][d]久留くるべい藩士はんし柴田しばた光衛みつえ 関東かんとう奥州おうしゅう征討せいとう記録きろく[113][e]川越かわごえ藩主はんしゅ松平まつだいらやすしえいとどけしょ 太政官だじょうかんあて[114][f]慶応けいおう四年戊辰第一起神機隊奥州出軍日記』[106][g]松平まつだいら忠敬ちゅうけい 武蔵むさしにん[115][h]下鹿山しもかやまむらとどけしょ[116]

りょう陣営じんえい戦力せんりょく

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きゅう幕府ばくふぐん

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つちのえたつわたしじょう』ではきゅう幕府ばくふぐん総勢そうぜいを600余人よにんとし、内訳うちわけについてはたけぐんぜんぐん84にんちゅうぐん99にんこうぐん75にんひだりぐん56にんみぎぐん59にん会計かいけいきょく49にんべつ局員きょくいん5にん歩兵ほへい70余人よにん[71]。そのほかだいへいあきらたい)、神奈川かながわへいすうひゃくにんしるしている[71]

さとせい日誌にっし』ではきゅう幕府ばくふぐん兵力へいりょくたけぐんふくめ1,500にんほどとしるしている[84][117][118]。ただし、『飯能はんのう騒擾そうじょう日記にっき[ちゅう 23]では最終さいしゅうてき飯能はんのうたむろしゅうしたへいかずを600にん[120]飯能はんのうむらなど4かそん役人やくにんせんのち領主りょうしゅ提出ていしゅつした『乍恐以書づけ訴奏さるじょうこう』では450にんほどとしるしている[95][121]。そのため『上野うえのあきらたいはこかん戦争せんそう』では『さとせい日誌にっし』の記述きじゅつ実数じっすうより1,000にんほどおおいものとしている[122]

装備そうびについて正確せいかくなことはさだかではないが[123]、『あいかおりおう』によればきゅう幕府ばくふ屯所とんしょからうばったミニエーじゅうを300ちょう[64]、『つちのえたつわたしじょう』によれば「新調しんちょうツバンドじゅう[ちゅう 24]」を250ちょうほど所持しょじしていた[66]。また『高岡たかおかやり太郎たろう日誌にっし』によれば、高岡たかおかはスウィッツルじゅう、カラスバミニーノ小銃しょうじゅう原文げんぶんママ)を所持しょじしていた[63][124]。このほかぐん頭取とうどり渡辺わたなべすすむ家来けらいゲベールじゅうを10ちょうかたなやり陣羽織じんばおりなどを所持しょじしており[75]中山ちゅうざんむら名主なぬし善左衛門ぜんざえもんたくあづけたことが記録きろくされている[75][123]。ただし、幕府ばくふ歩兵ほへいたい脱走だっそう屯所とんしょにミニエーじゅうのこされていたてん疑問ぎもんし、すべてゲベールじゅうではないかという指摘してきもある[123]

しん政府せいふぐん

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さとせい日誌にっし』では江戸えど出立しゅったつ飯能はんのうかった大村おおむら佐土原さどわら福岡ふくおか久留くるよね岡山おかやまの5はん総勢そうぜいを2,000にんしるしている[118][125]。これに韮山にらやま代官だいかん江川えがわ英龍ひでたつ配下はいか大井田おいだみなもと八郎はちろうまかなかたとして帯同たいどうし、周囲しゅういむら々で人足ひとあしうま手配てはいや、焚しを申付もうしつけた[125][126]。ただし『さとせい日誌にっし』では5月24にち飯能はんのうからげて、所沢ところざわまましおくしたさいしん政府せいふぐん総勢そうぜいを1,500にん人足ひとあしを450から460にんしるしている[126]。『飯能はんのう騒擾そうじょう日記にっき』では江戸えど出立しゅったつしたしん政府せいふぐん兵力へいりょくを3,000にん川越かわごし出立しゅったつ坂戸さかどかった兵力へいりょくを300にんしるしている[102]

大村おおむらはんは2まんせきあまりしょうはんだが[127]大村おおむら騒動そうどうはんない門閥もんばつ家老がろうらを大量たいりょう粛清しゅくせいしたのち渡辺わたなべ清左衛門せいざえもん隊長たいちょうとしたしんせいたい組織そしきして京都きょうと派遣はけん[128]薩摩さつまはん西郷さいごう隆盛たかもりらに接近せっきんし、薩摩さつま庇護ひごしたでイギリスしき軍事ぐんじ訓練くんれんけた[129]戊辰戦争ぼしんせんそうではしんせいたい発展はってん解消かいしょうした大村おおむらはんへいとして東征とうせいぐん先鋒せんぽうになった[130]大村おおむらはんとともに先鋒せんぽうにな佐土原さどわらはんも2まんせきあまりしょうはんであり、むねはんにあたる薩摩さつまはん影響えいきょうにあったが、藩主はんしゅ島津しまつ忠寛ただひろした軍制ぐんせい改革かいかくすすめられた[131]

福岡ふくおかはんは52まんせき久留くるべいはんは21まんせき石高こくだかゆうするが[132][133]幕末ばくまつには鎖国さこく攘夷じょうい開国かいこく開明かいめいあいだはんろんうごいた[134][135]福岡ふくおかはん長崎ながさき警備けいびつうじて外国がいこく勢力せいりょくたいする危機ききかんゆうし、開明かいめい藩主はんしゅ黒田くろだちょう積極せっきょくてき洋式ようしき技術ぎじゅつ導入どうにゅうしたものの、保守ほしゅ攘夷じょうい反発はんぱつった[135]軍制ぐんせいについてもじゅうほう家業かぎょうとする砲術ほうじゅつ攘夷じょうい洋式ようしきじゅう導入どうにゅう反対はんたいしたため改革かいかくすすまず、本格ほんかく導入どうにゅう慶応けいおう4ねん5がつのこととなった[136]一方いっぽう久留くるべいはん藩主はんしゅ有馬ありまよりゆき開明かいめい理解りかいしめし、慶応けいおう2ねん3がつには長崎ながさきからむらてつこれしんをイギリスしき調練ちょうれん師範しはんとしてまねき、藩士はんし訓練くんれん部隊ぶたい編成へんせいおこなった[137]

なお、渡辺わたなべ談話だんわによればしん政府せいふぐん当初とうしょ薩摩さつまはんこうそうしきもとこみ)のじゅう使用しようしていたのをのぞき、はんはすべてぜんそうしきさきこみ)のじゅう使用しようしていた[138]。そのため渡辺わたなべ長州ちょうしゅうはん木梨きなし精一郎せいいちろうって費用ひよう調達ちょうたつすると、横浜よこはまのちそうしきスナイドルじゅう購入こうにゅうした[138]後述こうじゅつする大村おおむら佐土原さどわら岡山おかやまはん記録きろくではへい戦術せんじゅつられたことがしめされており、飯能はんのう郷土きょうどかんでは「このことは小銃しょうじゅうが、密集みっしゅうせんるゲベールじゅうではなく、ライフルであったことを如実にょじつしめしている」としている[138]

大砲たいほうについては上野うえの戦争せんそうさい福岡ふくおかはん久留くるべいはんよんきん山砲さんぽう佐土原さどわらはんよんへん山砲さんぽう臼砲きゅうほう岡山おかやまはんがボートホウィッツルほう臼砲きゅうほう用意よういした[138]先述せんじゅつ渡辺わたなべ談話だんわでは山砲さんぽう購入こうにゅうしたこともしるされており、飯能はんのう郷土きょうどかんでは「いずれのはんでも臼砲きゅうほうもしくはよんへん山砲さんぽうといった大砲たいほう配備はいびしていたことはたしかだろう」としている[138]

戦闘せんとう経過けいか

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笹井ささい河原かわはらたたか

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5月23にち深夜しんや入間川いりまがわ沿いの笹井ささいむらげん狭山さやま笹井ささい)でしん政府せいふぐんたけぐんがわとの戦端せんたんひらかれた[139]当初とうしょ大村おおむらはん佐土原さどわらはん岡山おかやまはんは2扇町屋おうぎまちやじんからぐんすすめる約束やくそくわしていたが、佐土原さどわらはんは「まんいちてきさきんじられては合戦かっせん難儀なんぎする」と懸念けねんし、りょうはんことわりをれたうえ午前ごぜん0じん出発しゅっぱつした(『東海道とうかいどう先鋒せんぽう戦争せんそう次第しだい』)[140]入間川いりまがわわたり300メートルほどすすんだところでりょうぐん遭遇そうぐうし、たけぐんがわへい佐土原さどわらはん隊長たいちょう谷山たにやまふじすすむとのあいだ問答もんどうわされたのちたけぐんがわ発砲はっぽうするも不発ふはつだったためそのまま谷山たにやま頭部とうぶめがけてじゅうろし、谷山たにやま抜刀ばっとうして応戦おうせんした[139][141]。その竹藪たけやぶひそたけぐんがわ発砲はっぽうすると、佐土原さどわらはんじゅうたいほうたい川面かわもせながら応戦おうせんし、これを退散たいさんさせた[139][141]。ただし、夜明よあまえのため伏兵ふくへいによる不測ふそく事態じたい懸念けねんして深追ふかおいすることはなかった[139][141]

なお、このたたかいにおけるたけぐん被害ひがい詳細しょうさいさだかではないが、『飯能はんのう騒擾そうじょう日記にっき』はたけぐん隊長たいちょうひだりひじられたためのうじんてら本陣ほんじんり、しん政府せいふぐんせま状況じょうきょう治療ちりょうおこなった模様もようしるしている[142]。『つちのえたつわたしじょう』は、しん政府せいふぐんとの戦闘せんとうかたなきず医師いしから治療ちりょうけた隊長たいちょう瀧村たきむらしょうきちとしている[100]一方いっぽう佐土原さどわらはんがわ被害ひがいは『東海道とうかいどう先鋒せんぽう戦争せんそう次第しだい』によれば隊長たいちょう谷山たにやまが「きず」、せんへい1にんが「きず」としるしている[141][ちゅう 25][ちゅう 26]

扇町屋おうぎまちやへの夜襲やしゅう

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笹井ささい河原かわはらたたかいとほぼどうこくたけぐん一部いちぶ扇町屋おうぎまちやたむろしゅうするしん政府せいふぐん夜襲やしゅうこころみようとしていた[139]。5月22にち斥候せっこうからしん政府せいふぐんやく500にん扇町屋おうぎまちや到着とうちゃくしたとの情報じょうほうはいると、ぜんぐん頭取とうどり野村のむら良造りょうぞう成一郎せいいちろう夜襲やしゅう仕掛しかけることを提案ていあん[146]ぜんぐんやく200にん飯能はんのう出発しゅっぱつし、5月23にち1ころに扇町屋おうぎまちや到着とうちゃくした[146]。が、各戸かっこごとに探索たんさくしたものの「げいしゅうぼう」「いずれのぼう」とかかげられているのみでしん政府せいふぐん気配けはいはなかった[146]。そのためみなあつまり今後こんごについて協議きょうぎはじめたところ、飯能はんのう方面ほうめん砲声ほうせいさかんにこえたためいそいでかえした、とある(『高岡たかおかやり太郎たろう日誌にっし』)[146]

野田のだ双柳なみやなぎ方面ほうめん

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飯能はんのう周辺しゅうへんは4がつ26にち以来いらいあめつづいていたが[147]、5月23にちがたまでにはせた[142]。ただし、靄などがかかり8ころの時点じてんでも周囲しゅういえにくい状態じょうたいになっていた(『飯能はんのう騒擾そうじょう日記にっき』)[142]

6ころ[141]大村おおむらはん佐土原さどわらはん飯能はんのうかって西進せいしんした[139]野田のだむらはずれまですすむと、たけぐんへいによる狙撃そげきけたため、しん政府せいふぐんけた野原のはらまで進出しんしゅつしたところで散開さんかいし、野砲やほう小銃しょうじゅうもちいてはやしやぶひそ伏兵ふくへい撃退げきたいした(『渡辺わたなべきよしとどけしょ』)[139]

おなじころ、双柳なみやなぎ方面ほうめん進出しんしゅつした福岡ふくおかはん久留くるべいはん双柳なみやなぎむらはずれでたけぐんへい対峙たいじした[139]福岡ふくおかはん記録きろくによれば、先鋒せんぽうたい双柳なみやなぎむらはずれまで進出しんしゅつしたさいに30にんほどの整列せいれつした兵士へいしたちと遭遇そうぐう[112]。たがいに旗指物はたさしもの用意よういしていたため合図あいずのためってみたものの、朝霧あさぎりふかいためてき味方みかたかは識別しきべつできずにいたところ、しばらあいだいたのち相手方あいてがたからの発砲はっぽうはじまり、大小だいしょうじゅう応戦おうせんした[112]。その後続こうぞく味方みかたからの発砲はっぽうもあり相手あいて敗走はいそうさせた、とある(『福岡ふくおかはん隊長たいちょうとどけしょ ふとし総督そうとくあて』)[112]一方いっぽう久留くるべいはん記録きろくによれば、8ころ双柳なみやなぎとおりかかったさいたけぐんがわ斥候せっこう遭遇そうぐうしたため、すぐに発砲はっぽう退散たいさんさせたとある(『久留くるべい藩士はんし柴田しばた光衛みつえ 関東かんとう奥州おうしゅう征討せいとう記録きろく』)[113]。その福岡ふくおかはん久留くるべいはんはさらにちゅう山村さんそん進軍しんぐんした[112][113]

上鹿山かみかやま方面ほうめん

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5月22にち川越かわごえはんぐんかん尾上おがみ四郎しろう左衛門さえもんとともに大袋おおふくろむらげん川越かわごえ大袋おおふくろ)に出張しゅっちょう[148]霧雨きりさめつづ泥濘でいねいあしられながら進軍しんぐんし、夕刻ゆうこく根岸ねぎしむらげん狭山さやま根岸ねぎし)に到着とうちゃくした[148]根岸ねぎしにはてきへい気配けはいはないため、すぐに鹿山かやまむらけて進軍しんぐんした[148]途中とちゅう河川かせん増水ぞうすい見舞みまわれたため迂回うかいすすみながらよる鹿山かやまむら到着とうちゃくすると、もりかげひそたけぐんがわから銃撃じゅうげきけたため応戦おうせん[148]相手あいて暗闇くらやみまぎれてげたため、原宿はらじゅくげん日高ひだか原宿はらじゅく)へげて宿営しゅくえいした[148]

よく5がつ23にち深夜しんや西南せいなん方向ほうこうからはげしいほうおんこえたため、むらがいへいおくてき動静どうせいをうかがいつつ、情報じょうほう収集しゅうしゅうつとめた[148]翌朝よくあさ飯能はんのう攻撃こうげき報告ほうこくとどいたため、川越かわごえはんへいいちたいを「飯能はんのうむら近辺きんぺん咽喉いんこう場所ばしょ原文げんぶんママ)」にき、もういちたい要路ようろそないて機会きかいをうかがった[148]。あるいは、福岡ふくおかはん斥候せっこうから上鹿山かみかやまむらこうでの味方みかた劣勢れっせいつたえられたため、川越かわごえはんぐんかん指示しじにより飯能はんのうむら裏手うらてにある白子しらこむらかった[148](『松平まつだいらやすしえい 武蔵川むさしがわえつ』)。

川越かわごえはんへいとしてこのたたかいに従軍じゅうぐんした下山しもやま忠行ただゆき手記しゅきによると23にち深夜しんや3ころ、鹿しか山口やまぐち白子しらこむらたけぐんとの銃撃じゅうげきせんとなり、鹿山しかやまこうではしん政府せいふぐんたたみ防塁ぼうるいにし、散開さんかいしつつてき襲撃しゅうげきそなえた様子ようすしるされている[149]。また、鹿しか山口やまぐち白子しらこむら双方そうほう同士討どうしうちが発生はっせいした様子ようすしるされるとともに、鹿山かやまでは旗本はたもと用人ようにんという老人ろうじん白子しらこむら付近ふきんでは農夫のうふといった戦闘せんとういん殺害さつがいされた様子ようすしるされている[150]

中山なかやま方面ほうめん

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たけぐん屯所とんしょのひとつとしたさとしかんてら

8ころ、しん政府せいふぐん双柳なみやなぎ方面ほうめんから飯能はんのう周辺しゅうへん侵入しんにゅうたたかいがはじまった[95]のうじんてらさとしかんてら観音寺かんおんじ広渡ひろわたりてらの4かてらたむろしゅうするたけぐんへい小銃しょうじゅうててし、大砲たいほう小銃しょうじゅうそなえるしん政府せいふぐんとのあいだいとなった[95]真能しんのう寺村てらむら名主なぬしそう記録きろくによると、23にち深夜しんや0から笹井ささい鹿山しかやま方面ほうめんつづいていた夕立ゆうだちのような砲声ほうせい一旦いったんみ、しばらくしたのち飯能はんのう方面ほうめんたたかいがはじまった[96]住民じゅうみん支度じたく準備じゅんびはじめたところ、民家みんか砲弾ほうだん小銃しょうじゅうながだまんできたといい(『「だい炮玉ばこ箱書はこがき』)[96]老人ろうじん子供こども村役人むらやくにんおどろげだすさわぎとなった[95]戦闘せんとうはじまると4かてらだけでなく、飯能はんのうの「まち」を形成けいせいする飯能はんのうむら久下くげ分村ぶんそん真能しんのう寺村てらむら民家みんかからがりはじめた(『乍恐以書づけ訴奏さるじょうこう』)[95]

飯能はんのう騒擾そうじょう日記にっき』には笹井ささい方面ほうめん銃撃じゅうげきせんによりたけぐん敗走はいそうし、中山ちゅうざんむらさとしかんてらたたかいがうつった模様もようしるされている[142]同書どうしょによると「ては退しりぞ退きては中山なかやまさとしかん寺前てらまえときどうてら賊徒ぞくと後詰ごづめ飯能はんのううらまでまくりだてらるゝ、同勢どうぜい引留ひきとわり官軍かんぐんたたかひしがついさとしかんてら攻落せめおとされ」と一進一退いっしんいったい攻防こうぼうだったとしている[142]福岡ふくおかはん久留くるべいはん記録きろくによると、たけぐん屯所とんしょのひとつとするさとしかんてら到着とうちゃくすると大砲たいほうちかけ、りょうはんがすぐに突入とつにゅう開始かいしした[112][113]。ただし境内けいだい探索たんさくしたものの、たけぐんへい道具どうぐ食料しょくりょうのこしたまま退去たいきょしていた、としている[112][113]久留くるべいはん記録きろくによれば、てきへいかくひそんでいることもかんがえ、てらはらったとある(『久留くるべい藩士はんし柴田しばた光衛みつえ 関東かんとう奥州おうしゅう征討せいとう記録きろく』)[113]

聖天しょうてんりんもり内方ないほうめん

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中山なかやまさとしかんてらとしたことによりのうじんてら直接ちょくせつかうみちけたが、聖天しょうてんりん[ちゅう 27]ひそんでいたたけぐんへい襲撃しゅうげきけた[142]。そのため、大小だいしょうほうひゃくちょう応戦おうせんした結果けっかてきへい1にん敗走はいそうさせた(『飯能はんのう騒擾そうじょう日記にっき』)[142]

福岡ふくおかはん記録きろくによればさとしかんてら襲撃しゅうげきのち飯能はんのう裏手うらてすすむためかくはん協議きょうぎはじめるともりうちから発砲はっぽうけたため、発砲はっぽうすうあいだほど応戦おうせんしたのち相手あいて敗走はいそうさせた[112]もりうち捜索そうさくしたところてきへい1にんたおし、さらに周囲しゅういむら々を捜索そうさくしたところてきへい姿すがたえないためげたとある(『福岡ふくおかはん隊長たいちょうとどけしょ ふとし総督そうとくあて』)[112]

久留くるべいはんへい記録きろくによると、(たけぐんらが)町裏まちうら山中さんちゅうより(銃弾じゅうだんを)あめごと発射はっしゃしたため、しん政府せいふぐんくわたてへい散開さんかいしてそなえ、大砲たいほうたい小社しょうしゃすぎもりあつめ、はげしくてた[111]へい次第しだいすすむと賊兵ぞくへいはついに退散たいさんした[111]。すぐに山中さんちゅうむと墓所はかしょがあり、(相手あいては)墓石はかいしたてにしていたことがかった[111]討死うちじにした賊兵ぞくへいくびをはね、くわにかけて青梅おうめまで帰陣きじんした、とある(『(久留くるべい藩士はんし井上いのうえ達也たつや報国ほうこく日誌にっし』)[111]

飯能はんのうまちたたか

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大村おおむらはん佐土原さどわらはん記録きろくには飯能はんのう町中まちなかでのたたかいの記述きじゅつすくないが[141][144]後援こうえんとしてそなえていた岡山おかやまはん記録きろくには火災かさい模様もようや、町中まちなかでの戦闘せんとう模様もよう記述きじゅつされている(『先祖せんぞしょ 布施ふせ虎雄とらお』)[152])。同書どうしょによると、岡山おかやまはんみなみせきたいたけぐんたむろしゅうする観音寺かんのんじ攻撃こうげきりにはら武器ぶき甲冑かっちゅううばい、さらにたけぐん幹部かんぶ山中やまなかのぼる宿所しゅくしょ見定みさだめて放火ほうかした[152]。また町筋まちすじでも銃撃じゅうげきせんとなったため、たてとして使つかっていた町屋まちや仕方しかたなく放火ほうかすると、方々かたがたからがったとある[152]大村おおむらはん渡辺わたなべ中山なかやまさとしかんてら放火ほうかについては福岡ふくおかはん久留くるべいはんによるものとする一方いっぽう飯能はんのうまちへの放火ほうかについては「商家しょうかそくぞくはいへいしょ放火ほうか」と報告ほうこくしている(『渡辺わたなべきよしとどけしょ』)[144]

なお、渡辺わたなべ談話だんわによると、岡山おかやまはんへい熟練じゅくれんいちしょかたまってしまうことをかねて、大村おおむらへいべつ隊長たいちょうあづみずか岡山おかやまはん指揮しきった[153]。その最中さいちゅうに、渡辺わたなべ顔面がんめんのこきずったとしている(『史談しだんかい速記そっきろく』)[153][ちゅう 28]

高岡たかおかやり太郎たろう日誌にっし』には扇町屋おうぎまちや夜襲やしゅうかったぜんぐん飯能はんのう周辺しゅうへんたたかいにくわわった模様もようしるされている[146]同書どうしょによると飯能はんのうけてみちいそいでいたところしん政府せいふぐん伏兵ふくへいから発砲はっぽうされたため、その戦端せんたんひらかれた[146]。ただし高岡たかおからは夜襲やしゅう目的もくてきだったため弾薬だんやくそなえが十分じゅうぶんではなく、味方みかたからの大砲たいほう支援しえんもないなかたたかいとなり、相手あいて酒樽さかだる食料しょくりょう医薬品いやくひん各自かくじうばいつつ応戦おうせんした[146]高岡たかおからは馬上もうえから指示しじしん政府せいふぐん指揮しきかんたおすなど奮闘ふんとうしたが、物量ぶつりょうまさしん政府せいふぐんまえ次第しだい劣勢れっせいとなり、広渡ひろわたりてらがわぜんぐん組頭くみがしら山中さんちゅう岡田おかだ勇司ゆうじ2人ふたりすこはなれた場所ばしょ間庭まにわせいさん戦死せんししたとしるしている[146]

のうじんてらたたか

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のうじんてらくち
のうじんてら裏手うらてにある羅漢山らかんざん天覧山てんらんざん

周囲しゅういむら々でたけぐん掃討そうとうした大村おおむらはん佐土原さどわらはんはともに相手あいて本陣ほんじんのあるのうじんてらかった[141][144]大村おおむらはん記録きろくによるとりょうはんときこえをあげ、砲弾ほうだん雷電らいでんごとのうじんてらみ、それにたいたけぐん小銃しょうじゅう応戦おうせんした[144]。しばらくしてりょうはんさきあらそうようにのうじんてら突入とつにゅうすると境内けいだいはすでにほのおつつまれていたとしている(『渡辺わたなべきよしとどけしょ』)[144]一方いっぽう佐土原さどわらはん記録きろくではどうはんいち分隊ぶんたいさき境内けいだい突入とつにゅうしてはなち、ときこえをあげたとしている(『東海道とうかいどう先鋒せんぽう戦争せんそう次第しだい』)[141]。また、岡山おかやまはん記録きろくでは、さんはんがそろってたけぐんらのこめのうじんてら放火ほうかしたものとしている(『たけしゅう飯能はんのうひょうたたかえじょう』)[154]

成一郎せいいちろう談話だんわによると、破裂はれつだん発射はっしゃするしん政府せいふぐんたいし、たけぐんちこたえ防戦ぼうせんしていたが、午前ごぜん11ころ、はつ砲弾ほうだんのうじんてら本堂ほんどう直撃ちょくげきし、寺内てらうちはたちまちほのおつつまれた[155]前方ぜんぽうからはしん政府せいふぐんときこえをあげながらせ、後方こうほうからは猛火もうかせまなか、5間近まぢか戦闘せんとうにより疲労ひろう限界げんかいだったこともあり本陣ほんじん放棄ほうき敗走はいそうしたとしている(『あいかおりおう』)[155]

飯能はんのう騒擾そうじょう日記にっき』によると、一発いっぱつ砲弾ほうだん轟音ごうおんともてら裏手うらてにある羅漢山らかんざん直撃ちょくげきし、これをきっかけにたけぐん総崩そうくずれとなった、としている[142]下山しもやま忠行ただゆき手記しゅきによると、てら放火ほうか自体じたい川越かわごえはんになったとしている[156]どうはん高名こうみょう砲術ほうじゅつちの役目やくめけ、大砲たいほうはなつと本堂ほんどう裏手うらてにある大木たいぼく直撃ちょくげきした[156]大木たいぼくおとくずち、そのすさまじいよう蜘蛛くもらすように退散たいさんした、としている[156]

つちのえたつわたしじょう』によると、がた戦闘せんとう瀧村たきむらかたなきずい、5から6にん負傷ふしょうしゃたほかは、しん政府せいふぐんよこげきくわすうにん捕獲ほかくするなど、序盤じょばんたけぐんらの有利ゆうりつたえられた[98][100]。が、9ぎになると、ぜんぐん神奈川かながわたい敗退はいたい山中さんちゅう戦死せんしつたえられ、渋沢しぶさわたいら九郎くろう生死せいし不明ふめいとされるなど戦況せんきょう刻々こくこく悪化あっか弾薬だんやく不足ふそくとなった部隊ぶたい本陣ほんじんもどはじめた[98][100]。こうしたなか山田やまだ尾高おだかあつしただしから、こうそなえのへいをもって早急そうきゅう本陣ほんじん守備しゅびするようにもとめられたが、「へいもいまだもどらない状況じょうきょうでは、本陣ほんじんまもがたい」と難色なんしょくしめした[98]。さらに大小だいしょうほう砲声ほうせい砲弾ほうだん本陣ほんじんせまったため、負傷ふしょうしゃ後方こうほうやま避難ひなんさせ、砲弾ほうだんをかいくぐりながら軍資ぐんし弾薬だんやく旌旗せいきあつめた[98][100]たけぐんらの敗色はいしょく濃厚のうこうとなり、のうじんてら本陣ほんじん火災かさいこると、士卒しそつのぞんで後方こうほうやまのがれた[100][157]。そのさい山田やまだ家来けらいが、しん政府せいふぐんへの内通ないつううたがいで本陣ほんじん捕獲ほかくされていた寺僧じそう殺害さつがいしたとしるしている(『つちのえたつわたしじょう』)[100][157]。『飯能はんのう騒擾そうじょう日記にっき』では裏山うらやま避難ひなんしていた飯能はんのう在住ざいじゅうの鍼医がわすものりにいえまでもどろうとしたところ、のうじんてら門前もんぜんしん政府せいふぐんらえられ、黒田くろだ墓前ぼぜん殺害さつがいされた模様もようしるされているが[142]ふたつの事件じけん関係かんけいさだかではない[100]

しん政府せいふぐんのうじんてらとすと、へいととのえて進軍しんぐんしたみちもどり、道中どうちゅうではたけぐん残党ざんとうから砲撃ほうげきけるもこれを退しりぞけて、ひる1までに扇町屋おうぎまちや帰陣きじんした(『渡辺わたなべきよしとどけしょ』)[144]扇町屋おうぎまちや一泊いっぱくし、のうじんてらへの先陣せんじんあらそったへい2にん報奨ほうしょうきんあたえられ、慰労いろうとして足軽あしがる人足ひとあしいたるまでさけ振舞ふるまわれた(『大村おおむらはん東征とうせい日誌にっし さん』)[110]。5月24にち午前ごぜんだい総督そうとく久留くるべいはん一手いって敗残はいざんへい掃討そうとうのため残留ざんりゅうさせ、のこりは江戸えどげるようにめいじた[144]同日どうじつ午後ごご扇町屋おうぎまちや出立しゅったつし、所沢ところざわて、田無たなしいちはく[144]よく5がつ25にち江戸えどへともどった(『大村おおむらはん東征とうせい日誌にっし さん』)[144]

しん政府せいふぐん掃討そうとうせんたけぐんらの脱出だっしゅつぎょう

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ちょく竹村たけむらげん飯能はんのう下直竹しもなおたけ)にそなえた福岡ふくおかはん分隊ぶんたいは、末成すえなり橋場はしばげん青梅おうめ成木なりき[158])に10にん乙黒おとぐろげん青梅おうめ小曾木おそき[158])に20にんほどのへい配置はいちした(『市川いちかわ日記にっき』)[159]のうじんてら陥落かんらく本隊ほんたい扇町屋おうぎまちやから江戸えどへともどったが、分隊ぶんたいつづ周囲しゅういむら々でたけぐん残党ざんとう捜索そうさくにあたった[112]下畑しもはたむらげん飯能はんのう下畑しもはた)からさんまちばかりさきにある松山まつやま残党ざんとう潜伏せんぷくしているとの報告ほうこくとどき、現場げんばかったところ7、8にん姿すがた発見はっけんしたため発砲はっぽう[112]2人ふたりり、のこりはにがしたものの手負ておきずわせ、そのまま扇町おうぎまちげた(『福岡ふくおかはん隊長たいちょうとどけしょ ふとし総督そうとくあて』)[112]末成すえなり橋場はしば乙黒おとぐろ配置はいちされたへいは、23にちよる周辺しゅうへんむら々の捜索そうさくおこない、25にちちょくたけへとげた(『市川いちかわ日記にっき』)[160]。なお、銃撃じゅうげきにより死亡しぼうしたのはたけぐん残党ざんとうではなく下畑しもはたむら百姓ひゃくしょう綱吉つなよし松吉まつよし兄弟きょうだいだったといい、むらそうだい二人ふたり昼食ちゅうしょくのためいえかえ途中とちゅうかわりてあしあらっていたところ銃撃じゅうげきけたと役所やくしょ報告ほうこくしている[161]

鹿山しかやまくちから白子しらこむら進軍しんぐんした川越かわごえはんへい残党ざんとう掃討そうとうにあたっていたが、白子しらこむら対岸たいがんにある横手よこてむら山腹さんぷく脇道わきみち秩父ちちぶ方面ほうめんのがれようとする20から30にんほどの残党ざんとう発見はっけんした[148]川越かわごえはんへい河川かせん高麗川こまがわ)の急流きゅうりゅうえて対岸たいがんわたり、残党ざんとうのち追跡ついせき発砲はっぽうすると、あわてて山林さんりん潜伏せんぷくした[148]。そのため周囲しゅうい捜索そうさくしたところ、1人ひとりりにした[148]よく5がつ24にち以降いこうぐんかん尾上おがみ四郎しろう左衛門さえもん指示しじによりすうたいけて周囲しゅういむら々を捜索そうさくしたが残党ざんとう姿すがたはなく、5月27にち坂戸さかど近隣きんりんの13かそんを掃攘したのち、5月28にち川越かわごしもどった(『松平まつだいらやすしえい 武蔵川むさしがわえつ』)[162]横手よこてむら住人じゅうにん大川戸おおかわど記録きろくによると、当地とうちびてきたたけぐん残党ざんとう成一郎せいいちろうらだったといい、自宅じたく衣服いふく食料しょくりょうあたえ、うえしゅう方面ほうめんかう道案内みちあんないってるなど脱出だっしゅつぎょう手助てだすけした[163]。その成一郎せいいちろう尾高おだか草津くさつ伊香保いかほげん群馬ぐんまけん渋川しぶかわ方面ほうめん潜伏せんぷくしたのち成一郎せいいちろう江戸えどかい榎本えのもと武揚ぶようひきいるきゅう幕府ばくふ艦隊かんたい合流ごうりゅう[164]尾高おだか機会きかい見計みはからったうえ郷里きょうり下手計しもてばかもどった(『あいかおりおう』)[155]

渋沢しぶさわたいら九郎くろう自決じけつ

越生おごせ方面ほうめん進軍しんぐんしたにんはん広島ひろしまはんたけぐん甲府こうふ方面ほうめんへの敗走はいそう報告ほうこくとどくと、にんはん今市いまいち宿やどげん越生おごせまち越生こしお)のまもりをかためた[106]広島ひろしまはんは5月23にち午後ごご2ごろ坂石さかいしげん飯能はんのう坂石さかいし)にけて出立しゅったつし、きわむもの6にん斥候せっこうとして先行せんこうさせた[106]斥候せっこう顔振峠こうぶりとうげくちかったところ、ろくしゃくあまり大男おおおとこ1にん旅装りょそうたば姿すがたさきいそいでいたため、斥候せっこうめた[106]残党ざんとう間違まちがいないととらえようとしたところぐにりあいとなり、きわむ大力だいりきしゃでもりは困難こんなんとなりった[106]。そのさい斥候せっこう2にん深手ふかでった[106]。さらに越生おごせ山中さんちゅうにはすうひゃくにん残党ざんとうたむろしゅうしているとて、その一旦いったんかえし、5月24にちにんはんとともに当地とうちせたところ、残党ざんとうではなかったとかり越生おごせもどった[106]広島ひろしまはんは5月25にちあさ8越生おごせ出立しゅったつ坂戸さかど一泊いっぱくしたのち、5月26にち川越かわごえ城下じょうかもどった(『慶応けいおう四年戊辰第一起神機隊奥州出軍日記』、以下いか奥州おうしゅうぐん日記にっき』)[106][ちゅう 29]。『奥州おうしゅうぐん日記にっき』にある「ろくしゃくあまり大男おおおとこ」は渋沢しぶさわたいら九郎くろうだったといい、村人むらびと談話だんわによると、たいら九郎くろうりあいのすえ午後ごご4ころ自決じけつこころみ、みずかはらのどしてたおれた[166]はんへい銃弾じゅうだん乱射らんしゃしてその首級しゅきゅうり、ほうおんてら門前もんぜんさらした[166]遺体いたい村人むらびと黒山くろやまぜんほらいんほうむられ、首級しゅきゅうはんへいったのちほうおんてらはやしなかほうむられた(『渋沢しぶさわたいら九郎くろうでん』)[166]

にんはんは5月23にち秩父ちちぶきょう大宮おおみやげん秩父ちちぶ)へったあきらたい瀧川たきがわわたるら12にん調しらべ、飯能はんのうちもらした残党ざんとうとして斬首ざんしゅした(『にんはん届出とどけで だい総督そうとくあて』)[115]。5月25にちどうはんたけぐん残党ざんとう寄居よりいたむろしゅうしているとしていち小隊しょうたい派遣はけんした(『松平まつだいら忠敬ちゅうけい 武蔵むさしにん』)[115]前橋まえばしはんは5月26にちころから領内りょうないたけしゅう松山まつやま陣屋じんや付近ふきん飯能はんのう戦争せんそう脱走だっそうじん徘徊はいかいしているとして、周辺しゅうへん地域ちいき捜索そうさくした[167]。そのうち一人ひとり畠山はたけやまむらげん深谷ふかや畠山はたけやま満福寺まんふくじとらえ、調しらべののちった(『前橋まえばしはん』)[167]畠山はたけやまられた残党ざんとうあきらたい水橋みずはし右京うきょうだったといい、竹沢たけざわげん小川おがわまち方面ほうめんからのがれてきたところをらえられたとつたえられている[168]

飯能はんのう周辺しゅうへんとどまったものなかで、比留間ひるま良八りょうはちたたかいののち梅原うめはらむらげん日高ひだか梅原うめはら)の実家じっかあねとつさき親戚しんせきたく転々てんてんとしてなんのがれたとつたえられている[169]一方いっぽうで、杉山すぎやま銀之丞ぎんのじょう平沢ひらさわ銀之丞ぎんのじょう横手よこてぎん二郎じろう)はたたかいののち鹿山しかやま通行つうこうしようとしてらえられたとも(『さくらかげ筆記ひっき』)、かろうじてながらえ鹿山しかやま潜伏せんぷくしていたところをらえられころされたともつたえられている(『飯能はんのう騒擾そうじょう日記にっき』)[170]

さい集結しゅうけつ場所ばしょとしたおく秩父ちちぶ三峰山みうねやま周辺しゅうへんには幹部かんぶ久保くぼ喜三郎きさぶろう山田やまだりゅう八郎はちろうらが辿たどいた[171]。ただし、三峰山みうねやままで辿たどいたものは100にんたず、成一郎せいいちろう尾高おだか野村のむら主要しゅよう幹部かんぶあらわれなかったため、山田やまだ久保くぼ協議きょうぎすえ組織そしきをいったん解散かいさんさせて、機会きかい再起さいきはかることとした[171]。(『つちのえたつわたしじょう』)[171]。なお、三峯みつみね神社じんじゃには5月24にち徳川とくがわ浪人ろうにん名乗なの高松たかまつ小三郎こさぶろう竹沢たけざわ市五郎いちごろうさむらい35にんへい43にんあらわぐん用金ようきん借用しゃくよう[34]よく5がつ25にちには浪人ろうにん名乗なの高木たかぎ元三郎もとさぶろう落合おちあい伊織いおりほか5にんたけぐんたい近藤こんどう熊太郎くまたろうほか5にんあらわ金銭きんせん要求ようきゅうしている(『三峰みつみね神社じんじゃかん』)[34]山田やまだのうじんてらから敗走はいそうするさい近江おうみこく出身しゅっしん北川きたがわぼう軍用ぐんようきん1,000りょうあづけていたが、北川きたがわ行方ゆくえれずとなったため、寺社じしゃから200りょう借用しゃくようし、へいらにあたえたのち解散かいさんしたとしている(『つちのえたつわたしじょう』)[171]

山田やまだ久保くぼわかれ、大滝おおたきむらげん秩父ちちぶ)などで潜伏せんぷくしたのち江戸えどもどると、同志どうし熊谷くまがい小一郎こいちろうから成一郎せいいちろう潜伏せんぷくさきき、直接ちょくせつ機会きかい[172]。そのさい成一郎せいいちろう榎本えのもときゅう幕府ばくふ艦隊かんたい合流ごうりゅうするあんしめし、山田やまだもこれにくわわることに同意どうい[172]。6がつ中旬ちゅうじゅん成一郎せいいちろう山田やまだ久保くぼ高木たかぎだいこれしん飯能はんのうたたかったじゅうすうにん同志どうしとともに開陽かいようまるちょうくじらまる乗船じょうせん[171][172]飯能はんのうまちから敗走はいそうした高岡たかおかやり太郎たろう名栗なぐり贄川にえかわげん秩父ちちぶ荒川あらかわ贄川にえかわ)、鴻巣こうのすなどを転々てんてんとしたのち、7がつ15にちきゅう幕府ばくふ艦隊かんたい合流ごうりゅうし、朝陽あさひまる乗船じょうせんした[173]成一郎せいいちろうらはあきらたい残党ざんとうとともに仙台せんだいはこかんへとかい、はこかん戦争せんそうとうじた[171]

結果けっか影響えいきょう

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大村おおむらはん渡辺わたなべ清左衛門せいざえもんは、たけぐん死者ししゃすう山林さんりん原野げんやよこたわり不明ふめいりは50から60にんあさふか手負ておいは不明ふめい報告ほうこくしている(『渡辺わたなべきよしとどけしょ』)[144][174]。これにたいしん政府せいふぐん死者ししゃはなく、浅手あさでまけは5にん岡山おかやまはん瀬賀せがやく次郎じろう宍戸ししど久五郎きゅうごろう佐土原さどわらはん谷山たにやまふじすすむ斎藤さいとうただし兵衛ひょうえ大村おおむらはんおか乕之すけ)と報告ほうこくしている[144]。ただし、この報告ほうこくには広島ひろしまはん川越かわごえはんにんはんふくまれておらず[144]佐土原さどわらはん記録きろくでは谷山たにやまきず[141]岡山おかやまはん記録きろくでは瀬賀せがほうそうにより横浜よこはま病院びょういん収容しゅうようされ、3かげつ復帰ふっきしたとしるされている(『先祖せんぞ并御奉公ほうこう品書しながきじょう 瀬賀せがやく次郎じろう』)[165]渡辺わたなべ後年こうねん自身じしん飯能はんのうまちたたかいでかおのこきずったと発言はつげんしており(『史談しだんかい速記そっきろく』)[153][ちゅう 28]損害そんがい実態じったいさだかではない。このほか、『飯能はんのう騒擾そうじょう日記にっき』では秩父ちちぶのがれた60から70にん賊徒ぞくと総督そうとく問合といあわせたうえ同所どうしょで戮殺、飯能はんのう賊徒ぞくと討死うちじには3にん官軍かんぐん死傷ししょうしゃ不明ふめいしる[175]、『さとせい日誌にっし』では23にち未明みめいからのたたかいによりたけぐんしん政府せいふぐん双方そうほう討死うちじに手負ておいがたとのみしるしている[117]

戦場せんじょうとなった地域ちいきではのうじんてらさとしかんてら観音寺かんのんじ広渡ひろわたりてらの4かてら本堂ほんどうなどのおもだった建物たてもの焼失しょうしつ飯能はんのうむら久下くげ分村ぶんそん真能しんのう寺村てらむら中山ちゅうざんむらの4かそんの200焼失しょうしつする被害ひがいけた[174][176]。また、飯能はんのうまち鹿山しかやま下畑しもはたなどで住民じゅうみんしん政府せいふぐんからぶりぐん残党ざんとう誤認ごにんされ殺害さつがい人足ひとあし道案内みちあんないとしてたけぐん協力きょうりょくしたもの殺害さつがいされた事例じれいもあった[144][174]

せんから1かげつはんの7がつ9にち甲府こうふ鎮撫ちんぶから延岡のべおかはん飯能はんのうひょうまりのため派遣はけんされたが、戦火せんか影響えいきょうにより飯能はんのう宿やどじんすることができず、上鹿山かみかやまむらじん職務しょくむおこなうことになった[177]。その周辺しゅうへん地域ちいき治安ちあん状態じょうたい回復かいふくせず、住民じゅうみんがゲベールじゅうやライフルじゅう武装ぶそう自衛じえいせざるをなくなった[178]

飯能はんのう周辺しゅうへん幕府ばくふりょうはた本領ほんりょうおお[149]、このたたかいではたけぐんたい住民じゅうみん比較的ひかくてき寛容かんよう姿勢しせいせたが、やがてしん政府せいふ敵対てきたいしたイメージからたたかいのことはかたられなくなった[179]研究けんきゅうしゃ宮間みやま純一じゅんいちたたかいの直後ちょくごから「佐幕さばくてき行為こうい人々ひとびと記憶きおくから抹消まっしょうされていき、「勤王きんのう」というしん政府せいふ価値かちかん沿行為こうい、あるいは被害ひがいしゃてき視点してんのみが強調きょうちょうされていったと指摘してき[180]。1944ねん刊行かんこうされた『飯能はんのう郷土きょうど』ではその傾向けいこう顕著けんちょあらわれ、戦後せんご刊行かんこうされた『飯能はんのう』でも断片だんぺんてきのこされていると指摘してきしている[180]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 飯能はんのうという地名ちめい江戸えど期末きまつまでは飯能はんのうむらげん飯能はんのう大字だいじ飯能はんのう本町ほんまち山手やまてまち)に限定げんていしたものだった[3]明治めいじ飯能はんのうまち発足ほっそくして以降いこう合併がっぺいかえしながら徐々じょじょ範囲はんい拡大かくだいさせ、2021ねん現在げんざいでは地域ちいき全体ぜんたいすものとなった[3]。そのため飯能はんのう範囲はんい時代じだいごとにことなるが[3]ほん記事きじでは特記とっきすることのないかぎり、地域ちいき言葉ことばとして「飯能はんのう」「飯能はんのう周辺しゅうへん」、飯能はんのうむら久下くげ分村ぶんそん真能しんのうてらむらにまたがり市場いちば形成けいせいされた地域ちいき[4]は「飯能はんのうまち」「まち」などの名称めいしょうもちいる。
  2. ^ a b 後述こうじゅつするように、飯能はんのう戦争せんそう前後ぜんごして成一郎せいいちろうは「大寄おおより隼人はやと」、尾高おだかは「はしばみさわ新六郎しんろくろう」という変名へんめい名乗なのっているが[8]ほん記事きじでは特記とっきすることのないかぎり、本名ほんみょうもちいる。
  3. ^ 山岡やまおか鉄舟てっしゅうひきいる精鋭せいえいたい京都きょうと見廻組みまわりぐみ[12]
  4. ^ 尾高おだかあつしちゅう水戸みとまなぶ信奉しんぽうしゃであり、文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)には同志どうしとも高崎たかさきじょう襲撃しゅうげき計画けいかく横浜よこはま外国がいこくじん居留きょりゅう計画けいかくかかわった[17]渋沢しぶさわ栄一えいいち成一郎せいいちろういちきょうつかえたえん慶喜よしのぶところとなり、慶応けいおう3ねん(1867ねん)10がつ慶喜よしのぶ側近そっきん内命ないめいしてあつしちゅう上京じょうきょううながした[18]尾高おだか慶喜よしのぶ勤皇きんのう水戸みと徳川とくがわ出身しゅっしんであったことからこれを承諾しょうだくしたが、ほどなくして鳥羽とば伏見ふしみたたかいが勃発ぼっぱつしたため上京じょうきょうりやめ故郷こきょうかえした[19]。そのあきらたい結成けっせいかかわるが、自身じしん幕臣ばくしんではないことから裏方うらかたてっし、成一郎せいいちろう天野あまの対立たいりつすると行動こうどうともにして脱退だったいした[20]
  5. ^ 本多ほんだともなえ須永すなが小林こばやしきよし五郎ごろう田中たなか清三郎せいさぶろう瀧村たきむらしょうよし小川おがわ椙太、百井ももいもとむこれすけ栂野とがの虎次郎とらじろう小笠原おがさわらあきら三郎さぶろう岡野おかの誠一郎せいいちろう間中まなか龍吉りゅうきち大川おおかわ平三へいぞうの13にん[22]須永すなが小川おがわ岡野おかのあいだちゅう大川おおかわもと元年がんねん(1864ねん)に渋沢しぶさわ栄一えいいち成一郎せいいちろう人選じんせん御用ごようおうじたもの[22]小林こばやし瀧村たきむら栂野とがのかたなやりかた警衛けいえい出身しゅっしん[22]
  6. ^ てい火消ひけしやく与力よりき広浜ひろはまもと養子ようし[23]。『あたらしあきらたい戦史せんし』では処士しょし仕官しかんしゃ)としている[23]
  7. ^ あきらたい戦史せんし収録しゅうろく須永すなが傳蔵でんぞう あきらたいかんする経歴けいれき」では、あきらたい結成けっせい須永すなが尾高おだからとともに北関東きたかんとう遊説ゆうぜいかったいちぎょうなかに「竹沢たけざわ市五郎いちごろう」「竹沢たけざわ亀五郎かめごろう」の[33]、『三峯みつみね神社じんじゃかん』5がつ24にちこうしるされた徳川とくがわ浪人ろうにん名乗なのいちぎょうなかに「竹沢たけざわ亀五郎かめごろう」「竹沢たけざわ長三郎ちょうさぶろう」のしるされている[34]。このうち、市五郎いちごろう渋沢しぶさわ本家ほんけすじだしで、元治もとはる元年がんねん(1864ねん)の人選じんせん御用ごようさい須永すなが小川おがわ椙太、新開しんかい儀三郎ぎさぶろうらとともにいちきょう家臣かしんとなり[35]竹沢たけざわせい名乗なのった[36]
  8. ^ 江戸えど幕府ばくふ職制しょくせい将軍しょうぐん身辺しんぺん警護けいご江戸城えどじょうなどの警備けいびになばんかた書院しょいんばん小姓こしょうぐみ大番おおばんしょうじゅう人組にんぐみしんばん)のうち、書院しょいんばん小姓こしょうぐみ[41]ばんかた平時へいじにはいえろく家筋いえすじなどで役職やくしょくさだめられていたが[41]りょうばんもっとかくたか[42]戦時せんじには将軍しょうぐんうままわりやくになった[41]
  9. ^ 明治めいじ8ねん(1875ねん)に3かてら合併がっぺいして総持寺そうじじしょうした[67]
  10. ^ 高岡たかおか日誌にっし』では「渋沢しぶさわ成一郎せいいちろう[63]、『さとせい日誌にっし』では「大寄おおより隼人はやと」と「渋沢しぶさわ精一郎せいいちろう」を併記へいき[74]、それ以外いがい史料しりょうでは「大寄おおより隼人はやと表記ひょうき
  11. ^ いずれの史料しりょうも「榛沢はんざわ榛澤はんざわ新六郎しんろくろう表記ひょうき
  12. ^ 高岡たかおか日誌にっし』では「野村のむら良造りょうぞう[63]、『つちのえたつわたしじょう』では「野村のむらとおる直吉なおきち)」[71]、『用向ようむきひかえちょう』では「野村のむら龍吉りゅうきち[73]、『さとせい日誌にっし』では「野村のむらたてきち表記ひょうき[74]
  13. ^ a b 中山ちゅうざんむら名主なぬし善左衛門ぜんざえもん明治めいじ2ねん(1869ねん)に品川しながわけんちょうてたとどけしょによれば、本名ほんみょうは「渡辺わたなべ志津しづ[75]。8と11は同一どういつ[76]
  14. ^ 用向ようむきひかえちょう』では「山田やまだりゅう次郎じろう表記ひょうき[73]
  15. ^ つちのえたつわたしじょう』では「渡辺わたなべわたる表記ひょうき[71]
  16. ^ つちのえたつわたしじょう』では「くぼさん吉之丞きちのじょう表記ひょうき[71]
  17. ^ 仁義じんぎたい主力しゅりょく部隊ぶたい[76]仁義じんぎたい間宮まみやきむ八郎はちろう隊長たいちょうとした部隊ぶたいで、八王子はちおうじせんにん同心どうしん向山むかいやま春吉はるきちをはじめとした多摩たまぐん出身しゅっしんしゃのほか、かくはん脱藩だっぱん浪士ろうしらで構成こうせいされていた[80]間宮まみや仁義じんぎたい主力しゅりょく300にんあまりひきいて上野うえの戦争せんそう参戦さんせんし、臥龍がりょうたいしょうした[81]
  18. ^ 上野うえのあきらたいはこかん戦争せんそう』では箱根ヶ崎はこねがさき経由けいゆしたたいたけぐん所沢ところざわ経由けいゆしたたいあきらたいとしている[85]
  19. ^ 武蔵むさしこく高麗こうらいぐん出身しゅっしんで、いみなしゅ[86]きのえはじめ一刀いっとうりゅう剣客けんかくで、いちきょう家臣かしんてられたのち剣術けんじゅつ教授きょうじゅかた陸軍りくぐんじゅうたい指図さしずやくなどをつとめた[86]下総しもうさこく香取かとりぐん出身しゅっしん比留間ひるま良八りょうはち掃部とは別人べつじん[86]。掃部はこうたけしょ指南しなんやく今堀いまほり登代とよ太郎たろうおしえをけたしんかげりゅう使つかであり、しゅ同様どうようあきらたいとなった[86]
  20. ^ 大河原おおがわらむら上畑じょうはたむら下畑しもはたむら下直竹しもなおたけむら原市場はらいちばむら赤沢あかさわむら唐竹からたけむらの7かそん[92]飯能はんのう戦争せんそう主戦しゅせんじょうのひとつとなった飯能はんのうむら久下くげ分村ぶんそん真能しんのう寺村てらむら久留里くるりはんりょう[92]
  21. ^ 真能しんのう寺村てらむら名主なぬしそう利八郎りはちろうしるしたもの[97]
  22. ^ a b 飯能はんのう郷土きょうどかんは、にんはん広島ひろしまはん越生おごせ方面ほうめんへの進軍しんぐんは、共同きょうどうたいうごきに対応たいおうしたものとしている[101]
  23. ^ 作者さくしゃしょう[119]飯能はんのう戦争せんそうしん政府せいふがわ視点してんしるしたもの[119]筆者ひっしゃについては岩倉いわくら具視ともみ指示しじ関東かんとう地方ちほう諜報ちょうほう活動かつどうおこなっていた落合おちあいただしあきらともいわれるがさだかではない[119]
  24. ^ 西東京にしとうきょう郷土きょうど研究けんきゅうかいこう正樹まさきは「ふたつバンド」とあることから、エンフィールドしきミニエーじゅう推測すいそくしている[66]
  25. ^ 島津しまつ忠寛ただひろ 日向ひなた佐土原さどわら』では、谷山たにやま怪我けがして奥州おうしゅう征討せいとうくわわり常陸ひたちこく平潟ひらかたぼっしたとしるしている[111]。『幕末ばくまつ維新いしんぜん殉難じゅんなんしゃ名鑑めいかん 4』では、「明治めいじ元年がんねんがつじゅうさんにち常陸ひたち平潟ひらかたきずなながつさんにち」としるしている[143]
  26. ^ だい総督そうとく府下ふか参謀さんぼう渡辺わたなべきよしとどけしょ だい総督そうとくあて』(以下いか、『渡辺わたなべきよしとどけしょ』)では戦闘せんとう直後ちょくご大村おおむらはん応援おうえんけ、りょうはんがこの夜明よあけをったとしるされ、谷山たにやま怪我けが程度ていども「浅手あさでまけ」としるしている[144]。さらに渡辺わたなべ晩年ばんねん談話だんわ(『史談しだんかい速記そっきろく』)をのこしているが、りょうはん内命ないめいにより夜明よあまえから行動こうどうこし、戦端せんたんひらいたかのようにしるすなど、『東海道とうかいどう先鋒せんぽう戦争せんそう次第しだい』や『渡辺わたなべきよしとどけしょ』とはちがいをせている[145]
  27. ^ 飯能はんのう市立しりつ飯能はんのうだいいち小学校しょうがっこう付近ふきんまつられていたせい天宮てんぐうはやし[151]
  28. ^ a b 「(前略ぜんりゃく)そこで大村おおむらへい隊長たいちょうまかして、きよし備前びぜんへい指揮しきしてづかったが、何分なにぶんはじめてたたかへいであるからはなはこういがあくるい、其節きよしついきずふた、其傷ハいまでもこゝ(顔面がんめんして)ざんつてります」とある[153]
  29. ^ 広島ひろしまはん隊長たいちょう連名れんめいだい総督そうとくてた報告ほうこくでは「黒山くろやまさるしょニテぞくはいそつ出合であいそく取合とりあえこうしょ賊徒ぞくとみなそうさきヘ逃去リいちにん打取うちとさるこう」とあり、『奥州おうしゅうぐん日記にっき』にある「ろくしゃくあまり大男おおおとこ」についてはとくれず、黒山くろやま残党ざんとう掃討そうとうしたさい1人ひとりったとしるしている(『広島ひろしまはん隊長たいちょう届出とどけで だい総督そうとくあて』)[165]

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  • 山崎やまざき有信ありのぶあきらたい戦史せんし隆文たかふみかん、1910ねんhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773365/239  - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション

外部がいぶリンク

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