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栗本くりもと東明とうめい

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栗本くりもと 東明とうめい(くりもと とうめい、よしみひさし6ねん10月8にち1853ねん11月8にち) - 大正たいしょう10ねん1921ねん1がつ1にち)は、医学いがく博士はかせ狂犬病きょうけんびょう予防よぼう注射ちゅうしゃえき世界せかいはじめて発見はっけんし、だい高等こうとう学校がっこう教授きょうじゅ旧制きゅうせい長崎ながさき医科いか大学だいがく主事しゅじ心得こころえ長崎ながさき医学いがく専門せんもん学校がっこう長崎ながさき病院びょういん内科ないか医長いちょうけん眼科がんか医長いちょうなどを歴任れきにんした。したがえくんろくとう。また、ロシア皇帝こうていニコライ2せいからかみきよしアンチだいさんとう勲章くんしょう授与じゅよされている。

経歴けいれき

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出羽でわこく田川たがわぐん大山おおやまげん山形やまがたけん鶴岡つるおか大山おおやま)に庄内しょうないはん栗本くりもとりょうとしてまれる(長男ちょうなん医学いがくしゃ栗本くりもとたかしやす)。幼名ようみょう亀五郎かめごろう慶応けいおう2ねん1866ねん江戸えど医師いしをしていたあにふしやすたよりに江戸えど出府しゅっぷし、蘭方らんぽう伊東いとう玄朴げんぼく医術いじゅつ英語えいごまなぶ。明治維新めいじいしんともにいったん帰郷ききょうし、明治めいじ3ねん(1870ねん)11月に慶應義塾けいおうぎじゅくはいり、地理ちりしょなどをまなび、明治めいじ5ねん(1872ねん)に慶應義塾けいおうぎじゅくさい入学にゅうがくした。いで本郷ほんごうみずのえさるじゅくはいり、はじめてドイツまなぶ。東京大学とうきょうだいがく医学いがくおさめ、明治めいじ17ねん(1884ねん)に卒業そつぎょう岡山おかやま学校がっこう熊本くまもと旧制きゅうせいだか教授きょうじゅ歴任れきにんし、明治めいじ18ねん(1885ねん)、長崎ながさき病院びょういん眼科がんか医長いちょう内科ないか医長いちょう赴任ふにん

1894ねんから1895ねんにかけて長崎ながさきけんおよ九州きゅうしゅう全域ぜんいき狂犬病きょうけんびょう流行りゅうこうこると、研究けんきゅう開始かいしし、日本にっぽん最初さいしょパストゥールほうによる曝露ばくろ免疫めんえきほどこし、予防よぼう注射ちゅうしゃえき発見はっけんした。またこれによって1897ねんから全国ぜんこく狂犬病きょうけんびょう発生はっせい件数けんすう公式こうしき記録きろくされるようになり、伝染でんせんびょう研究所けんきゅうじょにおいても曝露ばくろ免疫めんえき開始かいしされた。明治めいじ30ねん(1897ねん)9がつ2にちに、医学部いがくぶ主事しゅじ吉田よしだ健康けんこうぼっしたため、11にち栗本くりもと東明とうめい主事しゅじ心得こころえとして事務じむ取扱とりあつかい委任いにんされ、同日どうじつ教授きょうじゅ大谷おおやあまねあん後任こうにん主事しゅじめいぜられた。明治めいじ31ねん(1898ねん)に文部省もんぶしょう留学生りゅうがくせい選出せんしゅつされ、ドイツフランス留学りゅうがくし、2ねん帰国きこくともに、医学いがく博士はかせ学位がくい授与じゅよされる。その本郷ほんごう根津ねづいずみ病院びょういん大森おおもり病院びょういん院長いんちょうとなり、医術いじゅつ開業かいぎょう試験しけん委員いいんとなる。70さいぼつ墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん(2イ12)。

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

著書ちょしょ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 官報かんぽうだい2379ごう叙任じょにん及辞れい」1891ねん6がつ6にち
  2. ^ 官報かんぽうだい3404ごう叙任じょにん及辞れい」1894ねん10がつ31にち
  3. ^ 官報かんぽうだい4326ごう叙任じょにん及辞れい」1897ねん12月1にち
  4. ^ 官報かんぽうだい6101ごう叙任じょにん及辞れい」1903ねん10がつ31にち
  5. ^ 官報かんぽうだい5098ごう叙任じょにん及辞れい」1900ねん7がつ2にち
  6. ^ 官報かんぽうだい4886ごう叙任じょにん及辞れい」1899ねん10がつ12にち

参考さんこう文献ぶんけん

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